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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

黒革の手帖に書いてあること

2023.12.18(月)

本来ならメールに書いて送信したほうがいい件なんだけども、
メールだと読んでもらえない可能性があるので、記事にして曝すことにしたよイェイ。
なぜ読まれない可能性があるのかというと、謎の理由で消えたり開かなかったりすることがあるのでね。
アストラルサーバーの周囲に電気羊が出没していて食べちゃうのかな?

今年、というよりここ12年で最大といっていい個人的トピックがあって、
それは2011年6月にある方から予告されていたことが当たっていたということです。
2011年は兎年、2023年も兎年で、この件が完了するまでに干支がひと回りしています。
1999年も兎年でした。ぴょんぴょんぴょん、と来てるこの暦年も私には感慨深いけど、それはまあいいわ。

今年、偶然を装った仕込みによって出合った本からの示唆によって、
私は、自分のメタフィジクス(宇宙のしくみ)がカレー風味なことに気がついたのです。
どこがどうカレー風味なのかというと、
①ゼロポイントフィールド(あり、かつ、ない。虚空にして充満)を対象化して生じた「私」という意識装置は、
認識対象となった外界を、
 a.「有る」かつ「無い」
 b.「有る」
 c.「無い」
 d.「“有る”ではない」かつ「“無い”ではない」(要は「有るかもしれない」かつ「無いかもしれない」という確率の世界)
の4領域に分かれた座標として認識し創造する。
ただしa.(ゼロポ)は外界へと排除されて対象化された世界なので(結果、外界ではない側が「私」意識となる)
直接体験することはできず、いわば裏ゼロポのようなd.の確率世界を追究することでa.を知ろうとする。
この確率世界の追究が超心(高次)→心(マインド)→五感と次元下降していく契機になる。
つまり「有るかもしれない」かつ「無いかもしれない」世界を「有る」か「無い」に決着させようとする運動が起きる。
②ゼロポを対象化して生じた「私」という意識装置、いわばワンネスの「私」意識はブラフマンに、
この統一規格の「私」意識装置を使って①d.の領域で個別世界を開くハイヤーセルフはアートマンに相当する。
③「私」意識装置にはじまる認識即創造は、超心(高次)、心(マインド)、五感の感じ手である統覚意識(「私」意識)が
各層の感覚(波動)を感じることによって完成し、下位次元に伝播する(引き寄せが働く)。
伝播しない感覚(余力、ポテンシャル)はゼロポイントフィールドに還り、まっさらな素材としてリサイクルされる。
ただし五感世界は最終過程なので、感じられた感覚はそこで完了して全部ゼロポに還流する。
以上の力学のうち、認識即創造はヒンドゥー教のブラフマに、伝播はヴィシュヌに、ゼロポ還流はシヴァに相当する。
④スピリチュアルというのは古今東西いずれにしても、「神」がいて「霊」がいて「天界」があって、というように、
西洋哲学でいう存在論で説かれることが多いが、
自身が意識であると気づくことがポイントになる私のメタフィジクスはどちらかというと認識論的である。

②はウパニシャッド的であり③はヒンドゥー教っぽく③は仏教テイストです。
①は昨秋のチャネリングで知った話ですが、「A」「非A」「Aかつ非A」「非{Aかつ非A}」という論の立て方は、
鈴木大拙氏の『禅』(ちくま文庫)によるとインドの形而上学の論法だとのこと。
もっとも本格的に学んだ方にしてみたら、おまえのはカレー風味であってカレーではない、とおっしゃりたいところでせうが。
私は、カレーじゃなく、失われたエジプト→プラトン→ネオプラトニズムという系譜の地中海料理かな、と思っていたのですが。
もっとも西洋古代哲学をきちんと修めた方にしてみれば、あんたのは地中海の塩を使ったスナック菓子であって笑止なり、
てなもんでせう。まあそのへんはどうでもいいわ。
どこの海に囲まれたどんな陸の料理であれ、(水平にではなく)垂直に遡れば合流してプラーナになるんだろうから。

個人的特筆事項は、そのカレー風味が2011年6月に予告されていたということです。
2011年6月18日20時45分、ある方から私宛に電話がかかってきて、開口一番、
「インドの古典が開く」と。
ガチの開口一番ですよ? しかも清水ミチコさんが模写した極妻・岩下志麻さん風味の声色です。
そして開口二番が「メモを取れ!」です。命令形です。
日付や時刻が特定できるのは、そのメモが残っているからです。
手帳は何冊も断捨離しましたが、このときの黒革の手帳はまだ現役です。
余談ですが2004年にドラマ化された『黒革の手帖』(松本清張)は傑作でしたね。
毎週録画して、豹専務といっしょに視聴し、米倉涼子さん演じる横領犯・原口元子を応援してました。
それはさておき、電話を受けているとき、私の左耳にはリーンという宇宙音が(このころはまだ片耳だけの単音だった)
聴こえていました。
電話の相手いわく、それは宇宙船の音で、私と活動をともにしている宇宙存在が乗っており、
インドの古典の件も了解していると。
そのインドの古典なるものは、地球の波動がまだ高かったころにタブレットに書かれたもので、
原初の文献であると同時に未来的なものなのだと。
おそらく私は「はい」とか「なるほど」とか、メモを取っている人が打つ相づちみたいな言葉しか口にしていなかったでしょうが、
ふーん。てか知らんわ!ってのが心の声だったんじゃないかな。たいていそうなるよね。
情報を伝えてきた宇宙存在はソファイア@シリウスですが、
このときは「メサイア」という音に聴こえたようです。
というのは、宇宙船がソファイアの船ではなく天の川銀河船だったから、音が混じったんですね。
宇宙船というのは、乗組員の振動数と共振して和声化しているので、
船か乗り手かのどちらかが替わると周波数が変わって感じられるのさ。
ソファイアはシリウス星人ですが、職場が天の川銀河核で、このときは社用車に乗っていたので、
地球語というか日本語の和製英語変換すると「メサイア」に聴こえたわけ。
MはミルキーウェイのM、正確には「ミィオサイア」です。
ソフィア@シリウスではなくソファイア@シリウスの周波数で伝えられたということは、
その情報のソースが天の川銀河核のアカシックレコード(アカシャガルバ、虚空蔵)であり、
まだ地球語になっておらず地球人によるアレンジを経ていないという意味で原初的、
いずれの宗教、民族にも寄らない、つまりカレー風味ではあっても神様は出てこないし仏陀のようなお手本も出てこない、
「宇宙系」という角度から開かれる、その意味で未来的ということだったのでした。

それから4年後の2015年、私は同じ電話の相手から、
シリウスとプレアデスのハイブリット周波数をもつ存在から、「三位一体」についての情報がもたらされる、と知らされます。
このときも何のことやらさっぱりわからず、
三位一体といえば「(キリスト教の)父と子と聖霊」だよね、という先入観も働いてますます腑に落ちず、
父と子はさておき聖霊ってなんだろう? と横に逸れてしばらく悩み、
そのうち、どうでもいいや生活に関係ないし、と揮発してしまいました。
これは、ヒンドゥー教の「ブラフマ(創造)、ヴィシュヌ(存在、存続)、シヴァ(破壊、更新)」のことだったんですね。
宇宙系変換すると「認識即創造(ブラフマ)、伝播、引き寄せ(ヴィシュヌ)、ゼロポ還流(シヴァ)」となります。

これらの構図が見えるまでに干支一周分もの歳月がかかってしまったわけです。
しかも気がついたのは今年の夏以降という。
気の利いた人なら3日くらいでピンときそうなもんだ、とは思うものの、
私にとっては干支一周が最適のタイミングだったのでしょう。

スピ界隈では、予言が当たったり、助言が適切だったりすると、
その先生なり識者なりが「すごい!」「本物!」と評価されますが、
これって、先生と受け手の両者にとって、両方の宇宙それぞれでの当たりなんだよね。
先生にとっては、成功事例が一個増えたということで、自分の宇宙を適切に操縦できていることを確認できます。
受け手にとっては、自分に必要な情報やメッセージを、自分の宇宙に現れた先生という五感像を介して引き寄せたことになります。
逆に予言や助言が空振りだったら、先生と受け手どちらにとっても、
それはマインド帯域に自分と不適合な感覚(周波数)があることを示すデータなのだから、
不適合感覚(周波数)をはずすきっかけになります。
あるいは、不適合周波数を反転させて適合周波数帯に組み入れるか。
これは前に記事にしたことがありますが、たとえば-30の出来事から「-(不快、不都合)」というジャッジをはずして、
「+(適合)ゾーンで起きている出来事だ」と再定義することです。

そうすると、その30の出来事が+(適合)ゾーンに組み入れられて展開していきます。
「電車に乗り遅れたせいで大事な用事に間に合わなくなる」を反転させて「電車に乗り遅れたおかげで自分が
欲しかった機会を提供してくれる知人に合えた」にもっていくバシャールの例のように。
不適合感覚(周波数)をはずすと、自動的に反転が起きることもあります。
つまり先生と受け手どちらにとっても自作自演なのです。
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  1. 2023/12/18(月) 15:06:02|
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2022.7.5(火)

豹専務(同居人)が「美輪明宏 愛のモヤモヤ相談室」(Eテレ)という奇妙な番組を録画していて、
それをふたりで夕飯を食べながらぼんやりと視聴していた。
スタジオにいる一般の人(2名、ふたりとも女性)の相談に美輪さんが答える、
そのやりとりを司会の男性が補足しつつ進行させる、というような内容である。
相談者の話を聞いて、美輪さんは答えていかれるのだが、
その表情やたたずまいから、話から得られる情報以上の何かを聴きとり感じとり、
「リーディング」しておられるように見える。ずっと湛えられている微笑が、むしろ畏いブルブルッ。

相談する人は被り物で顔が見えないようにしてあるのだが、
その姿というか全体像には、通気孔のような穴が開いている、というよりは、
全体像自体が穴でできている感じがした。
穴には吸引力があって、外から見えない何か(エネルギー?)を吸いとろうとしている。
掃除機などのバキュームみたいに穴自体に吸い込む力があるのではなくて、
相談者とその周囲10cmくらいが、それ以外の景色とは雰囲気がちがっていて、
周波数の差のために構造的に吸いとり穴が生じている、そんな感じ。

この吸いとり穴は相談者ご本人ではない。
ご本人がまとっているヴァイブス(周波数)。あるいは本人に憑いているといってもいい。
「本人」というのは3次元的な表現で、これを私の宇宙景観として書くと、
テレビの画面中にある人物像が、その像本来の周波数+穴の周波数、と二重になっているということです。
芯に人物像(相談者)本来の「感じ(周波数)」があることは、私がうんとズームを引いていないとわかりません。

吸いとり穴ヴァイブスから脱するのは、手放し系のワークをやりつけている人なら簡単です。
光の磁場の広がりをイメージできるところ(統覚視点)まで心のズームを引いて、
全体とズレている穴ヴァイブスのその感じを固めるなりカプセルに入れるなりして手放せばいい。
手放すとは、ゼロポイントフィールドなり宇宙なりに還す(というイメージを描く)ことです。
自分の宇宙景観内にある他人像に憑いている穴ヴァイブスが気になってモヤモヤするなら、
「どうしたの、だいじょうぶ?」などとその人に近づいていったりしないで、
そのモヤモヤを固めるなりカプセルに入れるなりして手放す。
その人に声をかける行為が適切なら、手放したあとに自然にふさわしい言葉が出てきます。

今回の発見は、そこではない。
そこだけドヨンと窪んでいるような、バキューム付きの落とし穴のような、その穴の性質です。
ははぁ、こういうものか、という。
悩んでいる人はこういうふうに穴をまとっているように見えるのだな、というのは3次元的な表現で、
悩み煩いの正体は、こういう周波数のエアポケットみたいな穴なんだな、という。
視覚イメージでとらえたものを言葉で説明するとジャストフィットにはならないんですが、
この穴は底なしです。
「汲めども尽きぬ」の逆で、注いでも注いでも溜まらない、抜けていく、すぐ空っぽになる。
常に(エネルギーが?)足りていなくて、充電不足ランプが点きっ放し。
ただ、周囲を積極的に穴に引きずりこもうという勢いはありません。
この穴に、何かオプションの思念がくっつくと、吸引力が増幅して勢いがつくのかもしれませんが、
今回の相談者の方たちにはそういうのはありませんでした。

底なしのチャージ不足感は、不足「感」という、5次元(マインド、心のなか)で感じている感覚で、
だから上述のように心のなか(5次元)を変えるワークで手放してしまえば終わります。
でも、何かの事情で3次元のやりくりに突入してしまうと、
ゴタゴタの一切が不足「感」という感じにすぎないことに気がつくまで、穴周波数にとどまることになります。
3次元というのは、これまでの記事にも書いているように、
五感や思いの向こうに物質のような実体が存在すると想定し、
さらにその実体の原理や法則が現実を決定していると想定して、
(仮想の)実体である物や他人とのやりとりを体験する世界です。
3次元に突入すると、ゴタゴタの原因は自分の「感じ(周波数)」のミスマッチではなく、
実体でできた外環境に帰せられるので、外環境から情報収集したり外環境に働きかけたりと、
解決、解消するのにたいへんな努力を必要とします。
それが解決、解消しても、不足「感」という感じはそのままなので、
別ネタ、別バージョンで同じ煩悶を繰り返すことになります。

吸いとり穴を被っている人のトーク(その人が吸いとり穴周波数に変換して出してくる言葉)は、
これが欲しい、あれが足りないなど、要約すると「穴を埋めてほしい」という調子を帯びています。
外環境に穴解消の鍵を握っている人物がいると思われる場合は「誰それが何々をしてくれない」とか、
当該人物の気遣い、ケア、思いやり不足を責める内容になるし、
具体的な人物がいない場合は世のなかとか時勢のせいになります。
外来星人の場合は、たいてい「地球の文化風習がイカレてるせい」に帰着します(笑)。
もしくは、周りや世間一般が正しいとかふつうだとか、非がないように思える場合には、
責任追及の矛先が自分に向かい、自分の欠陥探しや、すでにおなじみの欠陥の確認反芻がはじまります。
外来星人なら「グラウンディングが足りない」「学びが足りない」とかってことになるのかな。
自分の身体、資質、生育歴、過去の特定の経験、それらを支える知識や情報なども、
じつは外環境に属しています。
外環境とは想定した実体(物質)がつくる世界全体のことで、
身体、資質、経験記憶、知識や情報等も(仮想の)実体とその法則(物理法則をベースとした常識)にもとづく概念なので。
しかし身体や身体に由来する内面としての自分が外環境に依拠しているなどということは、
病気などで「自分が自分の思い通りにならない」場面に至らない限りあまり意識しないので、
自分へのハラスメントにはなかなか気がつきません。
他人や世の中を責めるのも自分を責めるのも「外環境に穴解消のノウハウを求めている」点では同じです。
ちなみに、私とつながるあるリラ系星人は、地球人の自分へのパワハラ、モラハラの多さに驚いていました。
3次元という思念BOXのなかで身体と心を持った憑代(よりしろ)をつくり、
これがなぜか憑代自身を苛めていると見えるみたいです。
しかも状況によっては謙虚さを演出したり周りの人にケアを促すために行われることもあり、ややこしいな、と、
未来人が平安貴族の蹴鞠や歌合せをのぞいて「おもしろさのツボはどこ?」と言ってるような口ぶりでした。

あれが欲しいこれが足りない、あるいは何かが欲しい何かが足りない、
このヴァイブス(周波数)は、よいものでもわるいものでもありません。
この周波数をきっかけに、心のなか(5次元)で足りている世界を描けば引き寄せに使えるし、
この周波数を手放せば自身の波動アゲにも使えるでしょう。
オカルトに走るのがイヤなら、この周波数を機に哲学や心理学の方向を探ってみることもできるし、
その探究によって結果的にオカルトとの境界線を越えてしまうこともあるかもしれません。
本当のところ、3次元の実体世界が絶対確実なのではなく、
3次元の実体世界も含めて全部心のなかで創造している5次元現実なので、
心の扱いかた次第でどうにでもなるのです。


吸いとり穴を被っている人のなかには、この穴を活用して穴を脱ぐ人もいます。
一方、つらい、しんどいと言いながら、同じ状況にいる仲間と励まし合ったり、
外環境へのチャレンジと克服を通じて自分の「成長」を確認したりするために、
あるいは心のなかに住んでいる因縁の誰か、何か(親族、学校、会社など)に報復するために、
当分、穴と一心同体でいたい人もいます。
後者も、べつにわるいことでも愚かなことでもなく、無数の選択肢のなかからその体験を選んでいるだけ。
ズームを引いてみると、こういう人はむずかしいパズルに夢中になっているのだとわかります。

今回のモヤモヤ相談室は、
「天国も地獄も胸三寸」というフレーズで締めくくられていましたが、
これ、心がけや教訓話じゃなくてガチでそう。

<テレビ番組のデータ>
番組名/美輪明宏 愛のモヤモヤ相談室
放送日/毎月最終金曜日 22:00~22:25
放送局/NHK教育テレビ(Eテレ)
案内人/高瀬 耕造(NHKアナウンサー)
ゲスト/美輪 明宏
  1. 2022/07/05(火) 14:18:28|
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微妙な感覚

2019.9.30(月)

一昨夜、『失われた時を求めて』(プルースト/吉川一義・訳/岩波文庫)の「ゲルマントのほう」後半
(岩波文庫だと7巻)にチラッと出てくるスフィンクスのことがなぜか気にかかり、
ネット検索してスフィンクスに関するうんちくネタを楽しんでいたら、
そのあと、瞑想していたときに、非3次元エジプト世界に降りていました。

非3次元エジプト世界とは、物とその広がりや変化を前提とする3次元の歴史学、考古学では
特定できないし、特定する必要もない、という意味です。
同じく3次元の天文学では特定できない非3次元アルクトゥルス世界とか、非3次元シリウス世界とかも
あります。
なぜそこを「エジプト」と呼べるのかというと、その世界の「感じ(周波数)」が、
私の中程度の感覚(マインド)で感じられる概念、五感的感覚で感じられる言葉の音や形と呼応し、
それが名前として、象徴として適していたからであり、
3次元サイエンスないし3次元スピリチュアルで説明できる客観的根拠は何もありません。
そこは、石でいうとラピスラズリか、ホークスアイのような、藍色系の世界で、
垂直的、幾何学的な方向をもっています。
私は空洞で、どうも中身ががらんどうの巨大や像か建造物のようだ。
すべてが突如出現して、でんと居座ってる感じで、微動だにしません。
とにかく動けないし、動く必然性もなさそうなので、瞑想が終わるまでそのままでした。

つづいて昨日。
地元の音楽愛好団体の演奏会を聴きに行った帰り、徒歩で自宅に向かう途中、
道をまちがえて10分くらい余計に歩いてしまい、
ほどなくして正しい道に出た、と思ったら、
何度も通って知り抜いているはずの道と、その周囲の光景が、
まるではじめて出合ったかのような感じがしてきました。デジャヴュの逆です。
なにこれヘンなの、と思いつつ歩いているうちに、どうも道を端折ったらしく、
というのは、まだまだ遠くにあるはずのコンビニがすぐ現れたからですが、
いつもより10分くらい余計に歩いているはずなのにもかかわらず、
いつもより短い時間で自宅に着いていました。
テレポーテーション、と言ってしまうと、すごく「超」常現象的な印象になってしまいますが、
そんな超常感、非日常感はなく、意図せずして近道ができた、くらいの実感です。

ふたつの出来事に関連があるのかないのかは、自分としてはどうでもよく、
非3次元状態になると、
こちらからは何も働きかけていないのに対立していた人と和解したとか、
こちらからは求職していないのにやりたい仕事のオファーがあったとか
そうした生活上の変化、人生の転機みたいなことへの着目度、関心が薄れ、
というのはとくに奇蹟ではなくなって、わざわざ3次元に戻って驚いたりしなくなるからですが、
それまでだったら「なんか不思議なことあったけど、生活に関係ないし」で通過していた、
微妙な感覚(高次)の動向の印象が強くなるのだな、ということに感慨を覚えました。

「微妙な感覚」という言いかたは、五感的な濃い感覚と比べたときの表現で
(五感的な感覚と微妙な感覚の中間が、思考や感情などの中程度の感覚すなわちマインド)、
それも3次元にリアリティがあるときの物理感覚、つまり、
「“私”が感じる以前に物があって、それが連続的に広がり、変化する」という「考え」を受け入れて、
その「“私”が感じる以前に存在する物」なるものを感じているときの物理感覚にもとづく尺なので、
3次元世界的な言い表しかたです。
非3次元状態になると、
「微妙」とか「淡い」というより、思考、感情などのマインドや、五感的な感覚とは性質の異なる感覚と
言ったほうが正確かもしれません。
たとえば氷が、水や水蒸気とは感触がちがうように(一見、逆と思えるかもしれませんが、この喩えでは、
固い氷が高次の感覚、水蒸気が五感的感覚です)。
非3次元状態でとらえた「微妙な感覚」は、クリアな夢を見ているときのように、
精緻にピントが合ってる感があり、夾雑物がないという意味で透明度が高く、明晰です。

生活を、人生をなんとか変えたいという目論見をもって、
問題を解決し、諸事を順調に運ぶためのサイン、啓示を読もうとして、微妙な感覚を待ち受けていると、
微妙な感覚のクリアさ、明晰さはわかりません。
そして、生活、人生をなんとかしたいと目論んでいるということは、
客体‐空間‐時間思考システム下でしか展開しない生活や人生を、ただいま絶賛実行中ということ、
すなわち客体‐空間‐時間思考システムという「考え」がつくる3次元がリアルだということですから、
現況は容易には変わらないのです。
「“私”が感じる以前に物があって、それが連続的に広がり、変化する」というルールのもとでは、
「私」はさまざまな人や物にグイグイと働きかけて環境を変えていかないといけないからです。
生活、人生に着目していると、微妙な感覚が微妙でしかなくなるのは、
この客体‐空間‐時間思考システムという「考え」に阻まれて、とらえづらくなるからです。
生活も人生も、それらをやめてはじめてうまく回り出すというか、
うまく回すという着想自体が不要。

3次元というのは、客体‐空間‐時間思考システムという思考でこしらえ、
それに合わせて編集した五感的感覚を活用してもっともらしさを与えた世界です。
客体‐空間‐時間思考システムから脱して、
「“私”が感じる以前に物があって、それが連続的に広がり、変化する」という3次元思考をやめると、
3次元という思考世界の操作を受けない生の五感的感覚が蘇生します。

この新鮮な五感的感覚には、微妙な感覚と、
客体‐空間‐時間思考システムに操作されていない中程度の感覚(マインド)が載っており、
いわく言いがたく玄妙で豊かな響きをもっています。
このように、コヒーレントな感覚宇宙のコーダ(曲の終結部)としての五感的感覚が蘇ると、
空を見上げたり、空間を凝視したりして、不思議を探す必要はなくなります。
いつでもどこでも不思議なので。
そして、人生や生活が消えるとともに、悩み、煩いもなくなるのだ。さいなら~。
  1. 2019/09/30(月) 16:29:39|
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テレポーテーション?

2019.1.21(月)

きのう、テレポーテーションした?っぽいです・・・。

図書館からの帰り道、途中の道が大幅にカットされて、
はっ、と気がついたらけっこう自宅の近くにいたのです。あれれ。
じつは昨年の7月にも同じ道、同じ場所で、同じことがありました。

昨日は時間を測っていませんが、
昨年7月のときには、たまたま図書館内で時計を見ていたので、
ないないない、暑くて自分がぼーっとしてたんだろ、と思って、帰宅して時計を見たら、
ふつうに歩いて片道約20分かかる道に、40分もかかっていました。
途中で立ち止まったり、どこかに寄ったり、歩く速度を落としたりはしていません。
なんかテレポーテーションした意味なくない?
なので、このときは、空白の20分間はどっか異界にいたのかな、と。

テレポーテーションって、アニメやドラマ、映画、漫画、小説とかでは、
人間、もしくは動植物や物体が空中にスッと消えて、別の場所にスッと現れる、
というように描かれます。
これは、他の作中人物から見た光景、
あるいは視聴者や読者に説明するための、視聴者、読者目線の光景、
つまり他の作中人物や視聴者、読者の「私」視点から描かれている、ように一見、思えますが、
実際にはそうではなくて、
制作者が、「もしテレポーテーションが起きるとすれば、誰から見てもこんなふうになるだろう」
と、おそらくは無自覚に客観的な第三者視点を設定して描いています。
この第三者視点というのは、
認識即創造の視点である「私」を「物体の一部(身体)」に制限する客体思考をベースに、
同じように物体世界に投げ込まれ、物体固有の法則に縛られる人間が大勢いる、
その人たちにとって空間の広がり、時間の流れは一律である、とする、
客体‐空間‐時間思考システム(仮想集合システム)に則って設定された見かたで、
本当は第三者視点なんてものはありません。
どんな出来事、現象であれ、体験当事者各人の「私」が感じることによってしか
認識できないのです。
そして「私」が感じることでそれは出来事として現れるので、認識は同時に創造です。

このようなことを書くと、物自体の認識の可否を問題にしたカントを想起する方がおられる
かもしれませんが、カントは「物体なんてものはない」などとは言っていません。
カントはまっとうな哲学者ですから、「人は物体があると認識できるが、本当にその対象が
実在するかどうかは誰にもわからない。みな自分の認識による世界しかわからないのだから」
と、ちゃんと「わからない」で踏みとどまったのです。
しかし私は非哲学徒で、そのカントの著作も読んでない輩ですから、
「物体なんてものはない」と、物体の実在可能性をばっさり切り捨ててしまいます。
理由は、「物体が実在するとすると、金属曲げなどのあからさまに物体に作用する能力を
説明できない、もしくは、できる人とできない人がいる、できるときとできないときがある、
といった再現率のばらつきを説明するのがむずかしい」ということで、以前にも書きましたが、
込み入っているのでここでは詳述しません。
もっと端的にいうと、「物体があるとは感じられないから」です。
もうずぶずぶにデムパになってしまって、
私バージョンの世間が「物体」と呼んでいるものは、
「私」が感じた濃い感覚(濃い周波数)からなる物理像としか感じられなくなってしまいました。

さて、冒頭に書いた出来事は、「私」視点の個宇宙でとらえた場合、
①視覚を主とする濃い感覚が突然、途切れて、別の濃い感覚に変化した。
(前の物理像から移動先の物理像に、徐々に変わるのではなく量子飛躍した。)
②連続的に形成していた記憶が突然、途切れて、連続場面の途中をショートカットした
直近過去場面(直近過去とは一般的にいう「今」)にいた。
という2つのケースが考えられる、と思っていたら、
ソフィア@シリウスから「その2つを区別することにどんな意味が?」と指摘され、
2つは同じなのだとわかりました。
②は、①の濃い感覚(物理像)レイヤーの現象を、マインドでプロセスを導入(思考システムに
よらない自分版の時空間概念を使うこと:前後関係や速度は自在)してとらえたときの記述です。

瞬間移動も、瞬間でない移動でも、場面の移り変わりというのは、
当事者がどんな時間概念、空間概念を使うかによっていて、
「どんな場面も連続的にしか変わっていかない」と定義すれば物理像はそう見え、
飛躍的変化があっても何らかの連続性が見い出されるし、
「どんな場面も飛び飛びに(量子的に)変化する」とすれば、
前者が連続的と見ているような場面の流れでも非連続になる。
なお連続しているとか非連続とかいうのはマインドの感じかたで、
物理像には端的に濃い感覚しかありません。
時間思考、空間思考はマインドのツールで、システムに縛られなければ、
それらは遊び道具です。

私は、同じ場所で同じ体験をしたのですが、家に帰ってから思い出したことがあって、
そういえば、テレポーテーションぽいことがあった道は、むかし、猫を保護した場所でした。
2016年冬に帰星した、通称「おじさん」です。
(おじさんは私版の宇宙でメッセンジャーとして活躍中☆コードネームは「ベコ」)
  ↓
自撮りおじさん
そこはなんかゲート的というか、その種のことが起きやすいのかもしれない。

こういう不思議な出来事って、自分の「私」視点にいると、一瞬あれっ? となるだけで、
たいして不思議感はないですね。平熱です。
不思議に感じられるのは、
こういうことを超「常」現象ととらえる思考システム側から見ているからで、
私もまだ思考システムになじみがあるので、一瞬あれっ? になるんだけど、
すっかり「私」回帰したら、もう気にも留めないかもしれません。
  1. 2019/01/21(月) 17:45:56|
  2. デムパ話
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自己承認欲求のない世界

2018.5.30(水)

朝、唐突に、自己承認欲求のない宇宙? 世界? が出現するさまを、象徴的にかいま見た。
凹面状にへこんでいたポッドのような白い物体が、ぽむん、と弾んでもとに戻る、みたいな。
一瞬、かつ永遠、みたいな間(ま)に、あーこれすばらしいーと感じ、
次の一瞬、かつ永遠の間に、待ってよすばらしいってなにこれがふつーなんですけど?
とツッコミが入る。

自己承認欲求が皆無の世界は、
自分から働きかけなくちゃ、という行動強迫が皆無の世界でもある。

自己承認欲求とは、文字どおり、自分を承認したいという欲求。
一般的には、他者に認められたい、というふうに受身形をとるわけだけど、
さまざまな顔ぶれによる、幾たびもの承認のはてに行き着くのは、
自分が自分を認める、自分YESなので、結句、求愛の相手は自分自身である。
で、求めているからには得られていないということ、
まだ自分を承認できていないから、承認したいという欲求が起きる。

自己承認欲求は、いろんな形をとって現れる。
自分の言動、制作物、チョイス、コーディネートに対して称賛や共感を求めるといった、
わかりやすいパタンのみならず、
人の言動や態度を批判したり、集団のしくみを批判したり、批判する人を批判したり、
あらかじめ自己卑下しておくことによって他者からの批判をかわしたり、
あるいは自己卑下によって他者からの関心を集めようとしたり、
権力や権威や、むきだしの暴力によって、強引に認めさせようとしたり、
特定の相手への親切やケアによって、その人との依存関係を構築しようとしたり、
すでに亡くなった親や、何十年も会っていない学校の先生や先輩に対し、
自分の正しさを証明しようとする思考パタン、行動パタンを繰り広げたり・・・などなど、
表現のヴァリエーションはじつに多彩だ。
↑高次帯域のentity視点からだと、こういうのは曲芸に見えると思う。
 私のアストラル業務をサポートしてくれているサイラス@ベガみたいな純粋培養星人
 にはガクブルかも。一方、ゼータ星人は興味シンシンかも。

言葉とか行為とかで表される自己承認欲求は、そのように多彩な表現になる、けれども、
形にならない周波数帯でそのエネルギー的形態を見てみれば、
「欠けている」だけである。
冒頭に書いたような、凹面状の何か。
この凹面部分が「欠けている」という思考、感情、気分の(マインド状態の)象徴である。

このたわみが、あるとき、ぽむん、と、もとに戻る。
ぽむん。
アセンションってこれだけだと言ってもいいかな。
あらかじめ承認が与えられまくっていて、
自分を認めてもらうためには何ひとつせずともよく、居るだけでよく、
何かを為す動機は天からの促し(循環するZero Point Fieldのフォース)しかない。

この景色がどんなものか、凹面時代には想像できない。
「欠けている」状態を充たそうとする欲求が行動の、表現の、創造の原動力となっていて、
それなしには無気力とか停滞とか、
ともすると、多数を不足状態に留めておいて操ろうとするハードな管理社会が訪れる、
といった方向でしか思い描けない。
というのは、それはある程度、経験記憶や歴史が証明していて、
それらは、凹面状態で探れるアストラルデータが集まって記憶化された、
凹面時代の経験記憶や歴史だからである。
ぽむん、ともとに戻ったときに、
この経験記憶や歴史が凹面状態という特殊な精神状況で物語化されたものだということが、
はっきりわかるだろう。

あらかじめ承認されている完全な自己(エゴ)を通して、ZPFのフォースが具体化していく、
その状態を、スピリチュアル業界用語を使った言い回しでは、
「無条件の愛がめぐっている」ともいう。

通俗心理学などでは、
あらかじめの自己承認の基盤となるのは、両親からの愛情であるという。
ばかいっちゃいかんよ。何言ってんだ。
両親が何の期待もなくわが子を承認してるわけないじゃん。ハードル上げすぎ。
地球人の親でインナーチャイルドやインナー思春期やインナーミドルが癒されてる人なんて、
ほとんどいないじゃん。つか、いつの時代もむしろ満身創痍じゃん。
仮に親になった人が凹面じゃなくなっているとしても、
それが他宇宙(子ども)に自動的に伝播するというものではない。個体宇宙は個別だから。
何らかの形で無条件の自己承認への機会を提供するかもしれないけど、
それを機会とするかどうかは、子ども側の宇宙の問題だ。
きっかけが何であれ、自分が自分(の宇宙)によってすでに承認されているということには、
自身で気がつくしかない。そうじゃないと気づいたことにならないし。

にしても、5月のエネルギー模様、
マインド帯域の「気分」のあたりでバタバタしたりテンポが揺れたりして、
けっこうしんどかった。
それが朝の幻視的イメージですっと晴れた感じ。あっけなく。
  1. 2018/05/30(水) 21:46:45|
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