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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

引き寄せ本の再読

2021.3.1(月)

このところattraction(磁力、引力)にattractされているので、
本棚の奥からゼロ年代に買った引き寄せ本を読み返してみている。
このころはまだそれほど巷間には知られていなくて、ヘンな本という印象だったような。

トルストイを中心にロシアの小説をいろいろ読んだ流れで、
『一冊でわかるロシア史』(関 眞興・著/河出書房新社)という本も、図書館で借りて読みました。
もうね、歴史以前に今さらながら国土の広さにびっくりよ。
ソ連がなくなって、関東圏のなかの東京都がロシア、みたいな印象だったのだが、逆よ。
23区以外はみなロシア、みたいな広さなのさ。おそ(恐)ロシア。
練馬区やら板橋区やら北区やらがバルト三国みたいな感じやね。
東はベーリング海峡まで延びているこの国を、はたしてヨーロッパと呼んでいいのか?
この国がうちは欧州やで、と言い張るなら、モンゴルも中国もOKな気がする。
なおロシアはEUには加盟していない。

さて、自分が何かを考えたり想像したりすることと、何らかの出来事が起きるということは別範疇で、
考えや想像では出来事を直接喚起することはできない、
という大常識(※)をひっくり返すことに本気で取り組むと、
この世界は、自分という統覚意識が感じる濃かったり(五感的な感覚)淡かったり(マインドや高次の感覚)
する感覚の模様である、という非3次元感のリアリティが強くなってくる。
物があって、やはり物である身体の感覚器官でそれをキャッチしている、のではなくて、
濃淡や速度や安定感(軽かったり重かったり)のちがう三つの感覚層で、
それぞれいろんな感覚が現れたり消えたりしている、
五感も、マインドも、高次も、どれも「現実」である、ここに存在している、という感じ。
色や形や触感も「現実」だし、考えや想像も「現実」だし、直感も閃きも「現実」。
※五感的な感覚の向こうには物がある、物はそれ固有の法則(物理法則など自然科学の法則)で動いている、
五感的な感覚というのは物の一部(身体)が物環境からの刺激に反応した物理感覚であり、
思考や感情や気分はその物理感覚への二次反応である、と想定すること。
筆者のいう3次元世界とは、このような想定によって出力される世界をいう。
3次元世界では自分の認識と認識の対象は分断されており(認識≠存在)、
しかも自分という統覚意識が「身体」として対象(物)に含まれるので、
全現象の動因が対象(物)固有の法則に帰せられ、
その法則を探究したり学習したりすることはできても、超える(法則を破る)ことはできない。
つまり、本当の現実とは物質のことであり、物質の法則がすべてを決定する、という世界が出現する。


そうやって、3次元じゃない世界って詭弁や絵空事じゃなくてほんとにあるんだな、
自分次第、視角次第なんだ、と実感つきで得心してから、あらためて引き寄せ本を読み返すと、
すごくよくわかる。腑に落ちるわ。
「考えは、それに似た考えや(水平方向)出来事(垂直方向)を引き寄せる」
って、そりゃそうだろう、高次もマインドも五感も、どの「現実」も自分が感覚化して束ねているんだから、
考えと無関係に何かが起きてたらむしろそっちがおかしい、となる。
この当たり前感は、自分的にとても新鮮。
最初に読んだときは、精神世界や哲学といった方向に惹かれていたとはいえ3次元人間だったから、
「考え」がどうやって「出来事」になるのかというところで悩んだ。
オカルト界には、ここに量子力学をもってきて突破を試みるという流派もあって、
私も一時そっち系の本をいろいろ読んだんだけれども、
量子力学って、ほんとに納得するまで理解したかったら、相当ムズい数学がわからないとだめで、
私は数学には疎いので、波動関数とか密度行列とかの式を見て、うえっ、となってやめました。
五感的な感覚の向こうに「物」があるという想定を前提として、
その仮想物質の法則を突き詰めていくと数式で表すしかなくなる、
物の実在性とは概念だということがあきらかになり、
あるかもしれない、ないかもしれないという潜在性は数学語でしか記述できなくなる、
という方向のアプローチは、数学大好きな人におまかせする。
量子力学によると、誰も見ていないときには月は明らかにそこにあるとはいえないが、
月がそこにない確率は完全に無視できるほど小さいという(『量子力学のふしぎな世界』町田 茂・著)。
としても、その確率はゼロではないし、
そもそも確率の小ささ、起こりえなさは、物からなる三人称的な客観世界を前提としたときであり、
たとえば月が月齢や天候などの理由で見えないはずの夜に自分には月が見えた、
という出来事がもしあったとすると、自分にとってその確率は100%なのである。
量子力学は、物が「ある」こと、それは誰にとっても同じだという客観性から出発して、
物の最小構成要素を追究していったときに、数学語でしか記述できない潜在性に達するという
サイエンスであって、オカルトではない。
だからオカルトをサイエンスで「証明」しようという切り口でよく流用されるのだけれども、
サイエンス自体がフィクションでありアートである、という視角をとったほうが、私にはおもしろいと思う。
物も客観性も想定だとすれば、数学語が必要になるのは敢えてそれらを想定したときだけになる。

引き寄せの法則というと、
欲しいものを入手したり、やりたい仕事に就く、収入を増やすなど、
何か望みをかなえるためのノウハウ、成功法というイメージがあるようで、
私もそういうイメージでとらえていたんだけど、じつはそうではないんだね。
それは、「どんな感覚もそれ自身と似た感覚を引き寄せる」、
ある考えはそれと似た考えや感情を呼び起こし(水平方向の作用)、
それと似た五感的な感覚を呼び起こす(垂直方向の作用)、という、
ただの法則なのでした。
言い換えると、感覚には磁力がある、
高次の感覚も、マインドの感覚も、五感的な感覚も、似た感覚は引き合う、
高次とマインド、マインドと五感、というように垂直方向にも引き合う、ということです。
ちなみに、五感的な感覚の水平方向の引き寄せは、
色や形や触感や音などからなる像の組織化を促します(コップがコップの像になり、机の像と混じったり
しないということ)。
似ているというのは、相性がいい、親和性がある、なじむ、つながりがある、というような感じ。

そして、何かを望んでも、望まなくても、望みがかなっても、かなわなくても、
どんな境遇、状況にあろうと、
引き寄せの法則とかないだろオカルトだろと思っていても、そんな諸々とは関係なく、
3次元の(「物」があると想定したときの)重力とか電磁気力とかの物理法則のように、
ただただそれは作用していると。

「引き寄せの法則などという法則はない」と想定して、
そんなの考えるまでもなく当たり前、そのくらいその想定を許容していれば、
ちゃんと引き寄せの利かない世界を引き寄せます。
「まず物が存在する。自分も物(身体)だし、自分が何かを感じるというのは物(外界)への反応だ。
考えや感情は物(外界)への反応(物理感覚)への反応だ。
物が本物の現実で、最終的には物の法則が現実を決定する」
と想定している、
その想定が、ふだんはいちいち意識しないくらい当たり前な習慣になっている、とはそういうことです。

私が持っている引き寄せ本には、
何であれそれ自身に似たものを引き寄せる、そういう磁力、attractionが、いつでもどこでも働いている、
ということが、最初のほうに書いてあるのですが、
その磁力自体を「ない」と想定することによって、磁力を無力化するカラクリについては書かれていません。

宇宙には引き寄せの法則っちゅう法則があってな、
ポジティブなことを考えれとばポジティブな出来事が、
ネガティブなことを考えとればネガティブな出来事が起きるんよ、
あんたの人生に嫌なことが多いんはネガティブな仮定や想像に思考を費やしとるからだわ、
その考えをポジティブなほうに向けてみ? となって、
そこから、「だめ」「むり」「ない」「できない」をどうやって消去するかというテクニカルな話に入って、
あんたにもできるはずや、成功を祈る、シーユーアゲイン、みたいな。

読者がよほどノリのいい人で、こういう誘導でおおもとの「考えと出来事は別」想定を超えられれば、
引き寄せたいことの実現に成功し、
また成功体験が重なると経験則が書き換わるので、実感的におおもとの想定がはずれていくんですが、
実践してみてうまくいかないと、なんや引き寄せの法則ってやっぱ嘘やん、となってしまう。
要は慣れの問題で、私もそうでしたけれども、
3次元人間は磁力の利く世界に不慣れなのです。
おおもとの想定のほうに慣れちゃってて、磁力を止めてることに気づいてないので。

「自分に合わない感覚を手放す」というタイプのメソッドは、
このおおもとの想定をはずす方向からアプローチするやりかたです。
磁力を無力化する想定をはずすということが、覚醒でありアセンションであり非3次元化です。
本来の宇宙とは、磁力が利く世界のことです。
感じたことがそのまま感じたように実現し(認識=存在または創造)、
その実現した感覚の持つ磁力が水平に働いて広がったり、
垂直に働いてさらに具体的になったり(閃きが考えに、考えが五感に、と具体化していくこと)。

前の記事にも書いたように、私は手放しメインだったのですが、
引き寄せ本に書いてあるような「意図的な引き寄せ」も、適宜、実行することにしました。
これは高次から降りてくる本当の欲求だろうか? などということは気にせず、
自分はこうするとか、これを手に入れるとか、思いつくまま深く考えずに意図します。
何か意図すると、磁力を止めている手放し材料がどんどん出てくるからです。
ということは、非3次元化を阻んでいる感覚が明確に浮上してくるということです。
「できない」「ありえない」「前にもやったけどだめだった」「もうあきらめるべき」といった、
自分の能力、適性への不信、磁力そのものへの不信だけでなく、
「こんな現世利益ベタベタの欲求はダサい、くだらない」「もっと大事なことがあるはずだ」
「虫がよすぎる」「幼稚」「こんな通俗的な欲求を残している自分が嫌」
といった価値判断系のウダウダが混じっていることもあります。

本当に不要な意図だったら、そのうち自然消滅するので気にしません。

「できる」とわかっている(これが「許容している」ということです)意図なら、
ふだんからばんばん発しています。
スーパーに行くとか、何を買うか決める、代金を支払う、帰り道を決める、歩く速度、
玄関のドアを開ける、電灯のスイッチを押す、などなど。
昨年、私は不意に3日間くらいヴィパッサナー瞑想入りっ放し状態になったことがあって、
そのとき、こういう自動反射みたいになっている習慣的な些細な行為も、
そのつど微細な意図にもとづいていて、
それぞれの意図に「めんどくさい」「ダルい」「暑い(寒い)」「(買い物代が)高!」「もう6時か」とか、
その他、言語化もされないいろんな抵抗感覚が絡みついていることがわかりました。
できるとわかっている(許容している)ことなら、この程度の対抗波動(抵抗感)で実現が阻まれることは
ありませんが、こういう感覚があるとマインド全体の波動が下がる(透明度、明晰度が落ちる)ので、
見つけ次第、ゼロポに還して手放すようにしています。
引き寄せターゲットを意図したときに湧出してくる対抗感覚に気づき、それを手放せるようになると、
こういう習慣に埋まっている(潜在している)低波動感覚も見つけやすくなると思います。

ともかく、引き寄せ本で最も大事な情報は、導入部でさらっとふれられることが多い、
「attraction(引力、磁力)は常時作用している」ということだと私は思います。
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『アンナ・カレーニナ』のデムパ読み

2021.1.20(水)

『戦争と平和』『復活』につづいて、トルストイ長尺小説シリーズ第3弾『アンナ・カレーニナ』読了
(望月哲男・訳/光文社古典新訳文庫全4巻)。
文学になった19世紀版ハーレクインロマンス的な不倫小説、みたいな。
しかしそれはそれとして、どれほど精勤しても採算のとれない農業(領地)経営に奔走しながら、
良家の奥様仕様に育てられた娘と結婚して堅実な家庭を築いていく、田舎の地主貴族リョーヴィンの話が、
なぜか不倫話と並行して綴られていく。
不倫編の主役アンナ・カレーニナと、田舎暮らし編の主役コンスタンチン・リョーヴィンは、
小説の終わり近く(第7部)で直接会って会話を交わすが、そこでとくに重要な転回が起きるわけではない。
相関図的には、リョーヴィンの妻キティとアンナの愛人ヴロンスキーにはかつて婚約前提の交流があった、
ところがヴロンスキーとアンナがくっついてしまったので、フラれたキティはセカンドのリョーヴィンと結婚、
という関係にあるのだが、この件は一応落着し、わずかに燻りつつもストーリーには影響していない。
関係のないふたつのドラマが別々に進行して大団円とならず終わる。
昭和の昼ドラと「北の国から」を一週交替で見せられとるような感じだ。ヘンだ。
この分裂した構成については、研究者、批評家によるさまざまな解釈がなされているようで、
それは最終巻(4巻)の解説で言及されている。
ふうん、そういう読みかたもあるんか、とおぼろげに察しつつも、ワシにはピンと来なんだ。
だってふつーに読んでればやっぱり別々の話ですよ不倫と田舎暮らしは。
とはいえ、『細雪』(谷崎潤一郎)の構成の液状化、
戦前の関西アッパーミドル姉妹の日々が起承転結ならぬフェイドイン、承、承、承・・・と連綿と綴られ、
ところどころ事件は起きても喉元過ぎればもとのまったリズムに収まり、とうとうオチなく終わる、
3巻もあるのになんじゃこれはワシの時間を返せ的なあの長編に比べたら、話の分裂なぞ屁でもないよ。
不倫編では、その場の空気に対するアンナの流されやすさ(ために夫が離婚を切り出してきたときに
応じるという最良の決断ができない)、すぐにここはどこあたしは誰なにがしたかったのかしら?
となってしまう情報処理容量の少なさにため息をつき、奥さん、もう少ししっかりしましょうよ、と呼びかけ、
田舎暮らし編では、夫婦それぞれの嫉妬深さや、互いの言動の裏読みにうんざりし、
んっとにおまいらめんどくせーなーどうでもいいじゃんそんなこと、とつぶやき、
そのようにして別々の話を別々のものとしてありのままに書かれたままに読んでいくと、その果てに、
あーそうだったのか、と、オカルトな閃きを得た。

このふたりは、快楽(アンナ)とメンテナンス(リョーヴィン)という、
3次元生活を回す燃料(快楽)と機関(メンテナンス)を象徴する人物である。
フロイト式に、燃料のほうを快感原則、メンテナンスを現実原則といってもいいかもしれない。
3次元生活とは、自分の認識とは別に客体X(物質、神、エネルギーなど)が存在する(認識≠存在)
という想定にもとづき、客体の一部(身体)と同一化された自分を保存、維持するため、
客体から繰り出されてくる各種の問題に対処するテトリスゲーム的な世界をリアルに体験することで、
3次元的にいえば生存競争のことである。
3次元ゲームを上手にプレイしていくには、オブロンスキー(アンナの兄)のように両者のバランスを
とらないといけないんだが、
アンナはバランスをとるとか抜け目なく立ち回るといったことができない、ある意味純粋な人で、
全力で愛欲のほうに突っ込んでいってしまい、たちまち燃え尽きて、最後は鉄道自殺してしまう。
リョーヴィンは将棋でいうと穴熊戦法的な守りメインの配置でどうにか持ちこたえてはいるものの、
兄ニコライの死(結核で病死)に立ち会って以来、
「俺も嫁も、息子だって、いつか死んで無に帰してしまうのに、農作業だの燕麦がいくらで売れるの、
お客のもてなしだとか、俺流農業経営論とか、そんなことが何になるんだ何の意味があるんだ?」
という中島義道チックな問いに苛まれてヘロヘロになる。
アンナもリョーヴィンも、それぞれに不器用だ。若い。魂が中二なのかもしれない。

自分は何者か。なぜここにいるのか。
というリョーヴィンの問いは、地主貴族とか夫といった役割をはずした自分の資質や性格を突き止めたい
というものではない。
これを「私は(  )だ」という、カッコ内の術語を求める質問だととらえていると、
本当の私は宇宙人だとか天使だとか、私の使命はライトワークだとか教師だとか、その類の、
3次元世間が「自分探し」と嘲笑しているそれになる。
そっちではなくて主語のほう、「私」というこの一人称が問題なんである。
この問いは、無時空間の「私」という一人称意識(統覚視点)への動線である。
しかし、物があって、それがそこかしこへと広がり、徐々に変化している、と想定している
3次元にリアリティがあると、「これ(物‐空間‐時間)ではない」という感じしかわからない。
いくら目を凝らしてみてもこの物の広がり、刻一刻の変化のなかに俺はいない、
身体も俺じゃなくて身体を動かしているこいつが俺だ、
この俺意識はこれ(物‐空間‐時間)の外から来ている、これは何なんだ誰なんだ? と。
誘導する問い、動線であるとはそういう意味である。

小説の終盤、脱穀係フョードルとの会話をきっかけに、リョーヴィンは、
「自分の欲のためではなく、神のため、魂のために生きる」という答を見い出して一応落ち着く。
自分の欲とは習慣に根づいた生存戦略のことだ。
「神」とか「魂」というのは、キリスト教的、プラトン版ソクラテス的な表現であり、
19世紀の西方ロシア人であるリョーヴィンの語彙ではそうとしか言い表しようがないのであるが、
これは「私」、時も場所もなく、どこまでもどこまでも、虚空(ゼロポ)に融けていくまで広がっている
無窮の一人称意識のことである。
形而上的な思弁が刺さらない実践志向のリョーヴィンには、これが書かれたり研究されてきた神や魂の
ことではないことが直感的にわかっている。
しかし、身体と身体にもとづく心に限界づけられていると想定された、神や魂ではない自分が
反射的に反応して生存戦略に沿うよう要求する習慣の束であることには未だ無自覚なので、
答を得ていくらもたたないうちに馬車の御者に腹を立て、異父兄やお客と議論し、
嫁といえども他人とは自分の気づきをシェアできないとさとって、ちょっと落胆する。
ここからリョーヴィンが神や魂(どちらも自分)ではない周波数を手放して覚醒するのか、
もとに戻ってしまうのか、それは書かれていないのでわからない。
それはそれとして、
脱穀係フョードルが小作人や債務者に対しブラックになれない百姓フォカーヌィチをさして言った言葉、
「あの人は魂のために生きています。神様のことを憶えているんですよ」は秀逸である。

なんとも惜しいのは寝取られ夫のカレーニン氏である。
アンナが愛人の子を出産して瀕死の状態になったとき、非常時の効能なのか、
右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ、インナーを取ろうとする者にはアウターも与えよ、の心意気で、
妻と愛人の行状一切を赦す気になる。ジャッジを手放していくここのくだりの描写はすばらしい。
が、その後、報復(決闘のこと。アンナの愛人ヴロンスキーは、カレーニンから決闘を申し込まれたら
自分は的をはずして死ぬつもりでいた)もできないヘタレ野郎として世間の嗤い者になり、
自分のテリトリーである官僚界からもハブられると、混乱しフリーズして、
19世紀版オカルト大好き人間リディヤ・イワーノヴナ伯爵夫人の言いなりになってしまうのだ。
アンナが周りに勧められて請求した離婚をカレーニン氏が拒絶したのは、
リディヤ夫人が入れ込んでいるフルトランスチャネラーのチャネリ助言にしたがった結果である。
左の頬も差し出したあげくダブルパンチなんて想定内(ていうか波動を上げるチャンス到来)、
福音書の次に旧約のヨブ記も読めよ、と言いたい(ヨブ記は神様からのお試しの被験者になって、
ありえないくらいひどい目に遭う男の話)。

ちなみにトルストイの小説には、けっこうオカルトなネタが出てくる。
『戦争と平和』の主人公はフリーメイソンに入るし、『復活』にはコックリさんと同じ方法で
ジャンヌ・ダルクの霊を呼び出す場面がある。
そうしたオカルト志向やオカルト解釈されたキリスト教に対して、作者は風刺的なスタンスをとっているが、
まるきり否定しているふうでもなく、生温かく見守っている感じだ。
『復活』では正統キリスト教(ロシア正教)にも疑義を呈し破門、21世紀現在も破門は解けていないそうだ。

デムパ系の方で、トルストイおもしろそう、けど長いのはかなわんなー、という方がもしいらしたら、
新潮文庫版で約150ページの『光あるうち光の中を歩め』(新潮文庫では原久一郎・訳)をお勧めする。
帝政ローマ時代の話なので、ドミートリーがミーチャになったりアレクサンドラがサーシャになったりする、
ロシア人名あるある誰やねん変換にとまどうこともない。
ラストの一行がまじ衝撃です。
  1. 2021/01/20(水) 15:14:12|
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『戦争と平和』~むかしのアセンション

2020.12.3(木)

トルストイの『戦争と平和』(藤沼貴・訳/岩波文庫①~⑥)を読み終えた。
おもしろかった(^o^)/とってもー。
2018年『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)、19年『失われた時を求めて』(プルースト)
につづく、長尺読書シリーズ第3弾ですが、これがいちばんエンタメでした。
『ガラスの仮面』(美内すずえ作の漫画)とか『大長今(チャングムの誓い)』(韓国の歴史ドラマ)とか、
ああいう波瀾万丈ストーリーの醍醐味満載です。
ナポレオン率いるフランス帝国軍のロシア侵攻を背景とする貴族コミュニティと軍隊の話なので、
19世紀はじめのヨーロッパ史の知識があればいっそう楽しめますが、そんなのざっくりウロ覚えでも、
付録の地図とかかったるくて参照する気がしなくても、
戦記の部分や著者の歴史講釈とかめんどくさくてすっ飛ばしちゃっても、この小説は読めます。
詳細をスルーしてもグイグイ引き込むトルストイの筆力おそるべし。
そもそも私はその前に『クロイツェル・ソナタ/悪魔』(原卓也・訳/新潮文庫)を読んでいて、
ストーリー語り、描写の上手さに感動して、『戦争と平和』に手を出したのでした。
あ、ただ、戦場で馬が傷つくシーンとか、狩りのくだりで狩られてしまう狼のようすとか、
そのへん動物好きの人にはつらいです・・・。

ドストエフスキーはイヤな人、クセの強い人を描くのが巧く、筆致が鋭角でしたが、
トルストイは愚かな人、誘惑に弱い人を描くのが巧い。
『クロイツェル・ソナタ』や『悪魔』のようにクラい結末でもなんか癒しがある。
でもどちらにも、プルーストみたいな「笑い」の角度はないけどな。
ゲルマント公爵夫人の素っ頓狂なお辞儀の仕方とか、第一次大戦下で大真面目に男色変態プレイに
のめり込んでいくシャルリュス男爵の癲狂ぶりとか、私は大笑いしてました。

『戦争と平和』で、私がとくにすごいなぁ、と思ったのは、ニコライ・ロストフ若伯爵のような、
基本的には善良で保守的な人で、ときどき状況に流されてずいぶん無軌道なことをするけれども、
それを後悔したり反省したりする、でも(貴族の)社会通念からはみ出すようなことは決してしない、
そういう凡庸な俗人を温かく丁寧に描いていることです。
ニコライみたいな人物は、天分のある人が大好きなヘルマン・ヘッセの小説世界だったら、
5行くらいで見捨てられちゃうと思う。
ヘッセの「天分」とは、アートや学問その他の才能のことではなくて、
達成や成功では知りえない世界を予感する、なんというか悟りセンスのことです。
ニコライは軽騎兵部隊の将校になって、ナポレオン戦争を経験しますが、
父親が亡くなると軍隊を辞めて、領地経営に専念します。
領地経営って何をするのかというと、村長とか農民(農奴解放以前)の頭みたいな人たちに作業の
指示をしたり、作物の出来や収穫高をチェックしたり、販売の手配をしたりすることです。
仕事の大半は人に指示したり、指示が守られているかどうかを確認することで、
収穫を増やし収益を上げるには、
「百姓の心をつかんでいる(怖れられつつも信頼され慕われている)」ことが肝要です。
ニコライの目標は、父の老ロストフ伯爵が浪費家で散財してしまったことの反省から、
子どもたちに財産を残すこと、自分のような生活の苦労をさせないこと。
精神的支柱は国=皇帝陛下です。
お話の半ば過ぎまで、自分の屋敷に同居している身寄りのない親戚の女性ソーニャとラブラブですが、
最終的には、家の財政的窮状を救うためもあって、お金持ち貴族の娘マリアと結婚します。
この変心の過程も丁寧に書かれているので、えっ、ソーニャが気の毒すぎない? とは思うものの、
後味がわるい印象にはなっていません。

この小説には悟りセンスのある人(アンドレイ・ボルコンスキー、ピエール・ベズーホフ、ナターシャ・ロストフ、
プラトン・カラターエフ)も出てきますが、
ニコライを筆頭に悟りセンスのない人のこともしっかり描かれていて、それぞれ個性的なので、
私のオカルト語でいうところの「3次元に埋没している」ことが幼稚な愚かなことではなく、
目隠しをして周囲を探っていくようなゲームなのだと得心できます。
ニコライは自分の延長である土地や家族への愛着、自覚できる情熱(恋愛感情、皇帝への憧れ、忠誠心)、
そういった目に見えることや心にあって自覚できること以外には関心がない、
ある線から向こう(私の書きかただと「高次の感覚」)は滝になって落ちていて、
彼の地図には描かれていない。そんなところに踏み込んでいってぐずぐず迷うのは俺の性分じゃない、
命令されたことをそのとおりに遂行するか、生きるために死に物狂いで闘うしかない軍隊、
あるいは手をかければかけただけの成果が出て、暮らしの安定や子どもたちの将来につながる領地経営、
そういうふうにやるべきことがはっきりしている世界が俺の性に合っていると、ニコライは感じている。
なお、作者には軍隊勤務の経験があり、戦闘になると敵も味方も命がけなので、
現場は上官の指示命令を実行しているどころではなくなる、
したがって司令官、将官クラスの作戦計画はすべて空中分解する、と書かれています。
戦闘の現場は、次の瞬間に腕や頭が吹っ飛ぶかもしれない異常に切迫した状況で人が動いている
非日常であり、馬や糧秣を徴収したり、行軍、野営したりしている日常とは全然ちがうと。
でもどちらにせよ、すべきことがくっきり明確で、その場で答が出ないことに煩わされない点は同じです。
ニコライのような人に非3次元がどうのこうの、みたいな話をしても根本的に通じません。
こういう人にとって、非3次元がどうの的な話は形而上的なおしゃべりにすぎず、
というのは、形而上、形而下とは「形」がある(認識とその対象が切り離されていて、対象が認識とは
独立して存在する、認識≠存在)3次元の区別だからですが、
こういう人は形而下で答が出ないことには関心が向かないのです。
たとえばサッカーに興味がないのと同じように興味がない。それだけのことで、そんなのまったく自由です。

登場人物のうち、悟りセンスのある人のなかでは、アンドレイだけがアセンションまで振り切ります。
でも、この人は覚醒した二日後に、戦場で負った傷がもとで死んじゃうんだよね。
19世紀という時代には、3次元(という観念)を出て非3次元の五感的感覚(「物」という裏づけのない、
物質への「反応」ではない五感)に達すること、即身アセンションはムリだったんですね。
そういう発想ができなかった、五感と「(感覚の向こうに客体としての)物がある」という観念が
アロンアルファでくっつけたみたいになっていて、
五感というはっきりした感覚があるうちは「物(客体)」の実在が疑えなかったのでしょう。
いわゆる「身体をもちつつアセンションする」ことが可能になったのは、
べつに神秘的な理由によるのではなく、
「女性が格闘技をやってもおかしくない」とか「同性間の恋愛もアリ」みたいに、
そういう発想ができるようになった、そういう角度が開いたのだと思います。
なお「19世紀という時代」は、3次元ではかつて実際にあった事実ですが、
私にとっては自分のマインドにあるイメージであって、事実ではありません。
アンドレイの「気づき」は、1回目はアウステルリッツ戦で、2回目はボロジノ戦のあと、
負傷したときに起きますが、どちらも稀有といっていいほど美しく、
とくに2回目の「敵への愛」を感じるくだりは圧巻です。
この敵はフランス兵ではなく、味方の軍のほうにいる個人的な遺恨のある人物です。
彼の「気づき」の場面がすばらしいので、5巻の途中で退場しちゃうと、
話の途中で魅力的な人物が逝ってしまう『おにいさまへ・・・』(池田理代子作の漫画)とかを
読んだときみたいに、私的にはかなりテンションが落ちてしまいました。

悟りセンスのある残り三人のうち、
主人公のピエールとその妻ナターシャ(アンドレイの元婚約者で最終的にピエールと結婚する)は、
認識の対象として物質が実在し、それが固有の法則をもって連続的に広がり変化していく、
そうした物質でできた大勢の人や動植物や無機物が相克したり和したりしてかかわり合う
3次元世界に回帰、着地していきます。
プラトンは貴族ではなく農民出身の兵士で、ピエールにとって「悟りを知りながら3次元にグラウンディング
して生きる」手本のような人物です。
ナターシャはほぼサイキッカーに近い人ですが、悟りセンスがあるかどうかは微妙なところ。
超能力的な資質というのは「100メートルを9、10秒台で走れる」「暗算がものすごく速い」といったことと
同じで、悟りセンスとは関係ないからです。
でもアンドレイを看取ったさい、死の二日前に「覚醒してしまってここ(3次元)にはいない」のを見抜いたのは
超慧眼で、そんなことに気がつけるのは登場人物のなかでは彼女だけだと思いました。
この人は、勘が鋭く、歌やダンスが上手く、型にはまらず直感のままに動いていくキャラクターですが、
ピエールと結婚するやいなや、「二十歳過ぎてただの人となった元神童」みたいに、
主婦の鑑に落ち着いてしまいます。
しかも、しあわせ太りというよりは、夫の波動に合わせて(ピエールは肥満体)超能力でシェイプシフト
したかのごとく急激にブーデー化します。
夫の立てるどころか奉っている、と表向きには見せかけて、そのじつ、夫はむろん子どもたちも使用人も
彼女の言いなりで、ベズーホフ家は実質ナターシャの専制王国です。
この掌の返しっぷりには、一瞬、そんなアホな、と思うのですが、
ジェンダーセンスのいい人には、この人は「ニコライの女性版」(上述のニコライ・ロストフはナターシャの兄)
として3次元に着地したのだと察知できると思います。
もっとも文章を丁寧に読んでいれば、「病人の看護など人の世話をするのが上手い」とか、
「使用人たちがなぜか次女のナターシャに指示を求めてくる」とか、
ナターシャに専制主婦の資質があることには隠し味みたいに目立たない伏線が張られていて、
そのへんの作者の周到さにも感服しました。
  1. 2020/12/03(木) 13:58:20|
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『なにかが首のまわりに』(短篇小説集)を読んで

2020.10.31(土)

ナイジェリア生まれで、現在はアメリカとナイジェリアの間を行き来して暮らしているという
女性作家、アディーチェの短篇小説集を、図書館で借りて読んだ。
『なにかが首のまわりに』というタイトルはホラーっぽいけど、ホラーではない。
タイトルになった小説は、親戚のつてを頼りにラゴス(ナイジェリアの都市)からアメリカに渡った女子が、
おじさんにセクハラされて親戚宅を出、ウェイトレスをしながら、大学の講義で使う本を公立図書館で
借りて勉強しはじめる、で、働くレストランの客だった白人の男子大学生と付き合いはじめる、
その男子はほかの人よりアフリカの事情を理解しようと努めているげなんだけども、
彼女個人の事情には言語化できない部分が多々あり、
微妙に溝が深まっていって、お別れランプが点滅、みたいな話である。
訳者のあとがきによれば、著者が来日したとき、この短篇を松たか子さんが朗読したとのこと。

ほかには、
部族間の対立から町なかで突然勃発した暴動を逃れた女性が、敵方の女性と翌朝まで廃屋に
隠れてすごす話、
ユダヤ人(夫)とアフリカ系アメリカ人(妻)の夫婦の家でベビーシッターをするナイジェリア人女性の話、
社会派でない作品にはすべてダメ出しする、おまけにセクハラ野郎のイギリス人男性が主催する
「アフリカ作家ワークショップ」の話、
プリンストン大学院生のナイジェリア人女性が、同じアパートに住む不法滞在の同国人ゲイ男性と
親しくなっていく話、
イボ族の女性が、亡くなった夫の兄弟に奪われた財産を取り返すために息子に英語を学ばせる、
息子はすっかり欧化、キリスト教化してしまう、しかし孫娘が祖母の文化に回帰してくるという話、
などなど。

著者の小説世界では、一時間前まで元気に遊んでいた子ども、いっしょにしゃべっていた友だち、家族が、
不意に乱入してきた者たちに殺されてしまうとか、逮捕されてしまうというようなことが、しばしば起きる。
あるいは事故で死んでしまうとか。
そうやって、比較的平穏無事な生活が唐突に切断されてしまう。
主要登場人物自身が相対的に平穏無事でも、その人の友だちとか近所の人とか、
身近なところに切断を経験した人がいる。切断は、そこかしこにある。
パワハラ、セクハラははびこっているし、力のある人に媚びへつらうという醜い出来事も起きている。
差別されている側が、リベラリストの勘ちがいの言動にとまどうこともある。
暴力的で理不尽な怪物じみた力がどこからでも侵入してくる、その世界の背景には、
アフリカが植民地化を被った地域であることや、
民族間のいざこざ、氏族間のいざこざ、異なる宗教を信仰する人たち同士のいざこざ、
グローバルといっていいかもしれない性差別があって、
これらの要因が絡まり合い、こてこてに煮詰められてドロけている。
けれども、それらは肖像画や人物画の背景のような存在で、
スポットが当てられているのは個々の人物である。
歴史、政治、経済格差などは個々の人物の心象、記憶情景に、その人固有の体験として滲出していて、
個人の体験に融け込んでいる。
これは私に起きたこと、個人の体験だという視点が貫かれているために、
唐突な切断のような異常なエピソードがあっても、背景を共有していなくても、
たとえば日本と呼ばれる地域に住んでいて外国語力はなく社会にはほとんど関心がなく
ナイジェリアがどこにあるのかも調べないとわからず、
オカルトなデムパでゆんゆんしているような筆者でも、小説世界に入れるのである。
小説を読んでいる最中から、「ナイジェリアってなんだよ?」「日本って?」「女性って誰のことよ?」
とか、個人を何らかの社会に繋いでいるさまざまな名詞に厚みがなくなり、
風を受けた短冊のようにペラペラとそよぎだす。

私が「女性」とか「日本人」とかにカテゴライズされたのは周りからの外圧によってであり、
私の場合、外圧は優しくなかったので、その後も「女性」とか「日本人」その他にはならず、
知らんわ勝手に言ってろって感じだったが、
外圧が優しい場合には、そのカテゴリー枠から離れがたくなるのかもしれない。

教科書やメディアなど、どこかから引用してきた概念を編集してアウトプットした表現は退屈である。
そういうのは一定の様式に沿ったストーリーにすぎない。
では、声や手触りや体温をともなう記憶、傷跡、人や時代の形見、ありふれたもしくは特別な季節
などにもとづいて、魂込めて誠実に表されたものなら無垢なのかといえば、
やっぱりそれらも既成の思考からの引用からなる物語なのである。
あからさまなコピペではないので非常に気づきにくいけれど、
様式めいた升目や、刷り込まれた定型句や、引用符がある。
天使や精霊や宇宙人の振動は、そうした表現のアウトラインの外にある。
「外」が天使や精霊や宇宙人といった形で現れるのは、
語り手が升目に沿って自動書記をしているからだ。
自分自身が升目や定型句に張りついていて、そのために様式が見えなくなっている、
このカラクリから出て行くならば、
自分自身が天使や精霊や宇宙人の振動を包むuni-verse、単一宇宙だとするならば、
笑いも涙も、どころか涙腺とか口輪筋さえもストーリー化を促す概念だと直覚できるような、
燦々ときらめく砂漠まで後退しなければならない。
そこでは、そのきらめき自体が表現である。
それが何らかのストーリーをつくることがあっても、それはきらめきと区別できず、
升目に沿ってではなく、円とか多角形とか螺旋とか、自在な形で描かれて、虚空に融けていく。
燦々砂漠はオカルト語でいうところの「光の磁場」とか、その種のやつ。
といっても、物語を生きることもそこから出ることも、どちらが優れているとか愚かとか、
善いとか悪いとかいうことではない。

私が利用している図書館には「書評で紹介された本」をピックアップしてまとめたコーナーがある。
この本はそこで見つけた。
自分にとってその本がおもしろいかどうかは、
ぱらぱらめくってみたときにページの文字面でわかる、ような気がする。
この直感は当たった。
どの短篇も、どこか萩尾望都さんの漫画に似ていると思った。

<本のデータ>
書名/なにかが首のまわりに(The Thing Around Your Neck)
著者/チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(Chimamanda Ngogi Adichie)
訳者/くぼた のぞみ
発行所/株式会社 河出書房新社(河出文庫)
発行年月日/2019年7月20日
価格/1,150円+税
*収録されている小説は「セル・ワン」「イミテーション」「ひそかな経験」「ゴースト」
「先週の月曜日に」「ジャンピング・モンキー・ヒル」「なにかが首のまわりに」「アメリカ大使館」
「震え」「結婚の世話人」「明日は遠すぎて」「がんこな歴史家」。
個人的には「ジャンピング・モンキー・ヒル」「震え」「明日は遠すぎて」「がんこな歴史家」が☆5。
  1. 2020/10/31(土) 15:45:25|
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新約聖書のヴァリエ(追記あり)

2020.6.13(土)

図書館が再開したので、entitiesの推奨にしたがい、
『新約聖書外典』(荒井献・編/講談社文芸文庫)を借りた。
聖書の外典はたくさんあって、この本に収められているのは新約聖書外典のうち11編。
新約外典とは、正典(4つの福音書、使徒行伝、手紙、黙示録)に採用されなかった文書をいい、
選考に落ちた理由は「使徒ヴァイブスがない(原作の形をとどめない二次創作とか、
もはや異教といったほうがいい別流派とか)」ということであるが、
本書に収められたものを読む限り、私としても不採用に異議はない。
ざっくりいって、格調が低いのである。
状況や人間関係の描写、エピソードとか、妙に具体的で低俗なの。
これを読むと、逆に正典の文学性の高さがよくわかる。
たとえば、「ヤコブ原福音書」は聖母マリアの誕生をめぐるエピソード、その少女時代から受胎告知をへて
イエスが生まれるまでを記した文書であるが、
処女懐胎をめぐる大騒動は、妊娠した女子高生どうするよ問題とほとんど変わらず、
本当に処女かどうかをたしかめる婦人科検診的な検査まで行われている。しかも産後に(意味不)。
むかしの『週刊セブンティーン』とか、ガラケー時代のケータイ小説みたいよ。

とりわけエンタメ傾斜が著しいのは「ペテロ行伝」であろう。
訳者自身が「本書は民衆文学」「面白可笑しく読み、幾分かの教訓を得れば著者の意図に沿う」と
解説に書いているように、小学館の学年誌に掲載されていた漫画みたいにわかりやすい。
魔術師シモンとの対決場面も、シモンの側に「ギャフン」とか、昭和な擬音を入れたくなってしまう。
使徒ペテロのキャラクターはガタイのいいアンパンマンみたいな感じで、細かいことは気にせず、
「ペテロさん(←気安い)、あなたを神の僕と信じられるように、もっと別の奇蹟を見せてください」
「ほんなら、この窓からぶらさがっとる鰯を泳がしたるわ。そしたら信じるかな?」
「信じます!」
「イエス・キリストの御名において(←ここフルトランスチャネリング)、皆の衆の御覧じるなかで、
生き返って泳げ!」
といったやりとりのあと、ペテロが池に投げ入れた干鰯は、もちろん生き返って泳ぎはじめる。
万事この調子で、あまりにもスイスイと奇蹟が実現していくため、
むしろ「3次元のことはどうでもいいなマジ」と思えてくるのである。
3次元の褒美に惹かれて誰かの信者になったり教説を支持したりしとるようではつまらん、
3次元の動静に一喜一憂しとるだけで、結局は3次元から出とらんやんけ、
そんなのはコミットメントじゃない、ということが、かえってよくわかる。

で、小学生向けのヒーロー伝説みたいな流れだったこの文書は、
終盤の殉教場面で、一転、意味深になる。
磔になるさい、ペテロは「死刑の執行人さんよ、頭を下にして、逆さまの姿勢にしてくださらんか。
それ以外の姿勢はお断りだ」と希望する。「その訳は、皆の衆に死出の土産に打ち明けましょう」
とのことで、逆さ磔になってからの演説が長い長い。その理由というのは、
「人間の本性についての奥義」にかかわるもので、
「最初の人間は、頭を下に逆さまに墜落して、それ以前の、創造時の性質とはすっかりちがったものに
なってしまった。私のこの(逆さまの)姿勢は、まさにそのありさまを表している」
「(人間は)こういう姿勢で引きずり降ろされるや、自分の原理を地上にも投げつけ、そのままの状態に
適合させて、この世界の秩序体系を打ち立て、右のものは左、左のものは右と教えたのだ」
「このことについては、主(キリスト)が奥義で語っておいでだ。“もしきみたちが右のものを左、
左のものを右とし、あるいは上なるものを下なるもののように、後のものを前のもののように
するのでなければ、決して神の国を知ることはなかろう”とな。
この認識を皆の衆にもたらしたいがためにこそ、私はこんな格好をしておるのだ」云々。
私のリーディングでは、これは、
頭のなか、心のなかで物質世界をつくりあげていながらそれに気づかず、
物質という観念のこだまである物理感覚を物質が実在する証拠ととらえていて、
そうした観念に拠らない五感的な感覚を未だ知らないこと、
つまりアストラル帯域に3次元をつくりあげてそこを最終過程とみなし、
アストラル帯域より低い周波数帯域に当たるエーテル帯域を封じていること、
エーテル帯域(4次元)と3次元化したアストラル帯域(物質世界)が逆転していることをさす。
左右が逆なのは、鏡像(頭や心でつくった物質世界)を本物の現実と定義しているからだ。
もっとも、この奥義についての解釈には諸説あるだろう。
何にしても、タロットカードの「吊るされた男」(自己犠牲、魂の練磨などを象徴するという)よろしく、
身体を張っての長広舌も、どうも「皆の衆」には届いてないんじゃないかという気がする。
でも、それでもいいのかもしれない。
奥義と呼ばれるメッセージ、あるいは言葉にならないその感じ(周波数)には、
ゼロポイントフィールドに筒抜ける穴がいくつも開いていて、受けとる視点によって変わる。
自分の与えたものが返ってくる(自分の設定がそのまま反映される)。
だからこそ奥義なのである。

強く、明るく、わかりやすい「ペテロ行伝」は、しかし、全体を通して静かに感動的である。
有名な「クオー・ワーディス、ドミネ?(主よ、どこへ行かれるのですか?)」の場面だけでなく。
これはペテロが迫害者から逃れてローマを去ろうとするとき、
再び十字架にかかろうとして市の門から入ってくるキリストの姿をアストラルスペースで見て、
改心して踏みとどまることを決意するという場面(上述のフレーズは正典「ヨハネ伝」からの引用)。
性格は血液型性格診断でいうところのO型の典型、開けっぴろげで、偉い人にも遠慮せず、
貧しい人、弱い人の味方で、奇蹟もヒーリングも大盤振る舞い、
でもこの人には、かつて師匠イエスを三度否認したというトラウマがあり、
これが全編にわたって響いていて、ために敵をとことんまで追い詰めるということをしないし、
超能力スキルの高低で真偽を判断しようとする群衆に失望したりもしない。
この人は、三度の否認事件みたいなことがなければ、
独善的で押しつけがましい、すごくヤなやつになっていたかもしれない。
とすると、ペテロを使徒としてアクティベートするには、そのような事件が必要だったのである。

ところで、この新約外典を読むと、
ペテロ、ヨハネ、トマスなどイエスの直弟子たちの行った奇蹟の業の数々は、
「イエス・キリストの御名において」なされる、
つまり「これは私の能力じゃなくキリストの力が顕現したのですよ」という形で起きる、
フルトランス系である。
これは、師匠イエスの周波数(感覚)に合わせチューニングすることによって統覚視点(私)に
接続するというやりかたで、イエスの周波数がハイヤーセルフへの中継ポイントになっている。
諸々の奥義を「イエスの教え」として受けとるというのは、
本質的にはイエスを中継にして本来の自分(統覚視点)につながるということだ。

思うに、イエスが磔刑前夜にゲッセマネの園で祈ったというのは、
私から見ると異世界某所のおじさん評議会ですね。
イエスは「できればこの試練を除いていただきたい」と訴えたのではなく、
シナリオに異議を申し立てたのだ。
「ナザレのイエスなる人物を政治犯にして死刑にし、3日後に(物質波を反映させない
純エーテリックボディとして)復活させる、というプロットは、
3次元のストーリーになると、たしかに多くの人を惹きつけるでしょう。
しかし、苦しみとか受難の部分が必ず拡大強調解釈されて、
“苦難をとおして浄化される”という信念を強化するし、
そのほかにもネガティブに傾斜した多くの異論、異説を生んで混沌となりますよ。
イスカリオテのユダの役どころも理解されないし。
第一、こんな“全米が泣いた”的な作戦でいいのか。
われわれが伝えたい周波数(感覚)は、振幅の激しい感情の嵐にもみくちゃになって
消し飛んでしまいます。
みなさんもこっちに(3次元に)来てみたらわかりますよ絶対そうなるってスゴいんだから」
・・・という感じ。
それを、ターバンを巻いた人や18世紀の欧州男性ふうのカツラを被った人から、
「まあ、そう言わず。わかる人にはわかるから。わからない人も、セルフアセンション期が
来ればわかるから」
「てゆうか、逆にそのくらいやんないとなかったことにされちゃうんだよ」
「ユダ氏の役割も、エデンの蛇と同じように、わかる人にはわかるから。
それに二千年たてば、彼にスポットを当てたミュージカルができて印象も変わるって」
などと宥められ説得されたのではないかな。
その場にいた弟子たちが眠ってしまったのは、評議会の高波動に耐えられなかったせいです。
マスター・イエスの主張が通って「磔刑はなかった」説もあり、
じつは私はこちらの説を採用しているのですが、長尺になるので詳述はしません。
この説では、十字架はシンボルとして、キリストの死と復活はひみつのセレモニーとして
伝承されます。

なお、この本に収められた外典の大半の文書が性的な禁欲にこだわっており、
既婚者に対してもそれを入信の条件にしている。
性的禁欲さえクリアできれば飲食とか物欲とかほかの煩悩系は全部クリアできるし、
波動がダダ上がりしてめっちゃしあわせになれるといわんばかり。
これは、これらの文書が成立した紀元2~3世紀の地中海地域の流行が映し出されて
いるせいであろう。
フーコーの『自己への配慮~性の歴史Ⅲ』(新潮社)によると、ローマ帝政期には、
性的に禁欲できるのは自己を統御する力があるということだと考えられていたらしい。
みんな禁欲してしまったら人類は滅びるやんか、という類の、たいへん通俗的な反駁に対しては、
ローマの賢人たちなら、「滅びれば? 魂のほうが大事だよ」と答えるだろう。
そもそも、そんな滅びかたができるくらいなら、人類はこんなにこじれていないのだ(「みんな」に
できることではない)、という考えを含ませつつ。
これがエジプトの賢人なら、「人類って誰?」と問い返されて終わり。
ともかく、そのへんの流行色を引き算すると、
入信にあたって使徒たちが問うたことは、本当は、
「うちに来ると、めっちゃ波動上がるから、
モテるとかグルメとかセレブになるとか闘技場のS席とか、全部たいしたことじゃなくなって、
合意現実(世間)とは全然ちがう世界になるけど、それでもいいですか?」
ということだったのではなかろうか。
もちろん、性的な禁欲や処女性を聖性や超能力と結びつける発想は古来からあったし、
性的な欲求を繊細に統御して変性意識にイン、というやりかたもあった。
もしかするとキリスト教のどっかの流派でも行われたかもしれない。
しかしアセンション期にはもういらないノウハウだから、それらについては詳述しない。
ただ、性的な禁欲に自己統御の技法を見る、そのような史料にしかフォーカスしていなかった
のだとすれば、それはローマ人がそうだったというのではなく、
フーコーが「科学的な」思考を前提としていたからだと思う。
つまり、『自己への配慮』に描かれたローマ人とはフーコーのローマ人であり、
さらにはフーコーのローマ人として読んだ私のローマ人なのである。

6月14日(日)

『新約聖書外典』は前回の記事に書いた「どうしても読めない本」ではありません。
この本を読むにあたって摩擦はゼロでした。

ユダ氏の役割は、ジャズのコードでいうところの「テンション」の7とか9ですね。
これがプレアデス星団だったら7や9はいらなくてドミソだけ、ヘタするとドだけでも通っちゃう
けど、地球という磁場だとドミソシとかドミソシレじゃないと響かない。インパクトが必要w
私も、あらためて動画でテンションのコード聴いてみてゾクゾクしました。

<本のデータ>
書名/新約聖書外典
編者/荒井 献(あらい ささぐ)
発行所/株式会社 講談社(講談社文芸文庫)
発行年月日/1997年12月10日
価格/1,600円+税
*収録されている文書と翻訳者は下記のとおり。
 ヤコブ原福音書 八木 誠一(やぎ せいいち)
 トマスによるイエスの幼児物語 八木 誠一
 ペテロ福音書 田川 建三(たがわ けんぞう)
 ニコデモ福音書(ピラト行伝) 田川 建三
 ヨハネ行伝 大貫 隆(おおぬき たかし)
 ペテロ行伝 小河 陽(おがわ あきら)
 パウロ行伝(パウロとテクラの行伝) 青野 太潮(あおの たしお)
 アンデレ行伝 藤村 和義(ふじむら かずよし)
 使徒ユダ・トマスの行伝 荒井 献(あらい ささぐ)
 (ユダ・トマスとは使徒トマスのことで、イスカリオテのユダとは関係ない)
 セネカとパウロの往復書簡 青野 太潮
 パウロの黙示録 佐竹 明(さたけ あきら)
  1. 2020/06/13(土) 14:12:08|
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アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、
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