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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

不思議が詰まった本

2023.12.9(土)

11月12日(日)に開催された図書館のリサイクルフェアで入手した『あるヨギの自叙伝』(パラマハンサ・ヨガナンンダ
/SRF=SRF=Self-Realization Fellowship)を、先月末に読了しました。
以下、敬称略で紹介します。
インドからアメリカに渡って瞑想と中心としたヨガを広め、予め知った日に瞑想したまま昇天するマハーサマディーを
成就した20世紀のヨギ、パラマハンサ・ヨガナンダ(1893.1.5~1952.3.7)の自叙伝を縦軸に、
彼の師であるスリ・ユクテスワとの出会いと交流、、さらにその師であるラヒリ・マハサヤの伝記を織り込み、
性別や境遇、宗教、特徴もさまざまな聖者やヨギのエピソードを記した本です。
20世紀には、インド地域からいろんなヨギ、哲人がアメリカやヨーロッパに渡りました。
ジッドゥ・クリシュナムルティ、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー、バグワン・ラジニーシなど。
その先駆けといっていいかもしれません。20世紀後半の精神世界ムーブメントが起きる前に昇天してしまわれたので。
精神世界関係者以外では、科学者のチャンドラ・ボース(同名のインド独立運動指導者とは別の人物)、
インド独立に献身したモハンダス・ガンジーが登場します。
2段組みで550ページくらいある本ですが、ぐんぐん読み進められます。
というのは、まず文章が非常に読みやすく、わかりやすいから。
原文だとどうなのかわかりませんが、日本語だと、小学校高学年向けの創作童話とか、岩波少年文庫とかの文体なんですね。
全部で49章に分かれていますが、各章が比較的短く、1章ずつ読み切りみたいに読める構成です。
著者や著者の先生、聖者の写真、イラストもたくさん収録されています。
私がこれまでに読んだ精神世界系の本のなかでは、これがいちばん読みやすいのではないかしらん。
お説教くさくはなく、かといってカジュアルダウンしすぎでもなく、
国内外の政治や社会の問題を視野に入れつつも深刻になりすぎることなく、
このバランスのよさも内容の理解を助けていると思います。著者が意図したのではなく、おそらく天然でしょうね。
要所を押さえつつオタクに走り過ぎない、ニワカ(初心者)に優しいバランスのよさという資質は、
著者に課せられていたという東西文化の架け橋となる役割に活かされている気がします。

本書に出てくる超能力や超常現象は、ヒーリング、分身、空中浮揚、物質化(空間から物をとりだす)、不食など、
たいへん華々しい。20世紀の終わり近くになって話題になる現象が、すでに全部出揃ってます。
読んでいて、1990年代に日本のメディアで取り上げられたサティア・サイババを思い出しました。
ちなみに『ムー』2016年6月号(No.427)の不食特集号にさらっと出ているギリバラやテレーゼ・ノイマンの記事は、
本書が元ネタであり、
それぞれ1章さいて詳しく書かれています(46章「断食50年の女ヨギ」、39章「カトリックの聖痕女テレーゼ・ノイマン」)。
瑣末なことですが、テレーゼの体重が、ふだん硬貨くらいのボリュームの聖餅1個しか食べないのに55kgあって、
キリストの受難を追体験するというめちゃハードな超常儀式(毎週!)のあとでも5kg減つまり50kgだというところに、
プラーナとか宇宙エネルギーの威力を感じてしまいました。
少食なのに太りやすいとか、がっつり3食以上食べてるのに痩せているとか、この燃費の差って何なのか、
遺伝子だけで決まるものなのか、人体って不思議ね。って下世話でサーセン。
そういう不思議な人、現象の数々が、資料からの採取や伝聞ではなく、本人に会いました、その場で起きました、
という現場ルポとして、あるあるだよね、だってここはインドだもの、というような平熱テンションで語られていきます。
さらに、何世紀にもわたって身体を保持して生存しているという、西洋のサン・ジェルマン伯爵みたいな人も出てくるし、
蘇生や復活も、習練と神々の応援があればできるっぽい。
そもそも著者ご自身もマハーサマディを遂げた方ですからね。

そのように多様で多彩な不思議話が気前よく開陳されているのは、
ヨーガってすごいだろ、インド哲学えっへん、と示威するためではなく、
限られた地域の限られた文化集団のなかで師から弟子へと伝授されてきた修法から秘教アロマを払拭し、
19世紀から遠巻きに関心を持ってきた西洋の人たちに、ヨーガのエッセンスを広報するためだと思います。
ヴェーダやウパニシャッドや仏典よりも聖書からの引用が多いのも、宗教で壁をつくらないということもあるでしょうが、
信徒にせよ非信徒にせよキリスト教に馴染みのある西洋の人たちにわかりやすくするためだったのでは。
出版されて後、本書は英語や欧州各国の言語だけでなく、タイ語、中国語、日本語などにも翻訳され、読まれていきます。
ああ天竺。ゼイセイイットワズインインディア。なんか玄奘三蔵を思い出してしまいました。

むろん、ヨギや聖者といっても玉石混交で、インチキな人もいれば、何らかの超能力はあっても精神的に残念な人もいる。
そのことには著者も言及しています。
また、ヨーガの修行が進んでいても超常方面には行かない人もいるし、
慈善などの社会活動をしたり、職業を通じて世のなかとかかわる人もいれば、
誰とも会わず弟子もとらず、まったく独りで瞑想や神との交信に没頭している人もいると。
でもヨーガをはじめインドの精神文化を異文化圏に紹介するにあたって、
どうしても超常方面にウエイトを置かざるをえないのは、
西洋のみならずご当地インドも含めて地球社会一般的に、大勢の人が自然科学では説明できない超常方面に心惹かれ、
そちらが注目されるからでしょう。
裏返すと、物の実在と物固有の法則の絶対性が広く深く浸透し根づいているということです。
外から観察したら、科学は地球で最も浸透し普及した哲学と見えるでしょう。

ところで、むかしの聖賢たちは、食欲、色欲、金銭欲、物欲、所有欲、名誉欲その他の欲を煩悩とか執着と呼んで、
離欲を推奨してきました。
それは道徳や倫理に沿うためではなく、エネルギーを浪費しないためです。
欲を充たそうとすれば大量のドーパミン、充たすことそのものによっては大量のエンドルフィンが出て、
この場合、ドーパミンとかエンドルフィンというのは喩えですけども、刺激が強く、振幅が激しく、いわば麻薬的で、
充たされれば依存を起こし、充たされなければストレスになる。
充たされても充たされなくても消耗します。
また、この低い波動域で自覚される自我とは、何ができ何を所有しどんな集団に属しそこでどんな立場を占めるか、
といったスペックの集まりにすぎず、それらを保持しようとするのも欲のひとつでやっぱり消耗するから、
これも手放すことが推奨されます。
「私は(  )である」というときの術語を構成するカッコ内が、この意味での自我に当たります。
主語の「私」は一人称の意識、統覚意識であり、アートマン(ハイヤーセルフ)、ブラフマン(「私」という観察装置。
全ハイヤーがこの装置を使っているという意味でワンネス)につながる
のですが、
カッコ内のコンテンツに振り回されているとそれがわかりません。
ともかく欲にしても自我にしても強烈で荒々しく波動が低いわけで、
ここに関心を向けていたり、依存してとらわれていると、
じつはずっと無尽蔵に存在している精細なエクスタシー(サマディー)が感じられなくなってしまうぞよ、という。
濃い味に慣れてB級C級舌になっていると料亭のなんとか御膳をいただいても「薄い」としかわからない、みたいな。

ところが、1980年代あたりから21世紀にかけてのニューエイジやスピリチュアルのムーブメントでは、
ワクワクとか引き寄せとかイケイケ風の思想が喧伝されるようになり、むしろそっちが流行ります。
これ、じつは実践するには一時的にでも唯物思考(3次元)から解放されないといけないので、
その唯物離れを感性的、直覚的に何度も体験することによって、高波動のエクスタシーに慣れ親しんでいこう、
それによって欲の質も変化し、B級C級嗜好が本物志向に変わるだろう、という作戦です。
デビルなポテチ→ふつうのポテチ→うすしおポテチ→オーガニックなうすしおポテチ→じゃがいも料理、みたいに。
この着想は、既存の宗教の密教的部分と接続し、ニューエイジの前駆のようなニューソートを継承しつつ、
いずれの宗教とも民族とも無縁な「宇宙系」という角度からもたらされました。
なので、善悪ジャッジによる聖俗の乖離や、
離欲、脱欲思想と世俗道徳との相性がよいために前者が後者に呑み込まれて歪曲、矮小化してしまった、
といったこじれ状況を迂回して、
個々人の現在地がどこであっても、とにかくその現在地からはじめて波動をアゲようぜ、という目的を示すことができました。
細かいことは置いといて、さまざまな宗教や思想に共通する周波数を見ていこうとする『あるヨギの自叙伝』の融合志向には、
現在のフュージョン状況の原型が読みとれます。
ヨガナンダは本当に地球発のマスターなのでしょうか。
マハーサマディーのあと、白いジャンプスーツに着替えて円い乗り物に乗り込んだんじゃないかという疑惑が濃厚です。
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  1. 2023/12/09(土) 13:36:18|
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読書と波動

2023.10.10(火)

つまらない本、どうしますか?
がんばって読了しますか? どこまでならがんばってみようと思えますか?
というような話の動画を見たとき、ふぅむ、3分の1くらいがギリかな? と思った。
本当は、イケそうかどうかの判別は5ページ以内くらいでつくのである。
まえがきや目次で、こりゃあかん、と即決できるものはそこで止すからいいんだけど、
ちがったわ、とわかるまでに数ページを要するやつがくせもの。
つまらない、かも? と感じながら、なぜ3分の1まで引っ張ってしまうのか。
それは、ケチだからよ! コストもしくはタイムパフォーマンス上から採算をとろうとしているから。
ケチはいかんぞケチは! 運気によくないぜ。
演劇やコンサートとちがって、どんなにつまらなくともとにかく休憩時間が来るまでは座っていないといけない、
というような気遣いはいらないのだから、合わなかったらさっさとやめたらいいのに、
どうもそのへんの潔さ、思い切りが弱く、未練がましい。
私の場合、出だしでおもしろかった本が途中からつまらなくなることはあっても、その逆はない。
なので3分の1まで引っ張るなんてムダ。

とはいえ例外もある。
ドストエフスキーの『賭博者』(原 卓也・訳/新潮文庫)という小説、これは文庫で240ページちょっとの中篇で、
この作者の長尺ものに比べたら全然短いんだけど、3分の1以上進んでも人物の背景とか関係がよくわからず、
5、6回、トライしては投げてしまっていた。
用事で旅行したとき、新幹線の車中で読むつもりで買った記憶があるけど、リサイクルに回さず手もとに残ったのは、
途中で止めてモヤっとしていたためにかえって見切りをつけられなかったのだろうか。
これ、じつは後半にならないとおもしろくならないのです。
「お祖母さん」という人物が前面に出てきて、バクチ(ルーレット)で張りまくるところからが真骨頂。
ということが7回目くらいのトライでわかって、そのときようやく読み終えることができた。
こういうのって、現代の日本の出版社だったら、たぶん編集者に受け入れられないと思う。
冒頭にバクチの場面を提示して、そこから過去に遡る構成にしろとかって言われるんじゃないかな。

さて、いま『龍樹』(中村 元/講談社学術文庫)という本を読んでいる。
「縁起」や「空」を説いた龍樹の思想を、『中論』を中心に探究した本。
なんで買ったのか憶えてない。謎。
世界史の教科書か何かで名前を見て龍樹! カッケーと思ったのはウロっと憶えているけど。
むかしの宝塚歌劇のショー『BLUE MOON BLUE』で、リカちゃん@紫吹淳さんが演じたナーガがむちゃくちゃキモキショ
かっこよかったのは憶えているけど(「龍樹」は「ナーガールジュナ」の漢語訳)。
この本が、なんと、もう3分の2ほど読めている。
かつて2回くらいページをめくってみて、
小乗仏教諸学派のちがいとか、その牙城である説一切有部(せついっさいうぶ)への論駁とか、
とことんどうでもよいって感じで、
有部が実在すると主張した「もの」とは経験的事物のことではなく、それ自身の本質(自相または自性)のことである、とか、
存在をあらしめる「ありかた」を「もの」と呼んだ、それは「法(ダルマ)」と同じだとか、そのへんも激しくどうでもよく、
さらには、「すでに去ったものは去らない、未だ去らないものものも去らない、<すでに去ったもの>と
<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない」
といった文章もその解釈もどうにもめんどくさく、知らんわ!って感じで、
3分の1どころか5分の1も行かないうちに閉じてしまった。
で、もう開くことはないんじゃないかと思いながら、処分せず保管していた。なぜなんだ。名前の力いまだ健在?
しかし今回、ばっちり理解しているなどとは言わないが、気が向いたときに数ページずつのペースで、
半分以上進んだのである。よくやった。自分をほめる。
とはいっても、がんばっている踏破している感じはない。
どうでもよい、関係ないと思えたものに関心を向けられるようになる、そんな日が来るんだ、そんなことってあるんだねえ、
みたいな、驚きまじりの感慨がある。

『中論』の縁起説というのは、
まずモノがあって、モノ同士の間に因果関係などの関係ができて森羅万象となる、のではなく、
森羅万象がいきなり関係を織り込んだ現象として現れる、という考えかた。
パッと見、個々にモノがあって、そのモノの本質があるかのように見えるけれども、
それは関係から導かれた見えかたで、モノも本質もない、関係だけだと。
その関係(縁起)だけ、本質はない(無本性)ということがすなわち「空(くう)」だと。
本質がないのであれば、本質のちがいによって個々に分けられるモノもないことになります。
たとえば、先に親がいて(原因)子(結果)が生まれたのではなく、
親というのも子が生まれなければ親ではないのだから、
親子というのは最初から関係でしかなく、どっちが先でも後でもなく、相互に定義し合っている(相互限定)と。
で、AさんとBさんが親子だとすると、
「親」がAの属性だったり、「子」がBの属性だったりするのではなくて、
親子という関係において、対の一方がAであり、もう一方がBである、それだけってことです。
で、AもBも親子関係以外にもさまざまな関係を担っており、
AとBというのは、そうしたさまざまな関係の結節点であって、固有の個性を持った存在ではないとされます。
そういうことが、『中論』をはじめいろんなテキストに沿ってああだこうだと説明されていくのですが、
そのロジカルに推移していく文字の連なりを読んでいると、
透明な膜に溝や山や大小さまざまな凹凸ができて織りなされる、
一定のパターンで構成された幾何学模様を見ているよう。
どこまでもフラットで、奥行き、厚みがない。
本を読んでいるというより、抽象的な映像作品を鑑賞している感じがする。
この本を買ったのは2010年代の前半だけど、
たちまち気が散って閉じていた当時とちがって、興味を維持して読み進めることができている、
ということは、自分の波動(感性)がずいぶん変化したのだな、と思う。
なんとなく、ピアノ音楽を好きになったことと何か関係があるのかもしれないと思う。

『龍樹』と並行して、『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』(中島 義道/角川文庫)
という本も読んだ。
これも、芳林堂書店のブックカバーをかけたまま、十数年放置していた本。
かつて私は、いつかはわからないけどいずれ誰でも(自分も)死ぬ、ということを、絶対起きる事実ととらえ、
なら、その時機が来るまでどう過ごしたら納得できるだろうか? と考えていた。思考の主題にしていたというか。
納得できるというのは、私の場合、自己満足できるという意味である。
それで、「どうせ死ぬ」と赤裸々に言い切っている中島氏の本を何冊か読んだ。
前世紀末から2000年代の後半にかけてのころ。
でも同時に、浅見帆帆子さんの『あなたは絶対!運がいい』(廣済堂)とか『ザ・シークレット』(ロンダ・バーン/角川書店)
なんかも読んでるのw 何考えてんの、って感じ。
帆帆子さんは文章がうまいのに感嘆していた。
こういうふつうの作文みたいな文章で伝達力がある文章って意外と書けないよ。
さくらももこさんの漫画を読んで、こんなんだったら私でも描ける、と思って描こうとするとどっこい描けない、ってのと同じで。

『どうせ死んでしまうのに~』が3分の1も行かずに止まってしまったのは、
これを買ったころにそろそろデムパがかってきて、好奇心と疑惑が渦巻く混沌の海に突っ込んじゃったからだと思う。
しかし、今回じっくり読み通してみて、
そもそも自分には生きるの死ぬのというテーマがちゃんと刺さっていなかった、
「望んだわけではないのに生まれさせられ、いつかはわからないけど、いつか必ず死んでしまう」
という理不尽さに射抜かれてなどいなかったのだ、ということがわかった。
私は「生きている」いう実感が希薄で、「人生が出来上がっていく」とか「成長していく」に至ってはリアリティがゼロである。
生きていることの臨場感、リアリティが弱ければ、その生きている状態が停止する死に対してもリアリティがない。
そのことがわかって、ああそうだったのか、と腑に落ちた。
世間一般で「生きている」と言われているこの感じは夢なのかもしれないぞ、というのが私の実感である。
夢から醒めたら、「“生きている”と言われているこの感じ」とは別の感覚が広がっているかもしれないし、
まったくの無感覚かもしれない。
まったくの無感覚なんてあるのか? 無感覚も感覚のひとつでは? という疑問もあるが。
ともかく醒めたあとのことは醒めてみないとわからないが、
「“生きている”と言われているこの感じ」が夢っぽいことはたしかです。
ひとケタの幼少期からそうだった。
幼少期は、周囲全般に根拠のない疎外感を感じていたのと、あれこれ幻覚(?)を見ていたせいで、
その夢が悪夢だったけど、それがBADではなくヘンな夢、奇妙な夢という感触に変わっていき、
ああ「この感じ」って単にそういう「感じ」だよ、その「感じ」が変わるってことが波動が変わるってことで、
波動が変わればリアリティが変わる、と気がついて今に至ります。
  1. 2023/10/10(火) 14:50:20|
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自己肯定感について

2023.6.29(木)

ユーチューブ動画で山川紘矢さんと山川亜希子さんの「スピリチュアル学校」シリーズを何本が見たあと、
亜希子さんが書かれた『宇宙で唯一の自分を大切にする方法』という本を図書館で借りて読みました。
この本は、とてもやさしく書かれていますが、プレアデスの長老チックな深みと親しみがあり、
自己肯定感のないことがセルフアセンションのキーブロックになっている人にはお薦めです。
2005年に大和(だいわ)書房という出版社から発刊された本ですが、2016年に角川文庫になっています。
ほかの方との対談動画で、亜希子さんは「自己肯定感という言葉は好きじゃない」とおっしゃっていた憶えがありますが、
私個人的には抵抗はなく、便利なので、申しわけありませんがこのワードを使わせていただきます。

キーブロックというのは(たぶん)私の造語で、流れをせき止めている堰(せき)の要石みたいなブロックのこと。
気持ちや気力が落ち込むとドバッとはびこったり、
問題は交替しても、長年にわたってずっと牢名主のように居座っていてせっせと新作の問題を創作していたり、
本願が成就しそうになると「ケケケ」と絶妙なタイミングで壊しにやってくるアレ。
なっかなか正体がつかめず、しつこくてイッキにはかたづかず、こいつがラスボスなんですが、
「あ、きみだったんだね!」と気がつくと、カエルが王子に変容するようにぐるんとスーパーギフトに転じるという。
この要石的、大黒柱なネガティブマインド感は、次元上昇していく局面ではブロックですけども、
もともとは3次元(諸感覚の向こうに実体として物質を想定した世界)を遊びまくるための大事なツールでした。
『聖☆おにいさん』(中村光/講談社モーニングKC)に出てくる、お中元用「選べる試練カタログ」みたいな、
無力感、被害者意識、欠乏感、罪悪感、恐怖、とかとか、多種多様なネガティブ波動を載せたカタログがあって、
そこからワクワクしながら選び、「被害者意識をベースにして、他責系、怖がり成分増量でいくわ」とか、
トータルコーディネートしてカスタム化していくわけです。病気とか事故も指定したければ指定できます。

もともと自分というのは、高次、マインド、五感のいろんな感覚(波動)を感じることによって現象として創りだしている
感じ手意識(統覚意識)であって、承認を必要としていません。
森羅万象を感じることで出現させているというのは自然現象みたいなもので、
自然現象がとくに承認を必要としておらず自然に現れるように。
敢えて言うなら存在しているだけで承認ずみということです。
いま、ふと思いついたのですが、「私」という認識装置(「私は~」「私の~」という人は多数いますが、「私」という認識装置、
「私」という一人称の認識形式はひとつしかありません)が映写機の原図だとすると、
個々のセルフ、いわゆるハイヤーセルフはその原図に沿ってつくった映写機で、
映写機によって「アクションもの」「歴史もの」「ミステリー」「コメディ」とか、得意ジャンルがあるんですね。
で、全映写機で全ジャンルをカバーするというしくみになっています。
どの映写機も同じ原図を使っているのでデザインにも性能にも優劣はありません。
この状態から、ある基準をクリアできなかったり他人と比較したりして自分はダメだとか、その裏返しの優越感とか、
いろんな自己査定が生まれてくるのは、
想定だったはずの実体(物質)にすごいリアリティが出てきて、
認識装置だった「私」(統覚意識)に身体とか身体とリンクさせた心(主観)といった実体の(物質の)輪郭ができるためです。
もともとは映写機(兼映写技師)だったのに、映画に夢中になってのめり込んで、登場人物になってしまうみたいな。
前にちらっと書いたことがありますが、自分というこの意識は、自分が感じて出現させている感覚の束(像)とは
カテゴリーがちがう、次元がちがいます。額縁(自分)と絵(像)がちがうように。
自分というのは、絵(像)をまとめている(統覚している)意識であって、絵ではないのです。
それが、絵を凝視しすぎて絵の一部になってしまう。
そうなると、自分も他人も同じ材料(物質)でできた実体(物質)世界の住人ということになって、
人と比べてどうのこうの、人よりできるできない、自分の取り分が多い少ない、というのがはじまります。
自己肯定感がないとは、
①上述のような競合状況で、常に人の達成度、取り分、持ち分を自分より多めに盛る。
②①の結果、自分の達成度、取り分、持ち分は常に不足する。
③②をよくないこと、望ましくないことだと判定して、不快な感覚(落ち込み、悲しみ、怒りなど)を接続する。
 →よくないというジャッジに不快な感覚をつなげて自動反応(癖)になるまで繰り返す。
というのを3次元を遊ぶ方法として選ぶことです。
しかし時機がきて、3次元テーマパーク閉園の音楽とかが鳴りはじめるころになると、急にさーっと醒めてきて、
まず③の不快な感覚との接続が切れます。なので「人とちがっててもべつにええやん」となる。
これだけでも自己肯定感は相当上がってきます。
次に③のジャッジや、①②の達成度、取り分、持ち分などを測るさいの基準の根拠のなさに気づきます。
その多くは(自分が思っている)世の常識というやつで、一面識もないどこかの誰かが決めたこと。
親から刷り込まれた場合でも、親はその親からとか、一面識もないn代前のご先祖とか、
むかし世代の常識から引っ張ってきたことです。そこに気づいて「あほらし」となる。
最後に、①②③のすべてが自作のアプリだったことに気づいてボー然となります。
アプリをつくった自分は、3次元で自分だと思っていた自分とはカテゴリーがちがうので、
この最後の気づきは感じ手意識(統覚意識)の目覚めとセットになっており、ここでアガリです。

じつは、『宇宙で唯一の~』を最初に読んだのは同居人の豹専務で、
私は豹専務の感想を聞いてから読んでみました。
「自己肯定感がない」は豹専務のキーブロックで、私のキーブロックではありません。
私のキーブロックは「違和感(とんでもねーところに来ちまった。まちがえた。いやはめられた)」であって、
また別のアプリです。
ちなみにスターシードのなかでも、3次元の凹凸の激しさに違和感を覚えにくいアンドロメダ星人は
違和感のかわりに自己肯定感サゲをチョイスしたり、
プレアデス星団人は「渡る地球は鬼ばかり、みんなエゴイストで何ここ戦国時代!?」みたいなのとかを選ぶとか、
シリウス星人はとにかく「私が責任とらなくちゃ(←何の?)」と思い込んでいたりとか、
ゼータ星人は「意味のないことやムダが多すぎて生きてるだけで疲れる」と無気力になったりなど、
惹かれるネガ波の傾向があるみたいです。
何々星人はどうのこうのなんて、アメリカ人はどうとか中国人はこうだとかいうのといっしょで、
すごくざっくりしているので、どんなネガ波を選んで構成するかは、もちろん個々の意識の趣味によるんですけど。

世代についても一概には言えませんけれども、
私の周囲では、昭和世代に自己肯定感サゲを使っている方が多い気がします。
私の親(故人)やその兄弟姉妹のように戦前生まれくらいになると、
「自分の好きな仕事をする」とか「自分を好きか嫌いか」などということは考えたことがない(実際そう聞いたことがあります)。
そういう発想自体がないのです。
自分は家族、一族、国などの共同体の一ピースで、共同体のために存在しているのが考えるまでもなく当たり前なので。
不自由なのが当たり前、みんなそうなんだからしかたないと思っているので、縛られている自覚もありません。
インナーチャイルドなんてもちろん満身創痍。
かわいそうとか不幸というんではなく、もう全身全霊で3次元絶賛体験しているのです。リアル「おしん」みたいな。
平成生まれでもそういうタイプの方はおられるかもしれませんが、
親とか先生とか上司とかがこういう3次元志向の熱量多めの人だった場合、恨んでも空振りしますね。恨み損というか。
自己肯定感とか無条件の愛とか、その人自身が体験していないことを求めても何も出てきません。
誰しも自分の知らないことは伝えられませんから。
知らないといっても固く封印しているだけですけども、封印は時機が来ないと解けないし、
時機が来て封印が解けるというのはその意識(当人)にとってすごいギフトなので、
縁あって行きがかり上その人のブロックはずしにかかわることになった場合を除き、そっとしておいたほうがいいわけです。

私の場合、ひとケタ年齢のころから今日の言葉でいうトランスジェンダーだったにもかかわらず、
ずっと根拠不明の自己肯定感がありました。
自分の能力とか容姿とかがもっとこうだったらいいのにという不満は山ほどありました、が、
今にして思えば上述の①~③、とくに③のジャッジが機能していないため、天然自己承認がキープされていたのです。
今でも憶えていますが、高校時代に、当時の友人がさる事情により「自己嫌悪がある」とシリアスな口調でもらしたとき、
ジコケンオ! かっこいいーーー! ツタのからまるチャペルで祈りを捧げていたむかしの高校生みたい! 賢そう!
とゾクゾクしました(←どうなの)。どう返答したかは憶えていません。
「違和感」がキーブロックの人は、そもそも3次元の景色が茫洋と霞んでいて、人のことをよく見ていないし、空気も読めません。
謎の自己肯定感周波数は、一部の先生や先輩などにはニクらしいほどの自信と見えるらしく、
理不尽ないじめも受けましたが、
「違和感」を使っている人には、いじめや嫌がらせは自然災害のような感覚にしか感じられないので、
生活上困りはしても、メンタルへのダメージはさほどありません。
とはいえ自己肯定感サゲの人とは別種のツールを使ってはいても3次元のネガ波を体験しているという点では同じで、
ストレスの質はちがっていても量は同じですから、
ある時期まで、生命に限りがあって自分もいずれ死ぬということが救いになっていて、
それまでどうにかがんばってやり過ごそうという方針でした。
私のように「違和感」ツールの人は、「3次元は(物質という実体の想定にもとづく)まぼろしだから無視してよし」
と気づくのが転回点になっていて、
みんなが「現実、現実!」と言っている3次元世界がそのみんなごとまぼろしだとわかったときに憑きものが落ち、
自分周波数のリミッターが解除されます。

<本のデータ>
書名/宇宙で唯一の自分を大切にする方法
著者/山川 亜希子(やまかわ あきこ)
発行所/株式会社KADOKAWA(角川文庫)
発行年月日/2016年5月22日
価格/640円+税(税込704円)
  1. 2023/06/29(木) 13:57:12|
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未来のよろずクリエイター~ある思考実験

2023.5.4(木)

ある会社の広告をざっくり斜め読みしてふと、
なんだ。ようするに売れるものがつくりたいのね。だったらAIに仕事してもらえばいいんじゃん。
とヒラメいた。
たとえば売れる本を発刊したい出版社の場合、
企画のテーマ、目次のもとになるような内容の構成、取材対象や取材の内容、参考資料、小説なら設定やプロット、
加えて読者対象、初刷部数、電子書籍版と印刷版の制作原価、広告予算と媒体、発刊時期、
などなどの企画の構成要素を編集者が入力し、
「この脇キャラのメロウちゃんだけど、次で展開する事件と絡められないかなぁ」
「**先生の論文かなり難解だから、中学生の語彙と知識範囲でわかるように説明して」
「こういう感じのイラストを入れた表紙のデザイン案を3つつくってほしい」
といったように、AIと対話しながら(企画会議)つくり上げていけばよい。
これなら、企画から編集、発刊まで、その気になれば宣伝も営業も、編集者ひとりでできる。
ひとり社長がひとりでやってもいい。
重版のタイミングや部数だって図れるだろうし、メディアミックスだってねらえそう。
広く売って売上を稼ぐんだったら、著者とかデザイナーとかのクリエイティブ系の人はいなくても回せるのだ。
これは漫画や、映像系、音楽系の事業についてもいえると思う。
その次のフェーズでは、演技や演奏などのライブパフォーマンスにもAIが活用されるかもしれない。
パガニーニ(18~19世紀のヴァイオリニスト)の演奏を可能な限り再現する、というようなこともできるでしょう。
いやさすがにライブは人間じゃないと、というのは、人間の創造力、表現力への根拠のない信仰があるからで、
公衆がAIによるアウトプットに慣れれば、AIの業か人間の業かはどうでもよくなり、
カルチャーであれアートであれ、内容だけが問題になるんじゃないの。
つまり人間作だろうとAI作だろうと、受け手個人にとっておもしろいものはおもしろいし、つまらんものはつまらん。
で、広く売る、行き渡らせることが必要条件なら、
多くのデータからターゲットの数や層、潜在顧客の行動や嗜好などの心理を割り出すマーケティングはAIの得意分野であり、
のみならず分析結果にもとづき潜在顧客の心に届く創造や表現までできるのだから、
AIをフル活用したほうが目的は達せられるはず。

よろずの作者への注文が減る。なくなるかも。
とすると、これは作者にとって朗報ですよ。
こういう文章の流れで説明くさいことを書くのはほんとはヤだけど、これが朗報ってのはすなわち発想の反転ですよ。
受け手の思惑、作者と受け手をつなぐ中継者販売者の思惑、そういうのを一切、考慮しなくていい。
時代、世代を超えて受け継がれてきた受けシバリ、売上シバリからのまさかの解放。ヤッホロホー♪
最初の受け手である自分にしかそのおもしろさがわからんものをこしらえてもかまわんのだ。ヒュッヒュルヒュー♪
あとは拡散まかせの風まかせさ。
あと、完璧ではない、ちょっとヘタかも、いやかなりアレかも、ってのもAIには不向きな仕上げかたかな。
食い扶持の問題はベーシックインカムとかその種の制度が解決する。
その種の制度が当面はじまらなくても、引き寄せをマスターすればだいじょうぶ。
というか、この手の反転構想が走っているときに、わざわざネガティブな常識を拾い上げてブレーキをかけてはいけない。
天翔けよ想像力。
とはいえ、売れる、当てていくのも創造のひとつであり、そういうのにゾクゾクする人は、
AIでもなんでも活用してそっちをやればいいと思う。
制限がないとモチベが上がらないのなら、アストラル界のエンティティに見せてみたらいい。
彼らはウソをつかないし、妥協するとすぐバレる。
それかすぐれた批評家、目利きを引き寄せるとか。

で、唐突ですが、いま『切腹考~鷗外先生とわたし』(伊藤比呂美/文春文庫)という本を読んでいまして。
これは昨年、同居人の豹専務が読んで、愛読書になったっぽい本です。彼女から借りました。
もとは月刊誌『文學界』に連載されていた原稿に加筆し、再編集した本です。
これによると、前世紀の後半、1970年代から80年代と思われますが、
その時代には性的変態をテーマとする雑誌が各種あって、変態の一部門として切腹というジャンルがあったと。
文中で取り上げられているのは切腹小説ですが、切腹エッセイ、切腹批評なども含むのでしょう。
あまつさえ、切腹同人誌なるものも存在していたという。
ヘテロ男子向けの切腹小説とは、主に戦国から昭和の戦後にかけて、
何らかの事情で切腹しなければならなくなった女性がそれを挙行し、切腹の場面がネチネチと描かれるというものだそう。
この切腹描写さえなければ、ふつうの時代小説として読めるレベルの作品もあったのだとか。
伊藤さんは、そうした切腹小説を「S氏の描写は重厚だ」とか「M氏の文章には気品がある」などの感想を抱きつつ、
読みふけったのだそう。
読者のなかには切腹という行為に憧れて、死なない程度に試してみる人もいたようですが、伊藤さんはそっちではなく、
腐女子がボーイズラブコンテンツに浸るのと同様の接しかたで愛読していらした。
ちなみにゲイ男子向けの切腹コンテンツはゲイ雑誌の管轄です。
で、この章に出てきた「切腹同人誌」というワードにふれて、私はピピッときた。
流通する、売れる、広まる、という現象が起きる場であるマーケットから出ていく、散っていく、
したがってマーケティングの射程に収まらない制作物というのは、こういうありかたになるのではないか。
「切腹」じゃなく「同人誌」のほうね。
創り手イコール受け手、攻めも受けであり受けも攻めでありつまりは全員リバであるような回覧同人誌的なやつ。
で、回覧の最小単位は自分ひとり、創り手も受け手も自分だけってやつ。
こういうのは絵画のような一点もので、創り手は、よほどの縁がある受け手に出会わない限り、それを手放さない。
そういえば『月と六ペンス』(サマセット・モーム)に出てくる、ゴーギャンがモデルといわれる画家がそうでした。
演奏、演劇などのライブ系ならシークレットギグとか。
歌会、句会的な集いとか。
そういえば『源氏物語』(紫式部)だって、最初の最初は回覧同人小説だった。
それも作者から借りるか、手書き文を写すというごりごりアコースティックな。
ただし、未来の回覧の輪や集いに、よろずのサークルやコミュニティにありがちな人間関係的なしがらみとか、
インフォーマルなしきたりはない。
回覧の輪ができるか、人が集うかは、制作物や表現のもつヴァイブス次第で、原則としては一期一会。
会合が何回開催されようと一期一会。
参加のきっかけは、波動とか、熱量とか、シンクロニシティとか、そういうの。
たとえば人がどう思おうと切腹ものが好きかどうか、というような。

スピの人やエコの人はビジネスとか投資とか利殖といった世界が嫌い、という偏見が私にはあるのだけど、
そっちの世界はなくならないと思う。
マーケティングの網目がもっと細かくなり、マインドコントロールは巧妙になり、よりエグくなっていくと思う。
ただ、そこに収まらないものは、もう収まらないというだけ。
もしかすると、収まらないものはむかしからずっとあったのだけど、喧伝されなかったから見えなかっただけで、
見えなかったものが浮上して現れて見える人には見えるようになるだけなのかもしれない。
人類史、メディア史、コロナワクチン、医療・医薬品業界、医学・生物学系の学術界、現代哲学、精神世界、
興味の赴くままにいろんな本やネット情報をポツポツ狩猟していて、
本当に最先端だったり濃密だったりする情報は、ネットも含めて表には出ていないんだな、と感じた。
さらにそれを超える珠玉のネタは、個々人の「私」の心の内にある。
「私」が眠りこけていたら、まずそいつを起こさんといかんけど。

「真に価値があるのは、自分自身のために考えたことだけ」byショーペンハウアー
それな。

<本のデータ>
書名/切腹考
副題/鷗外先生とわたし
著者/伊藤 比呂美(いとう ひろみ)
発行所/株式会社 文藝春秋(文春文庫 い99 2)
発行年月日/2022年2月10日
価格/740円+税 キンドル版は税込800円

書名/読書について
著者/アルトゥール・ショーペンハウアー
訳者/鈴木 芳子(すずき よしこ)
発行所/株式会社 光文社(光文社古典新訳文庫)
発行年月日/2013年5月20日
価格/743円+税 キンドル版は税込770円(アンリミテッド会員は無料)
  1. 2023/05/04(木) 13:33:19|
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現代の哲学とか

2023.4.9(日)

21世紀に入ってからの西洋哲学の流れを解説した本を2冊読んだ。
『いま世界の哲学者が考えていること』(朝日文庫)と、『ポスト・ヒューマニズム』(NHK出版新書)で、
どちらも著者は岡本裕一朗氏である。
構造主義とか脱構築とかポストモダンとか、あのあと哲学ってどうなったの? という話で、
カント以後の、世界と向き合い世界を生きる的な、不要不急に視野の広がった「人間」をやめようぜ派
(思弁的実在論、加速主義)とか、
いやいや、物質の視点や他者の視点や私の空想妄想を視野に収め統合した「人間」の時代はむしろこれからだ、
という説(新実在論、新実存主義)なんかを紹介している。
で、仮説的、思考実験的に人間がどうのこうの、と構想したり議論したりしている間に、
コンピュータやバイオのテクノロジーがめちゃ進歩して、
人間を成り立たせているスペックが生物学レベルから揺れはじめ、
人間がホモ・サピエンスという種の枠から出るかもしれないという感触もリアルになってきたという。

人間を含めた生物が、0(OFF)と1(ON)の明滅、そのテンポやリズムのような信号的なものに還元されるという予感は、
電脳や電気羊がどうとか言っていた1980年代にすでにあったので、とくに驚きはないし、怖さもない。
SF風に想像されていたああいうのがリアルワールドに降りてきたんだな、という感じ。
一方で、人類がサードアイの開けた視野の広い「人間」だったことなんか一度もなく、
いつの時代も用事に忙殺され天災人災を怖れ欲望に振り回されてきた野蛮人だったのだから、
近代哲学が夢みた「人間」はむしろこれから実装されるべきでしょ、という主張もわかる。

それはそれとして、どちらの本にも、終わりのほうに近年の新型コロナウイルス感染症の件が出てくるんだけども、
パンデミックとか、バイオテクを使ったワクチンを接種して感染を予防しようとか、
そうした公式見解をいずれの哲学者氏も疑っていないということに、私は驚愕した。
哲学界だけではない、この2冊ではない別の時事評論本をざっくり見たところ、
社会学の人もそうだし、文化人系、アート系の人たちもそう。私の知った限りではみんな公式見解前提。
文科系で、公式見解に対し、ちがうだろ、って言ってるのはゴーマニストの小林よしのり氏くらい。
私の周囲は全然パンデミクってなかったし、
初回のワクチンを打った豹専務(同居人)がくも膜下出血で入院したので(その後回復。以後接種せず)、
私のなかではワクチンは有害確定。
もっともワクチンのリキがどうであれ、私は最初から接種しないつもりだったけど。コロナべつに怖くないから。
でも、公式見解がまちがっていて、それを見抜けないことにびっくりした、というのではなく、
パンデミックとワクチン有効説に関しては、頭のいい人たちのうち誰も異をさしはさんでいない、
というか自明であるかのごとく、以下同文的に肯定されちゃってることに違和感があったのだ。
もっといろんな意見があるんじゃないかと思っていた。
それとも「公式見解に疑いを抱く=反ワクチン=陰謀論の人」で、
陰謀論というのはプロレス的なお約束にもとづく趣味の世界なんだから、
オタクの人たちだけで分をわきまえて語っててください、領域侵犯しませんから、ってことなのか?

2020年に緊急事態宣言が出る前までは、医師や生物系の研究者のなかには、
コロナ感染症の流行は「きわめて危険」だという説の人と、「そうでもない」説の人がいたように思う。
また、これはあとから知ったことだが、21年にワクチン接種がはじまる前までは、
ワクチンのリスクについて語ることはタブーではなかった。
しかし21年4月ごろからワクチン接種がはじまると、
①新型コロナは危険な感染症で、世界中で流行している(パンデミック)。
②①を食い止めるために急ピッチで開発され緊急承認された新型ワクチンは感染予防に有効で、副作用は少ない。
①を止めるために、できるだけ多くの人がワクチンを接種するのが望ましい。
という公式見解一辺倒になってしまった。
公式見解に反する見解は大きなメディアでは報道されなかったし、ユーチューブ動画などネットにも情報統制が入った。
①②は2022年に重症化率や死亡率の低いウイルスが蔓延するまでは、世界各国の公式見解だった。
22年以後、海外ではワクチン推進策を止めたのだが、なぜか日本ではつづいていて、
努力義務ではあるが強制はしない定期接種へと軟着陸させていこうとしている。

この2020~23年の間、公式見解の是非をめぐる意見は、

<推進・賛成派>
政府の推進施策担当者、理系の専門家(医師、研究者など)、接種に賛成の一般人
    vs.
<中止・反対派>
理系の専門家(医師、研究者など)、ワクチン被害の当事者、接種に反対の一般人

という構図でたたかわされてきており、ざっくりいって、理系の専門家間で意見が割れているわけです。
で、推進派の専門家の意見は政府の施策の根拠となっており、こちらがメディアで広報されて多数派となり、
一般に浸透して、「良識」となった観がある。
一方、中止派の専門家の意見は専門家全体のなかでは少数派であり、
書籍やネットから彼らの情報を得た、やはり少数派の反対派一般人にとっての理論的根拠となった。
そして、どちらの少数派も、ワクチン推進という「良識」に反する歪んだ輩とみなされ、
陰謀論やフェイクニュースとも結びつけられて、中傷されたり、コミュニティから排除されたりしてきた。
そうこうするうちに、ワクチンの副作用を被ったり、身近で副作用症状を目の当たりにした人の数は増加し、
2021年以降、大きな自然災害があった年よりも死亡数が増えているという事実が積み上がりつつある。

というわけで、意見が割れているのは理系の専門家と一般人であり、
非理系の発信者は、よしりんとか、医療ジャーナリストの鳥集徹氏とか、ごくひと握りの人たちを除いて、
おおむね公式見解を疑問なく受け入れているかに見えるのです。
私は、コロナワクチンの安全性、有効性が疑われるような事実が、死亡例や後遺症例という形で出てきても、
政府が推進策を撤回しないことに強い違和感を覚えたけれども、
この非理系の研究者、ジャーナリスト、作家、アーティストなどの公式見解に沿ったまとまりかたも不可解に感じます。
それは、非理系の著名人が、政府やグローバル資本や、それらをまとめているらしいラスポス的な人や団体に
取り込まれていたり、肩入れしているからではなく、そんなロマンチックな理由によるのではなく、
 自分 ∈ 人類 ⊂ 動物 ⊂ 生物 ⊂ 物質
と考えていて、自分を含めてどんな存在も物質からなり、
物質としての生物、動物、人類、自分といった物質性については、そのしくみがあまりにも複雑なので、
理系の専門家に任せる、という思考態勢になっているせいではないかと思う。
理系の専門家に任せるということは、詳しいところまでは立ち入れないので専門家の研究成果を信用する、
専門家間で成立した定説にしたがう、ということで、
定説にしたがうとは、あとで変わる可能性はあるとしても、当座、多数の専門家に受け入れられている説にしたがう
ということです。
政府やWHOなどの組織の公式見解というものは、定説(多数派)にもとづいて成立するので、
定説にしたがうという態勢は公式見解を受け入れることにつながります。
じつは、ある学説が定説になり、定説から公式見解ができるプロセスで、
研究費の多寡とか、出資者の意図とか、専門家・団体間の競争や確執、技術の権利関係、ときには軍事機密、といった
生々しい利害事情がからんできて、それらが建設的な方向に作用するにせよ、歪んだ方向に流れるにせよ、
この段階で揺れたり揉めたりするのですが、
いったん定説化、公式見解化すると、最終結果だけがきれいにまとめられて流布していき、
水面下のドロドロは関係者だけが知る裏話になる。
すべての現象は物質とそのふるまいから生じる、物質だけはごまかしようのない絶対的な現実だ、という観念は、
理系の研究にはごまかしが利かない、理系の研究成果にバイアスはないという誤解につながります。
つまり、非理系の研究者、ジャーナリスト、作家、アーティストなどが
①パンデミック、②ワクチンは安全、有効だから、接種するのが望ましい、という公式見解を了解したのは、
自然科学はウソをつかないという素朴な思い込みにもとづき、①②を信用したから、
というのが私の個人的見解です。

すべての現象は物質とそのふるまいから生じる、と考えるのはもちろん自由です。
理系の研究者や製品開発者であれば、少なくとも仕事のうえではそういう考えを前提にしているでしょう。
また私の見たところ、この考えは常識として広く一般に行き渡っているようです。
でも、哲学や文学や芸術の人たちは、物質を必要条件としてもいいけど、しなくてもべつにいいんじゃないでしょうか。
自分の感覚(観測機器を使ったときの感覚も含める)を介さずに感覚の向こうに物質が実在することをたしかめることは
できないし、したがって物質のあるなしは不明だし。
不明なのに「ある」を前提にできるのなら、「ない」を前提にしてもいいわけだし。
「鉛筆が見える」と「鉛筆がある」は別のことです。見えるからといって、あるとは限らない。
鉛筆が見えて、使えていても、それらは見たりさわったりしているという感覚の束にすぎないかもしれない。
また、自分は生まれたことを憶えていないし、死は未経験だから、生まれておらず死にもしないのかもしれない。
記憶というのも事実とは限らず、そもそも事実はいつでも存在しないのかもしれない(※)。
他人は誕生したり、不可逆に活動停止(死)したりするけれども、
あらゆる感覚を統覚して感じているこの意識(自分)と、さまざまな感覚の束である他者や事物というのは、
同一カテゴリーではないのかもしれない。
自分と非自分を同一カテゴリーにくくるのは、ゲームの画面とプレイヤーを混同するのと同じエラーで、
これがエラーでなくなるのは、物質の実在を前提にして、みんな同じ物質でできている、と考えたときだけである。
つまり自分も非自分も画面のなかの登場人物で、
ゲームの機器やプログラム(物質と物質の法則)が自動ピアノのようにゲームをプレイしていると考えたときだけである。
このときのゲームの機器やプログラムというのが、感覚の向こうに想定された「実体」で、
一般的には物質(ハード)とその法則(ソフト)だけど、神(ハード)と神学的な体系(ソフト)、
霊的存在(ハード)と霊的原理(ソフト)を想定することもできる。
・・などなど、物質なしに全現象が起きると考えても、とくに支障はない。
※そのときどきに自分が感じる五感的感覚からなる場面には前後がなく物語化していないので、
前後があって物語化した思考を事実とするならば、五感的感覚からなる場面は事実ではない、という意味。


なお、「私は脳ではない(byマルクス・ガブリエル)」とは、
「私」とは、物質(脳が統括する身体)の私、他人から見た私、自分から見た私、ある役割や立場にいる私、
空想上妄想上の私、などなど、さまざまな私の統合体であって、「脳=私」ではない、
脳を保存したり、脳の信号情報を記録して入力可能にすれば私は生きつづけるとか、そういうことじゃない、という意味です。
でも脳がなくても「私」は存在するとは言っていない。
「私」は、また自分でなくても誰であっても、物質に還元されない、
けど物質は「私」や誰彼が存在するための必要条件だということです。
自分は身体を使って生きているけども、それだけじゃない、心があり、魂があり、みたいな。
なんかきわめて常識的な感性に合致した考えかただと思えますが、
そんなよくある考えかたを哲学として思考し論じなければならないほど、
テクノロジーの進展が急激でやばいってことなのかもしれません。
しかし、物質(脳が統括する身体)を「私」あるいは人間の必要条件とした場合、
「脳の私」というのは、自分ではわからないんですね。
医学や生物学や化学などの理系の研究成果を信用し、さらには、自分で一次情報に当たれるわけではないので、
研究成果を要約した報道や関係機関のサイト情報を信用するしかない。
なので、「私」の必要条件であり基礎といってもいいかもしれない「脳の私」には、
理系の偽装情報や誇大広報、ハッタリとかに引っかかりやすいという脆弱性があります。
のみならず心や魂の「私」だって、人間関係の都合や権威者の意見などによって日和ったりブレたりするかもしれません。
結局、物質とそのふるまいが全現象を決定すると想定する、
すなわち「私」を物質に還元したり、物質を「私」の必要条件とすると、
適切な判断をするためには物質でできた環境から情報収集しなければならず、
誤情報や選択ミスによって不本意な決定をしてしまうかもしれないという不安定さが、
「脳(物質)の私」を筆頭に、どんな「私」にもつきまとってきます。

学問の人もアートの人もネット系のインフルエンサーも、何やかや発信している人の多くは、
自分も他人も動植物も細胞とかDNAとか、もっと遡って分子、原子、素粒子でできていると信じているらしい。
ほんとにそれ実感すんのかリアリティあんのか!? と、訊いてみたい。
まあ、そう思うのはその人たちの自由だけど、
私にとっては細胞もDNAも素粒子も、チャクラや経絡と同じくくりのイメージツールなので、
物質派の先生方の説法は物質神学の体系内の話として聞いておかないと自分が路頭に迷うぞ、と思った。

「五感や思いを感じているこの意識(自分)と他者を含む環境(非自分)は別カテゴリーだ」というのは、
この記事を書いている最中に湧いた発想で、
自分のなかで言語化できていなかった他者の位置づけがはっきりした感じがする。すっきり。

<本のデータ>
書名/いま世界の哲学者が考えていること
著者/岡本 裕一朗(おかもと ゆういちろう)
発行所/朝日新聞出版(朝日文庫 お88-1)
発行年月日/2023年2月7日
価格/900円+税 キンドル版1,426円(税込)

書名/ポスト・ヒューマニズム
副題/テクノロジー時代の哲学入門
著者/岡本 裕一朗(おかもと ゆういちろう)
発行所/NHK出版(NHK出版新書 664)
発行年月日/2021年10月10日
価格/880円+税 キンドル版871円(税込)
  1. 2023/04/09(日) 14:20:13|
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プロフィール

みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、イタリアの美少年のような豹専務(♀)が同居人。
リンクはご随意に。連絡も不要です。
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2016年に紙の本として刊行した『トランジット』を、2022年9月にパブーで電子書籍にしました。内容は一部改稿しています。

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