FC2ブログ

ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

3次元を「出る」角度からわかること

2020.10.24(土)

前回につづいて、セルジィ@金星とのチャネ談です。
途中で別のentityも出てきます。

みけ 何かあったときに、他人や社会のせいにするのも自分の責任だと考えるのも、
どっちも好きじゃないなぁ。どっちにも違和感があるし、責任っていう概念が重いよ。
軽やかさがないんだよね。
他人とか物とか社会とか、「外側」のせいにすると、自分では変えられないことになるから、
自分の責任と考えたほうがましなのかもしれないけど、
事態が打開できないと、今度は無能とか怠惰ってことで自分を責めて萎縮するじゃん。
セルジィ だから、そういう自分も「外側」も、両方とも「外側」なんだって。
他人や物や社会は、最終的に思考上で想定された物質に行き着く、
物質は「誰彼の感じかたとは関係なく客観的に存在する」と定義した客体X(ほかには
神、霊、エネルギーなど)の一種だから「外側」、
自分も、身体と身体にもとづく心からなると考えるんだったら、
これも最終的には思考上で想定された物質に行き着くから「外側」でしょ。
だから、自分のせいにしても他者のせいにしても、客体を想定していれば、
客体固有の法則(客体が物質なら自然科学とそれにもとづく経験則)が全部を動かしてるから、
どのみち「自分ではどうにもできないこと」が出てきてドツボるよ。
自分の身体だってどうにもできないんだから。客体なんだから。
客体を想定するってそういうことだもの。制限ビシビシ。
あなた、わかって言ってるよね?
みけ うん。責任ていう言葉が好きじゃないの。今、国語辞典を引いたら、
「人や団体が、なすべき務めとして、みずからに引き受けなければならないもの」だって。
うぇー、わくわくしないなぁ。
ルクレツィア@アルデバラン そういう「義務を負う」的なニュアンスじゃなくて、
「決定権」とか、著作権みたいな権利の概念としてとらえたらどう?
セルジィ あ、ルッツィー、久しぶり、元気?
ルクレツィア 相変わらず、てか会うたび綺麗さ増してるよね。
セルジィ まじすか!? うれP! ルッツィーもちょいロリめの周波数が超クールよ、素敵。

・・・しばしガールズトーク。筆者には意味不。

セルジィ うん、「決定権」でいいんじゃなくて?
みけ 「責任」は決定の結果がネガティブな方向に行ったときに使われがちな言葉だよね。
責任能力、連帯責任、免責事項、責任をとらないと無責任。
セルジィ だから「責任」ってワードやめようよ。
それ、想定した物質(客体)に働きかけてコケて、後始末の担当者をはっきりさせよう的な、
客体ありきの3次元発想だからさ。
みけ この世に生まれた、あるいは地球に生まれたのは自分が選択したからだ、同意したんだ、
っていう言説があるよね。けど、どう顧みても、そんな決定をした憶えはないんだよね。
セルジィ 3次元をやってみたいとか、3次元体験を通して「成長」っていうストーリーを描いてみよう、
っていう角度だったら、「なぜここ(この世、地球)にいるのか?」っていう問いを投げてると、
自分で選んだ、同意した、っていう答に得心できると思う。
それがその人の一人称意識(統覚視点)の角度であり、その角度のパース(パースペクティブ、
見取り図)が出来上がるから。
でもあなたの場合、「3次元を出るということをやってみよう。そうすると3次元から出るときに
3次元のしくみがわかる」という角度だから、出る時機が来るまで目的は見えてこないんだよね。
この角度だと、最初から出るほうが目的だから、3次元には浅く浸かるだけで、
背後に物質を想定した状況に反応するにしても反応を抑えるにしても、とにかくドラマチックじゃないし、
幾多のドラマをへて成長しているという実感もない、
3次元の制限ゲームを楽しんでいない、エンジョイしていないの。
3次元に浅漬けされてる間は、ひたすら居心地がわるいだけ。
だから、選択肢を示されて自分がこれだと決定した憶えはない、
気がついたら放り込まれてた、ある種のフィッシング詐欺みたいなもんだ、ってなるのは当然。
あたしも(地球にいたときは)そうだったし。
みけ 「3次元を出るために、いったん3次元に入る」という角度には、今年(2020年)になってから、
つい最近気がついたんだけど、
それにしても、そのことがそんなにやりたいことなのか?
お金を稼いで衣食住を整えないと生きられないとか、病気になるかもしれないとか、
地域によっては戦争がある、というか惑星全体として治安がよくないとか、
そんなリスクを冒してまで? 
非3次元で悠々くつろいで、イルカと遊んで、ってほうが私には合ってますけど? って思うんだけど。
セルジィ だけどあなた、信じてることがひっくり返るのって大好きじゃない。
みけ ・・・。
セルジィ 衣食住がどうとか、病気とか、暴力沙汰に巻き込まれるとか、
「これが誰にとっても同じ現実なんだ。逃げられないんだ」っていったん思い込みかけて、
それ全部、物質(客体)という想定にもとづくものだってわかって、
くるっ、ポン、と180°反転するんだよ?
で、もれなく3次元の種明かしも付いてくるわけ。すごくない?
みけ ・・・やばいわ。駄菓子屋のおばさんに「1等はプラモデルだよ」って言われてるみたい。
スカだと粒ガムだけど。
だけど、自分が選択した、同意したっていう情景(「記憶」と呼ばれるマインドの感覚)は
欠けてるんだよ。お膳立てができてたとこまでしかわからない。
セルジィ マインドを超えたところ(高次)の決定って、ストーリーにならないこともあるよ。
憶えがなくても腑に落ちればOK。
みけ 非3次元のコミットメント(決定)って、いくつか選択肢を示されて「どれにしますか?」
っていうんじゃなく、自分の欲することイコールあらかじめ決まっていたこととして、
一択で決まるんだよね。「選ぶ」というより「わかる」って感じ。
それで、背中をグイグイ押されつつ自分の意思で歩いてる、みたいな感じになる。
セルジィ そもそも、生まれることを選択したとか同意したとかって、
ソフィア@シリウスふうに言えば「未知を既知に還す運動」を3次元のしくみに当てはめた意訳、
ほとんど超訳の意訳なんだよね。
その翻訳が合う角度もあるし、合わない角度もある(合うかどうかは人によるという意味)。
あたしだって地球人だったとき、その選択とか同意とかってオカルト話をどっかで聞いて、
ふざけんな、おととい来い、って思ったよ。
みけ そっか、「運動」なのか。
セルジィ そう。運動の主体は統覚視点の自分と、自分が感じて創りだした感覚像、
両方がセットで起こしてる自律的な運動。
知りたいことはすでに知ってることなんだけど、知らないことにして、知ってることを思い出そうっていう、
すでにできてる絵をピースに分割してジグソーパズルをやる的な。
3次元をがっつり体験するのも、成長っていうストーリーをやるのも、3次元から出るために入るのも、
それぞれジグソーパズルで、正解もまちがいもないの。
みけ そういえば、私の宇宙には「宇宙連合から地球に派遣されたスターシードが場の周波数を
上げる」っていうお話があるけど、
あれも、感じ手(統覚視点)と感じる対象を分断し(対象は物質などの客体でできており、
感じ手とは関係ない独立した法則で動くと想定すること)、
さらに対象をいろいろなカテゴリーで分断していくことによってできあがる「物質化(客体化)した他者」
を、物質(客体)という想定をはずして感じ手が感じる感覚像に戻すってことでしょ?
統覚視点から見たパースの感覚像だったら、それが誰であろうと何であろうと、
整っていて(コヒーレント)統合されてるに決まってるもの。そりゃ周波数は上がるよ。
セルジィ うん。スターシード云々っていうのは、
3次元をいくらか体験するにしても、浅漬けで出るにしても、あなたの角度は出る方向だよ、
ってことを示す寓話情報のひとつなんだよね。
もちろん、同じことを伝えている別の寓話情報もあるでしょうし。 
スポンサーサイト



  1. 2020/10/24(土) 15:26:25|
  2. コミットメント
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

物質を想定するか、しないか

2020.10.10(金)

かつて、私は、精神世界で「アセンション」と呼ばれていることは、
見えたりさわれたりする世界から、見えたりさわれたりしない世界へと知覚が広がることだと
考えていました。
具体的には、見えない存在と対話したり、見えない場所で起きていることが感知できたりして、
その結果、見えない世界の全体像とかしくみがわかること。
見えない世界は見える世界をその一部として含む、と考えられたので、
見えない世界へと知覚が広がることは、知覚できる世界が大きく広がることを意味します。
これは意識できる世界が広がるということでもあるので、
アセンションとは意識が広がることである、というような言いかたをしていました。

左右の耳から周波数のちがう音が常に聴こえるとか、
身体が常に微弱に振動している(弱い電流が流れているような感じ)とか、
トランスせずにチャネリングが起きる、というような現象が、
私の場合は2011年の秋から起きるようになり、
そうしたことを知覚の広がり、意識の広がりの一種ととらえていたということです。

見えたりさわれたりしない世界が知覚できるようになったとしても、
見えたりさわれたりする世界は依然として存在しており、
そこでは、健康状態の変化とか、収支の増減とか、人とのやりとりがうまくいくとかいかないとか、
そのときどきによって、さまざまなことが起きます。
この見える、さわれる世界のことを、精神世界だけでなく一般的にも「現実」と呼びます。
私は、見えない世界へと知覚が広がったとしても、そこで感知した現象、知った情報などが、
その「現実」の運営に役立たなければ、ただのおもしろオカルト現象で、意味はないな、
と考えました。
それで、どうしたら見えない世界から得た情報を「現実」にうまく活用できるか? という方針で、
ずっとアプローチしていました。最終目標は「“現実”に変化をもたらすこと」です。
私にとっての「現実」とは、仕事を引き受けるとか断るとか、体調の回復とか金策とか、
ベタベタに生活的なことで、
生活に関係ない陰謀論とか宇宙サーガとかニュースの裏読みとかには興味がありませんでした。
このスタンスは2011年から19年半ばくらいまでつづきます。

今ならわかりますが、見えない世界で感知したこと、得た情報を「現実」に活用するというのは、
3次元に入ってそこに定着するとき、いわゆるディセンション(次元下降)期のやりかたです。
部族のシャーマンとか、古代の神官なども、それぞれの方法や「現実」の状況はちがっていても、
「見えない世界の情報を“現実”に活用する」という方向性は同じでした。
見えない世界を知覚して、そこで感知したことを言語化したり、情景化したりして、
自分なりに情報化できるようになると、「現実」に対処するのが上手くなります。
それまでとは思考の使いかたがちがってきて、
自分からアクションする(ネットや本で調べたり行動プランを立てたりする)前に、
「どうすればいい?」「こういう結果を出したいけど、そのために今何をしたらいい?」
という問いかけを、見えない世界に対してしておくと、
どんどんヒントが降りてきて、
自分だけで思案していたときには思いつけなかった方法が見つかるからです。
というか、見えない世界とつながりができることによって、
常に「?」という感じの探知波を出すようになって、
必要な情報があれば速攻集まってくるので、判断や決断が高速になるのです。

しかし、この「現実」に活用するというアプローチには限界があります。
それは「現実」の実体を物質だと想定していることによる限界で、
物質固有の法則(物理学や化学など)から逸脱する、
その法則にもとづく一般常識から逸脱するとなると、
そこでストップがかかり、空振りしたり、不発に終わったりします。
本人が自覚していない習慣的判断(潜在意識)が、
どのあたりで、何に対してストップをかけるかは人によるのですが、
特定の案件になると、「現実」の物質性が妙にクローズアップされてきて、
ありえない、ムリ、できない、といった思いが優勢になったり、
その思いがここを突破できないともうダメだ、という追い詰められ感になったりして、
絶対通したいオーダーだけは通らないとか、
いちばん助けてほしいときに見えない世界からのサポートが得られない、
といったことが起きます。
ここから先は物質固有の法則が動かす世界、常識が動かす世界だからタッチできない
という限界ラインがあり、
「現実」の実体である物質に主導権(「現実」の創造権)を委ねているということです。

しかし、オーダーが通らないとかサポートが来ないといったことは副次的なことで、
本当の限界は、このアプローチだと3次元を出られないということです。
物質が究極の「現実」で、それが広がっていたり、奥行きや内部をつくったり(空間)、
過去から現在、未来へと変化していく(時間)、
そういう世界で、物質でできた環境や物質でできた身体から絶えず繰り出されてくる問題を
クリアしていく、そうしたゲームみたいな営みが一生つづく。
もし転生を「あり」とするなら、これは一生では終わりません。
自分が認識する対象(物質)に主導権を与えていると、乗り越えても乗り越えても、
主導権を握っている側(物質)から何らかの問題が湧出してきます。
それでいいんだとか、人間とはそうしたものだと考えているとか、
まだまだそういうのを体験したいぞ、というのならそれでいいのですが、
私にとっては、これはゴールじゃない、という腑に落ちない感がありました。
アセンションって、見えない世界の現象や情報を使って「現実」を上手く回せるようになることか?
いやそこはオチじゃないだろ、という感じです。

ところが、あるとき(2018年の半ばくらい?)、私は、
これこれの色や形をしていて固い、冷たいといった物理感覚があるのはたしかだけども、
それらの感覚の向こうに物があるとは限らないと気がつきます。
物理感覚は直覚だけど、物質は直覚できないからです。
そして、物質はない→いや、ないともあるとも言い切れない、正解はない→正解がないのに
物質の存在が自明の常識になっているのだとすれば、これは想定だ。
だったら「物質はない」と想定してもいいはず、というプロセスをたどって、
私は「物質はない」ほうを選びます(コミットメント)。
「ない」ほうを選んだのは、その時点で、物理感覚の向こうに物がある感じがしなくなっていた、
物質のリアリティが希薄になっていたからです。
私の場合は、音源がないのに音が聴こえるとか、物理的な理由がないのに振動を感じるとか、
物質の作用からでは説明できない現象が起きていたことにもよりますが、
とくに不思議系の現象が起きていなくても、
何かその人なりの理由で「ない」を選ぶこともあるでしょう。
「物質はない」と想定することは、物質の全否定ではなくて、
物質や、その原理、法則は、究極の第一義的「現実」ではなく、
「物質があるとすれば」と仮定したときの「思考現実」
だということです。
なので、ある感覚を人に、もしくは自分で自分に説明するとき、
「筋肉を動かす」というような表現を使うこともあります。
筋肉は実在しないけれども、思考上にある筋肉という概念を使うと説明がショートカットできる
場合があるので。
そういうふうに、比喩とか補助線のようなものとして物質という概念を使うことがあります。

物質を構成する原子の組み換えを伴う変化(化学変化、化学反応)、
物体の位置、形状、大きさなどの変化(物理変化)が起きて、
それが生体を刺激して知覚されるのが、
色とか形とか温度、触感などの物理感覚だとされています。
しかし、自分の物理感覚の向こうに本当に物質が存在するのかどうか、
自分の物理感覚を離れて確認できる人はいません。
自分の物理感覚の向こうに、
自分の物理感覚の有無や感じかたとは関係なく、
しかし自分の物理感覚に作用する(反応を起こさせる)独立した客体として
物質が存在するのか、しないのかは、
科学がもっと発達すればわかるという問題ではなく、原理的に判定できないことなので、
「物質はある」としても「物質はない」としても、どちらも想定です。
「ある」とすれば「ある」を前提とした世界ができあがるし、
「ない」とすれば「ない」を前提とした世界ができあがります。
物理感覚を感じる=物質がある、ではなくて、
物質というのは、物理感覚の向こうに想定された客体なのです。
にもかかわらず、いったん物質を想定すると、
物質があることは考えてみるまでもなく当然になり、それが究極の現実とみなされます。
究極の現実である、とは、あらゆる事象の第一原因であり、
ここ(物質)が変わらないと根本的には変わらないということです。
物質は、物理感覚の向こう側に存在すると思考上で想定されたフィクションであり、
内側(主観)と外側(客観)に分けるとすると断然内側なのに、
いったん想定するとバリバリの外側とみなされるという、フシギな転倒が起きます。

色、形、温度、触感などを「物理感覚」とするのも、物理からくる感覚、
すなわち感覚の向こうに「物質がある」と想定していて、
物質が視覚や触覚などの原因であるととらえていることを意味します。
「物質はない」と想定すれば、色、形、温度、触感などは、端的な五感的感覚で、
それらは原因(物質)への反応ではありません。
「五感的感覚」という言いかたも身体(物質)の実在を前提としているニュアンスがありますが、
文章にするときは便利なので、この表現を使っています。
厳密には「最もはっきりしていて段差の大きい感覚」のことで、
人によっては「五感」ではなく六感とか四感かもしれないし、
特定の感覚が突出して敏感だったり繊細だったりするということもあるかもしれません。

物質があるから物理感覚が起きる、と考えると、
物理感覚は物質への一次反応、
さらにその物理感覚から思考、感情、気分などの二次反応が起きる、
という流れ図ができます。
「反応」とは、刺激にもとづいて起きる運動のことです。
刺激の発信源とされている物質を想定しなければ、一次反応も二次反応も起きません。
「物理」によらない五感的な感覚も、思考や感情や気分なども、反応ではなく、
ただそのように感じられている感覚である、
これが腑に落ちて当たり前になると、ものすごく清々しくなります。
原因を求めて物質に遡行していくという習慣、すなわち対処行動が止むからでしょう。

五感的な感覚や、思考や感情や気分といったマインドの感覚が感じられるとき、
そのような感覚とともに、感じて認識している視点(統覚視点の「私」)があります。
この認識が物質への反応や物理感覚への反応ではないとすれば、
視点は認識すると同時にその感覚を創造していることになります。

五感的ではなく、思考や感情や気分でもない直感、直知、
メッセージやイメージの送受信感覚、ヒーリング感覚など、
この記事の前半に書いた「見えない世界へと広がった知覚(高次の感覚)」も、
そうした感覚が生じるとき、それらの感覚の視点が認識すると同時に創造しています。
「物質がある」と想定すると、こうした感覚は、
物質の組成のまちがい(脳の器質的障害、化学物質の過不足による神経の機能障害など)、
一次反応である物理感覚の誤作動(幻覚、錯覚など)、
二次反応である思考や感情などがこじれた心理現象(妄想など)とされ、
それで説明しきれない場合は、気のせいや偶然としてかたづけられるか、
未解決ファイルに入れられて忘れられるかするのですが、
「物質がない」のであれば、そうした原因もありません。
また、「物質がない」のであれば、物質の作用で説明できなくても、
ありえないことでも、奇蹟でもありません。
思考から物質という考えがなくなると(これは既出の記事で何度も書いてきた、
客体‐空間‐時間思考システムがはずれることを意味します)、
それまで物質固有の法則に反するイレギュラーな現象として遠ざけられたり抹消されたり
してきた高次の感覚は、これを阻止していた物質という思考がなくなるので、
思考や感情や気分といったマインドの感覚にスムーズに変換されるようになります。
したがって非常に直感的になったり、イメージが豊かに、鮮明になったり、
迷うという「物質の法則や一般常識と照合して検討する」時間なしに動いたり止まったり
できるようになります。
そしてそこから、マインドの感覚と相関する五感的感覚が感じられ創造されます。

高次の感覚も、マインドの感覚も、五感的な感覚も、
濃淡や質感がちがうだけで、どれも「私」という視点で感じられ創られている感覚であり、
どれも現実です。物質という考えに裏づけられていないという意味では、どれも像であり夢です。
「見えない世界へと広がった知覚(高次の感覚)」は、マインドの感覚を通じて、
絶えず「見える世界(五感的感覚)」に活かされているので、
わざわざ特定の場面を選んで活用する必要はありません。
超常現象は通常現象として常に起きている、両者は区別できない、という世界になります。

物質を想定した世界(3次元)から想定しない世界(非3次元)への移行、
覚醒、アセンション、次元上昇、等々と言われているそれは、思考の領域で起きます。
高次、マインド、五感の全部が感覚(波動、周波数)に一元化するのだけども、初発はマインド。
物質は思考として想定されているからです。
感覚オンリーの一元世界にリアリティがないとき、
「現実」は放っておいてもどうにでも変えられるなどとはとても思えないときには、
必ず物質という思考がマインドに返り咲いて復帰しています。
  1. 2020/10/10(土) 18:20:55|
  2. コミットメント
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

3次元も非3次元も想定、どちらを選んでもよい

2020.9.5(土)

宇宙を操縦するには二通りのやりかたがあります。
3次元と非3次元です。
宇宙とは、感じられるもの考えられるもの一切合切。
操縦するとは、具体的でない意図、デザインを具体的にすること。
3次元と非3次元では、宇宙のとらえかた、角度が180°ちがうので、
操縦方式も真逆になります。

一切を自分ごととして一人称で感じる「私」が何かを感じる以前に何らかの客体がある、
客体は「私」が感じようが感じまいがずっとある、と考えるのが3次元です。
「私」とは別に、独立した客体があって、
それは「私」の考えや気持ちとは関係のない独自の、固有の法則で動いている、
と仮定したとき、その仮定どおりに出力される世界が3次元です。
客体は感覚に先立って存在するという設定なので、
「私」という視点も客体に由来する自意識であるとされます。
客体Xは魂でも神仏でもエネルギーでも何でもいいのですが、一般的には物質です。
すべては物質でできていて、物質の法則にしたがうので、
「私」もまた物質(身体)に由来し、
物質(身体)の諸反応が言葉や言葉のような機能をもつ象徴記号で表現された、
「この身体と心」という自意識である、とされます。

一方、非3次元では客体を仮定しません。
なので、「私」が感じたその感じ、「私」が考えたその考え(これも「感じ」のひとつ)が
そのまま宇宙です。「私」とは何らかの「感じ」を感じる視点、感じ手のことです。
「私」が感じる、認識するとともに、その「感じ」が生まれる、創造される。
何の「感じ」もなければ(感じる対象がなければ)、感じ手もいないのだから「私」もいない。
いたってシンプルです。
自分が登場しない夢を見ていても、その夢を見ている視点(夢見手)は「私」です。
そもそも目覚めているときでも、3次元で定義する「私」(身体)は部分的にしか見えませんし。
残りの部分は全身という客体を想定したときの思考です。

3次元は客体を仮定した世界です。
非3次元は客体を仮定しないと仮定した世界です。
どちらも仮定、設定です。
なので、どっちが正しいとかまちがっている、とは言えません。
以下、わかりやすくするために客体Xを物質とすると、
青い色とか、すべすべした触感などの感覚が生じていることはたしかであっても、
そうした感覚の向こうに物質があることをたしかめられる人はいないからです。
観測機器を使っても、観測したデータは観測した人の感覚でとらえられます。
自分の感覚を介さずに物質があると確認できる人などいません。
同様に、物質がないと確認できる人もいません。
ということは、感覚の向こうには物質があるかもしれないし、ないかもしれない。
確認できないのだから、正解は出ません。
「ある」と設定すれば3次元、
「ない」と設定すれば非3次元です。
物理学ふうにいえば、「ある」と設定すれば粒子ベースに、「ない」とすれば波動ベースになる。
なお客体Xが魂やエネルギーなどであっても、感覚の向こうに設定されている点では物質と同じで、
そのあるなしは誰にも確認できません。

客体X(物質)のあるなしを誰もたしかめられない、世代交代してもたしかめられない、
つまり原理的に正解が出せない、ということは、
「この文章の文意を30字以内に要約しなさい」とか、
「この絵に描かれているリンゴは何を象徴しているか」といった類の解釈問題であり、
解釈の根拠は「~だとすると」という任意の設定だということです。
だから客体X(物質)が「ある」とするのも「ない」とするのも自由だけども、
いったん「ある」もしくは「ない」と設定すると、
その設定を前提に解釈が展開していく。

<非3次元>
客体X(物質)が「ない」とすると、
高次の感覚 → マインドの感覚 → 五感的な感覚
というように、だんだん感覚(波動、周波数)が具体的になっていきます。
「私」というのは全部の感覚(波動、周波数)を貫く感じ手です。
物質は「ない」ので、五感的な感覚は物質を物質(脳や感覚器官)が知覚して
(物質からの刺激に反応して)生じた物理感覚ではありません。
雲や蒸気のようなマインドの感覚が、よりはっきりと、具体的に感じられる感覚です。
マインドと五感の関係は、
たとえばマインドがCメジャー(ハ長調のド、ミ、ソが同時に鳴る響き)だとすると、
五感は「ド」「ミ」「ソ」のどれかにはっきり決まるという感じ。
「ド」「ミ」「ソ」のどれであっても、すっきりした、うまくいっている状態です。

<3次元>
物質が「ある」とすると、
物質 → 物理感覚 → マインド(思考、感情、気分)
と、物質に対して脳や感覚器官という物質(身体)が反応して物理感覚が生じ、
その物理感覚に反応して思考や感情などが生じる、という流れになります。
物理感覚を物質への一次反応とすると、マインドは二次反応で、
二次反応も物質の相互作用(脳の働き)に還元されます。
高次の感覚は物質固有の法則を逸脱するので「ない」ことになっており、
集積した経験則を無意識に活用したとか、空想、妄想と位置づけられ、
マインドの枠内に収められます。

非3次元も3次元も、客体Xを「ある」と考えるか「ない」と考えるかのちがいなので、
どっちを採用することもできますが、
「ある」を選ぶと宇宙のオペレーションが非常に複雑になり、
「ない」を選ぶと単純になります。

客体Xが物質だとして、
物質は「ない」とすると、
感じ手の「私」(統覚視点)が何かの感覚を感じると同時にその感覚が現れる。
それだけでオペレーションは終わり。
五感に限らずマインドの考えも高次の閃きも全部感覚(周波数)です。
濃淡がちがうだけ。

物質は「ある」とすると、
「私」は物質(身体)に由来する自意識と定義されます。
この自意識「私」が宇宙を操縦するには、
物理感覚とか思考や感情などの裏側で本当は何が起きているのか、
常に注意を向け、情報収集していなければなりません。
オペレーションの決定権を握っているのは本物の現実である物質(客体)であり、
物理感覚は物質への一次反応、思考や感情などは二次反応にすぎないからです。
起きた反応が思考や感情や気分であれば、どんな物理感覚への反応なのかを探り、
物理感覚は物質への反応だから、物理作用にさかのぼって原因を調べる。
さらにこれに空間(物質の広がり)や時間(物質の変化)という要因が加わり、
過去の一次、二次反応、未来に予測される一次、二次反応、
身体内部、細胞レベル、地域差、国際情勢、地球環境、等々も調査対象になります。
このように、客体(物質)を設定すると、
本当の現実(客体の動向)に到達するために感覚の裏側を探らなければならないので、
オペレーションがたいへん複雑になるのです。
客体(物質)はそれ固有の原理、法則(物理学などの自然科学の法則)で動いているので、
法則に合わないオペレーションは不可能です。
したがって、どんなにがんばって調査し、原因を追究しても、できることには限界があります。
そもそも「宇宙を操縦する、オペレーションする」というのは、
物質(客体)を想定していない非3次元ぽい言いかたで、
物質(客体)が「ある」のなら、「現実に対応する」と言ったほうが妥当でしょう。
現実とは最終的には物質(客体)のことであり、対応することはできても、
それ固有の法則による限界(たとえば寿命や耐用年数など)を超えることはできないからです。

私は前回の記事で「問題が起きたときに原因を追究すると3次元に戻る」と書きました。
それは、「どうしてこの問題が起きたのだろう?」という発想をしたとたん、
感覚を物質(客体)への一次または二次反応としてとらえることになり、
自動的に「物質(客体)あり」の世界になるからです。
客体Xを考えない非3次元では、感覚に裏はありません。
なので、非3次元に行くと決めている(コミットメントしている)のであれば、
「自分に合わない感覚(“私”のものではない感覚)」は裏を探らずに手放すほうが賢明です。

ともかく、どちらを選んでもよく、どちらに出入りするのも留まるのも自由で、
優劣もありません。
ただ、客体Xを想定した世界、ザ・3次元のしくみが体験学習的にわかるのは、
ここから出て行くときだけです。
非3次元に留まっていればガイドブックで知った外国みたいな感じでしかわからないし、
3次元に留まっていれば物質(客体)の存在にリアリティがあるので、
想定だの統覚視点だの絵空事吹いてんじゃねえよ基本は脳だよ塩基配列だよ分子だよ、
ということになって、思考の構造体としての3次元世界は見えません。
これは3次元がおバカな世界だからではなく、
「物質(客体)は実在する」ことが大前提のお約束だから。
3次元にリアリティがあると、
客体‐空間‐時間思考がうんたらかんたら・・・といった類の形而上話を見聞きして、
それがロジックとして理解できたとしても、
なんか、「三角形は頂点の周りの角を勘定に入れれば本当は六角形だ」とか、
「周りはひとつの平面だから周りの角はひとつとカウントする。そしたら四角形だ」とか、
落語の『時そば』の会計ゴマカシ話のようで、こじつけっぽく、腑に落ちないでしょう。
そして非3次元から3次元に入って、定着するときには、
非3次元の方法で、つまりきわめて直感的、感覚的に慣れていき、
「いつのまにか客体(物質)があるのが当たり前になっていた」、
さらには「客体(物質)がどうこうとか考えたこともない」ところまで行くので、
3次元の全体構造はわかりません。
「客体(物質)があると想定する」こと自体、
「軸をずらす(自分と対象を分離して対象のほうに決定権を譲る)」
「重たく混雑している方角に照準を合わせる」というように感覚的です。
つまり高い波動のやりかたで波動を下げていくので、いちいち考えてないのです。
でも3次元から出て行くときは、複雑さや困難さに慣れた状態から単純なほうに移るので、
高い波動のやりかたをとり戻しつつ波動を上げていく過程で、
「高い周波数の感覚と低い周波数の感覚を比較対照する」
という、高波動時代には思いつけなかった複雑なふるまいができるようになっており
(これは喩えるなら飛行しながら回転やヒネリを入れるようなワザです)、
「時間がかかると思い込んでいたんだ」とか、
「現実は思い通りにならないのが大前提だから実際思い通りにならなかったんだ。
てことは結局想定どおりじゃん」とか、いろんな形で3次元のからくりがわかるのでした。
  1. 2020/09/05(土) 15:17:47|
  2. コミットメント
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

「決心」で扉が開く

2019.12.17(火)

身体の向きを変えると、見える景色が変わります。
それと同じように、マインドの向きを変える。
と、特定のテーマについて注意を向けていると、それについての情報が集まってくるように、
マインドが向いた方面の情報が集まってきます。
マインドが、「本来の宇宙に、統覚視点の“私”に戻る」方向に向きを変えれば、
「戻る」ための情報が集まってくる。
「戻る」ということは、客体‐空間‐時間思考システムに支えられた3次元(※)を抜けて
(これは3次元を体験するための装備を脱ぐようなものです)、
客体‐空間‐時間思考システムのマインドコントロールからマインドを自由にすることです。
五感的な感覚、マインドの感覚、マインドより微妙な高次の感覚、
このコヒーレンス(一貫性、整合性)を妨げているのは、
客体‐空間‐時間思考システムに操作されたマインドなので、
マインドを自由にすれば、もとの感覚(波動)一元宇宙に戻るからです。
※物があり、それが奥行や内部や広がりをもち、連続的に変化する、という3次元の世界は、
マインド(心のなかや頭のなか)の思考による見立てである、という意味。


この、向きを変える、向きを決める、定める、ということがコミットメントです。
この場合、コミットメントという外来語は「チャネリング」とか「エンティティ」みたいな
スピリチュアル寄りのスラングであり、
日本語でいうと「決心する」という表現に近いでしょうか。

コミットメントが戻りのプロセスに入る扉を開ける、「開けゴマ」である、ということについて、
ソフィア@シリウスと対話しています。一部、ヒーミル@シリウスイルカも登場します。

みけ 3次元に嵌った状態で、ある人が「アセンションする」とか「覚醒する」とか、
何らかの表現で「本来の宇宙に、統覚視点の“私”に戻る」というコミットメントをすると、
非3次元の直知(直感、閃きなど)や直力(偶然という形で現れる動力、変化)が働きはじめて、
それが戻るための追い風になるんですよね? どうして?
ソフィア その人の関心の方向が非3次元に向くから、向いた方向の力が作用しはじめる。
逆に言うと、当人の関心の向きが3次元にある限り、3次元からは出られません。
みけ でもさ、覚醒する! とか決めても、すぐその日の予定のこととかで頭がいっぱいになって、
いつもどおりの生活になっちゃうかもしれないでしょう?
ソフィア そうね。だから、最初は、①定期的に瞑想や統合ワークなどを実践する→②生活のなかで
問題が起きるつど、①とズレている感じ(この土台は3次元をつくっている思考システム)を手放す→
③問題がなくても、ズレを感じたつど、その感じを手放す、
というように、徐々に「戻り」のプロセスを進んでいくことになるでしょう(※)。
だとしても、最初に「戻る」という方向を決めておく必要がある。
※いくらか「時間がかかる」のは、スタート地点ではマインドが3次元に囚われており、
言語化、イメージ化されないものも含めて膨大な経験記憶が積み上がっていて、習慣で動いているため。

みけ 「戻る」と決めていないで、3次元生活をうまく回すための方法として①②みたいなことをやっても
だめってことだね?
ソフィア そう。そもそも「戻る」と決めてなければ③の段階まで行けないでしょう。
みけ 「3次元の豊かさも味わいつつ~」とか「苦しくても3次元をやり通して卒業しよう」とかは?
ソフィア それらも「戻る」ことにコミットメントしていない。
心がけはどうあれ、3次元に関心が向いているから。
宇宙はべつに倫理的ではないからね、天使などの高次存在が見ていて「この人はまだまだ気づきが
足りない」とかって判定しているわけじゃないんです。
方向が(3次元と非3次元に)分かれていると、直知や直力をもたらす力も分散されるんです。
みけ 力というのは、具体化する、実現する確率のことね。
つまり、直感で動いて場面がどんどん開いていくときと、
「環境に自分から働きかける」「離れた場所や内部をケアする」「一定の時間がかかる」といった
客体‐空間‐思考システムに沿っているときとに分かれると。
ソフィア 覚醒とかアセンション等と呼ばれていることに関心があっても、 
3次元のなりゆきが心配だから保険をかけておきたいとか、3次元の行方にミッションがある、
といった思いがあるとすれば、
それらは「感じ(波動)」に還元すれば、3次元にも関心が向いている、ということです。
しかも、意識に上らない経験記憶(習慣)に支えられているぶん、3次元への関心のほうが強い。
ヒーミル@シリウス まんじゅうこわい、見たい、知りたい、食べてみたい。
みけ ・・・そうそう、非3次元では「まんじゅうこわい」は「まんじゅう食べたい」とイコールだった。
心配とか不安ってネガティブな関心だよね。どうしてもそっちに引きつけられるわけだから。
ソフィア マインドが(客体‐空間‐思考システムから)自由になると、五感的な感覚は自動的に整い、
勝手に豊かになるから、そこをいじる必要はありません。
また、五感的な感覚は3次元ではない(3次元は思考でつくられておりマインドに属すから)ということも、3次元がリアルなうちはわからないでしょう。

みけ 3次元リアルをやってると、方向を決めることの大事さがピンとこないんです。
私もわかっていなかった。
ソフィア それは、客体‐空間‐思考システムによって、まず物(客体)できた環境があり、
物環境は物独自の法則(自然科学の法則など)によって動く、と設定しているからですよ。
だから、あることをすると決めても、環境に働きかけないでいることもできる。
そして、環境に働きかけなければ決定は実効性をもちません。
みけ ですね。だから3次元を設定してると、仮決定とか、条件が整ったら着手するとかっていう
保留ができるわけ。「決めたとしても、決めたとおりになるとは限らない(最終的に鍵を握っているのは
物独自の法則を土台とする常識全般の動向)」のが3次元の経験則で、
むしろ決めたあとに、いろいろと環境に働きかけることが出てきて、そっちがたいへんなの。
翻って、「決定すればうまくいくんだったら誰も苦労しないよ」っていう軽視にもなる。
3次元って実行重視の行動王国なの。
ソフィア では3次元を出て、客体‐空間‐思考システムに拠らなくなるとどうなる?
みけ 物(客体)も物(客体)独自の法則もなくなって、
濃淡や質の異なる数多の感覚が行き交い重なっているだけになるから、
感じたことがそのまま出現します。
何かを考えればそのまま即マインドで実現しているし、
五感的な感覚で温かいと感じれば、温かさが実現している。
で、五感的な感覚、マインドの感覚、高次の感覚には有機的な一貫性があって、
それは五感的な感覚にマインド、高次の感覚が響いているのでわかります。
音楽でいう「倍音が鳴っている」ってやつ。
ソフィア では「温かい」が「涼しい」に変わるとすると、そこで何が起きている?
みけ 統覚視点である「私」の感じている感覚、つまり周波数が変わる・・・あ、そうか、
そこで「私」の向きが変わるわけね。
「私」の向きが変わると、同時に感じて創造する感覚(周波数)も変わる。
ソフィア 高次の向きの変化が、マインドで関心の変化となって現れ、五感的感覚の変化となって
現れるわけです。
その「私」の方向の変化がコミットメントであり、「私」の決定なのですが、
マインドが客体‐空間‐思考システムから自由になると、
諸々の感覚が即座にコヒーレントに(一貫して)現れるために、
もはや「私」が自由意思を発揮して決定しているという手応えがないのです。
向こうから勝手に実現してくることが自身の意思でもある、という状態になる。
みけ 起きることは自分の意思なのか、あらかじめ決まっている運命なのか? という問いが
無意味になるわけね。意思イコール運命の自他力統合状態だから。
といっても、心身という体積をもった「私」が環境に働きかけるという大きな思考パフォーマンス、
これが思慮という「タメ」でありストレスのもとなんだけど、それがなくなるぶん、
3次元から見上げると他力寄りに感じられるんですが。
肩の荷が降りるんで、いわゆる「宇宙にまかせてればいい」状態になる。
ソフィア しかし統覚視点が消失するわけではなく、
「私」の感じたことが出現する(自分の与えたものが返ってくる)以上、
「私」はその「感じ(周波数)」の創造にコミットメントしているんですよ。
みけ で、①②③のプロセスにいる間、つまり「マインドに3次元が残っている」うちは、
マインドを3次元から自由にして本来の宇宙に戻ると、何度も再確認する必要があると。
ソフィア そう。スポーツやダンスのフォームを確認するように、マインドのフォームを確認するの。
そうしないとズレているときにズレていることがわからないから。
3次元というねじれはすべてマインドで起きているのだから、
マインドで感じている思考、感情、気分、その「感じ(周波数)」が明快か、腑に落ちるか、
わくわくするか、ということに気をつけていることはとても大事です。

2013年、私はロバート・シャインフェルド氏の著書『なにが起こっても「絶対☆幸せ」でいる法』
(原題:The Uitimate Key to Happiness/栗原弘美・訳/株式会社ヴォイス・発行)
という本を読みました。
これは、喜怒哀楽その他の感情を、名前がつく前の「感じ(周波数)」に還元すると、
高めポジティブつまり「幸せ」に収斂されていってしまう、という主旨の本です。
あとからふり返ると、私の書いていることは、
感情に限らず、思考や気分も、それらより強い五感的な感覚も、それらより微妙な高次の感覚も、
全部、「感じ(周波数)」に還元するということなので、この本の内容と共通点があります。
ただ、私は「感情を感じ(周波数)として味わうこと」をクローズアップしていないので、
そこがちがいます。
この本の終わり近くに、「決心すること」の重要性が説かれています。
それがストレートに決心とかコミットメントとかの言葉で表されているのではなく、
『マトリックス』という映画(私は見ていません)に出てくる「レッドピル」に喩えられて出てきます。
「レッドピルを飲む」ことが究極のサポート? レッドピルってなんだ?
と、さんざん期待をもたせられたあげく、「決心」というオチを読んだ私は、
この部分ではひどくがっかりしました。
当時の私は、決心の威力が全然わかっていなかったからです。
しかし、決心するというのは、
たとえば魚群が泳ぐ方向を変えるように、
宇宙のパースペクティブ全体が動くことであると同時に統覚視点「私」の指針決定でもあるので、
じつはたいへんなことなのです。
マインドが3次元にあると、「私」の決心と物体独自の法則が後者優位で拮抗し、
決心したあと、物体独自の法則で動く環境に働きかけなければ状況は変わらないし、
それでもなお決めたとおりになるとは限らないのが当たり前なので、
決心の効果が非常に実感しづらい。
マインドが3次元から自由になれば、物体や物体独自の法則という概念は消えるので、
「私」の決心だけで全感覚(全周波数)が感じられ創造されます。
そうなると「決心」というほどエッジの立った緊張感はないので、
「関心の向きを変える、定める」といったほうがいいかもしれません。
ともあれ、戻りのプロセスに入るときのスタート地点は3次元であり、
事前に決心の実効性に釈然とできないまま決心することになるので、
ある程度の思い切りを必要とするという意味で、
「レッドピルを飲む」という表現は喩えとして適切なのかもしれません。
  1. 2019/12/17(火) 16:29:27|
  2. コミットメント
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

コミットメントをめぐるチャネリング鼎談

2019.12.4(水)

よし、こうしよう、と決めたからといって、そのとおりになるとは限らないのが3次元の世界です。
3次元の世界とは、世界は物質でできていて、これがいちばんたしかな現実だ、
と思い込んでいる心の世界のことです。
そう思い込ませているのは、筆者が客体‐空間‐時間思考システムと呼んでいる、
思考や感情や気分といった心の動き全体(マインド)をコントロールしているメタ思考です。
しかし、このマインドコントロールを解くと決めると、
これは「さよなら3次元」宣言になるので、
客体‐空間‐時間思考システムがコントロールしている3次元ではない、
非3次元の力学が働きはじめます。
それは「“私”の感じたことが創造される(自分の与えたものが返ってくる)」という原理で、
「私」が興味をもつこと、知りたいこと、わくわくすることが全感覚(全周波数)になる、ということ。
全感覚(全周波数)とは、
高次の感覚(周波数)、マインドの感覚(周波数)、五感的な感覚(周波数)が重なる、
コヒーレントな(一貫した)宇宙のことです。
この宇宙は、マインドコントロールされた心が思い込んだ物質ではなく、
「私」が感じて創りだした像、「私」が見ている夢です。
「私」というのは、この全感覚(全周波数)の統覚視点、つまり感じ手、創り手、夢見手であって、
客体‐空間‐時間思考システムによってそう思い込まされている皮膚の内側(身体)や主観のこと
ではありません。
じつは3次元(というマインド世界)のほうが特殊であって、
「私」は非3次元へと進むのではなく戻るのですが、
その戻りのプロセスの扉を開けるのが「戻ると決める」こと、コミットメントであり、
それによって非3次元の力学が動きだすという意味で、コミットメントは非常に重要です。
今回はその話を、ソフィア@シリウスやモナ@アルクトゥルスとしています。

みけ コミットする、コミットメント、かかわる、決める、約束する、というのは、
3次元マインドから脱して非3次元状態になる、3次元マインドでつくった分離を統合する、
身体や心をもった自意識じゃなく、統覚視点の「私」として存在する、つまり創造主になる、
これらは全部同じことですけども、
そうなると決めて、こうした状態に向かう何らかのワークを何度もやる、
そして動くべきと感じたときに動き、止まるべきと感じたときに止まる、ということですよね。
要するに、決心して、決めたとおりに実行するということです。
そういうコミットメントが必要になるのは、まだ3次元マインドのとき、
もしくは、いったん非3次元に、ザ・クリエイター(創造主)になったけど、
また3次元マインドに無自覚に戻ってしまったことに気づいたときです。
どっちにせよ、とにかく3次元マインドのときです。
ソフィア@シリウス 補足しておこうか。
3次元マインドとは、マインド(思考、感情、気分)が客体‐空間‐時間思考システムのコントロール下に
あることだから、客体‐空間‐時間思考によってそう思い込んでいる、身体や心に制限された「私」、
「ここまでが私だ」という自意識になった「私」が、
コントロールされた3次元マインドから抜けると決心しなければならない。
このとき、3次元マインドから抜けたあとどうなるのかは、まだ実感できないからわからないし、
統覚視点、創造主の視点の「私」もどんなものだかは、そうなっていないのだからわからない。
それでもとにかく、シフトする方向に行くと決心する必要があります。
たとえ自意識化していても、決められるのは自分しかいないのだから。
そして、客体‐空間‐時間思考は習慣に埋め込まれており、だからこそ「システム」なのですが、
このシステムに載った3次元マインドは、いわゆる無意識まで制御していますから、
決心したら即座にすべてが一変するというわけではない。
その時点の自意識が客体‐空間‐時間思考システムに思い込まされているとおりに、
思い込まされているぶんだけ空間移動が必要になったり、時間がかかったりします。
各種のメソッドは、そうしたプロセスを速めるためのツールといっていい。
みけ それが繰り返しワークをやったり、
3次元マインドで展開する「生活」をするなかで「問題をつくりだして対処する」という反応が
出そうになったら、立ち止まってゼロポに還したりするってことね。
ソフィア そうです。
3次元マインドでなされる思考、抱かれる感情や気分には、どんなものにも、
「さまざまな環境(空間)下で、幾多の時間をかけてここに至った」という経験記憶が載っています。
過去世とか別世とかの表現をとって載っているものも含めて。
それが言語化、情景化しなくても、感覚(周波数)の重みという形で積み上がっている。
それが「習慣に埋め込まれている」ということです。
しかし何度も繰り返しコミットし、実行しているうちに、この荷物はだんだんはずれていって、
3次元マインド、3次元マインドでつくり上げている「現実」、自意識に制限された「私」、
これらに対する違和感が強くなっていく。
すると、ある時点から、非3次元状態のほうが優位になって、
3次元マインドや3次元の「現実」や自意識化のほうが特殊になるから、
非3次元化、統合の速度はすごく加速する。
みけ 非3次元状態がふつうになってるって、どうやってわかるんだろう?
ソフィア わかりやすく言えば、24時間中、3次元比でポジティブ(非3次元では中立)でいる時間が
長くなる。3次元の「現実」に不平を言わなくなり、自己批判も他者批判もしなくなる。
3次元比でポジティブ(本来は中立)でいる時間が長くなると、
ネガティブな思考や感情や気分を反省して自分を責めることもなくなる。
それらがただの感覚(周波数)だとわかるからです。
さらには、3次元の「現実」を考えること自体がなくなっていきます。
モナ@アルクトゥルス 付け加えていいかしら?
余計なおしゃべりが減って、真面目な話でも冗談でも、本当のことしか言わなくなります。
本当のことというのは、3次元マインドであれこれ計算した発言ではないってこと。
会話がなくても平気だし、独りでいても平気。
人との会話って、誰かを思いやってフォローするにしても、逆に批判するにしても、
他者像を客体化し同時に自分も客体化して、3次元の「現実」を強化するのに使われてきたんだけど、
それはもう結構。
ザ・クリエイターに戻るプロセスでは、わくわくを五感化(音声、文字などにする)するツールとして
声を使ってください。

モナ それとね、コミットメントだけれども、これはトータルで、全面的にかかわると決めることだから、
朝晩これこれのワークをやってるから、とか、1日30分瞑想しているからといって、
それ以外の大半の時間で3次元の「現実」をやりくりしてたら、ずっと3次元マインドのままだよ。
ソフィア 大半の時間を3次元の「現実」の運営に費やしてるってことは、
3次元マインドでつくる3次元の「現実」のほうにウエイトが置かれてるわけだから、
朝晩のワークや瞑想その他でリセットされたとしても、
また「現実」の運営にエネルギーが費やされていきます。
一方で変化を希求しながら、もう一方でその変化を阻むことをするという二律背反をやっている。
みけ たとえば、朝、15分間瞑想するとするでしょ。で、それが終わると、
3次元マインドでつくってる「現実」でとらえると「生活」と映る場面に、とりあえず入っていく。
その「生活」の用事をあれこれやっているうちに、なんか腑に落ちないとか、モヤっとしてきたら、
そのまま押し切らないでゼロポに還す、ってことでいいのかな?
そうすると、本来の方向にピントが合うから、ピントの合ったほうに動けばいいわけで。
ソフィア そうです。「腑に落ちない」ことに気がついているときに放置しない、
事の大小にかかわらず習慣に押し流されないということ。
モナ ダブルスタンダードをやってると非3次元状態には戻れません。たとえば、
①精神世界とかの本をたくさん読んだり、情報を集めたり、チャネリングしたりしているけれど、
読んだり通信したりしている場面以外では「仕事モード」「生活モード」に自動切換して
予定をこなしたり問題に対処したり、客体‐空間‐時間思考に沿って考えごとをしている。
②週に何回か、瞑想したり何かのワークをしたりする時間を設けているけれど、
その「特別な時間」以外は「仕事モード」「生活モード」に自動切換して・・・以下①に同じ。
こうなるのは、非3次元状態に戻る、創造主になる、というコミットメントをしていないからなの。
引き寄せの法則とかを上手に使って、3次元の「現実」をうまく回せればいい、というのも、
3次元の「人生」を平穏無事に全うできればいい、というのも、
3次元の「地球」を卒業するまでの辛抱だ、それまで日々精進だ、というのも、
3次元の「現実」をやりながら、この不出来な「現実」の終末や、そこからの新生を願うのも、
どれもこれも非3次元状態へのシフトにコミットメントしていない。
コミットメントしていれば、そんなふうに「スピリチュアルタイム」と「日常タイム」にかっぱり分かれる
なんてことはありません。
ソフィア 宇宙を感じて創造する、統覚視点としての「私」に戻るというコミットメントをしていると、 
3次元の「生活」のなかで気づくことが増えたり、直感が降りたり、という形で、
非3次元が浸透してくるからね。
「“生活”や“人生”をうまく運営するために非3次元を活かす」のではなく、
「“生活”や“人生”の場面のなかで非3次元を使う」ことによって、
客体‐空間‐時間思考に制約される「生活」や「人生」は退いていき、
「私」が感じて創っている宇宙として存在する、プレゼンス(現前)の状態がわかってきて、
それが当たり前になります。

みけ 客体‐空間‐時間思考システムにコントロールされた3次元マインドでつくる「現実」に、
このシステムでつくられた自意識が注目する、フォーカスしまくるのって、
「現実」に興味があるからじゃなくて、怖いからだと思うんだよね。
甘くないぞ、きちんと向き合わないといけないぞ、っていう。
だから、「3次元の“現実”がどう変わるか」という面に着目するんだと思う。
そのなんとかメソッド、なんちゃらワークってのは役に立つの?
仕事に活かせるのか? 金欠が、病気が治るのか? 親の性格変わる? とか。
一寸先は闇っていう負の動機からくるんだけど、
そっちに注目してると、「日常タイム」は手放せないし、
精神世界とかに関心があってもダブルスタンダードになるでしょう。
ダブルスタンダードって、一般的な意味の「現実的」「現実主義」ってことだから。
モナ あなたはどうなの? 「スピタイム」「日常タイム」に分けて、
物やお金や他人がかかわってくることは「生活モード」「仕事モード」で処理したほうが楽?
みけ いやいやいや。非3次元状態でいたほうが全然楽ですよ。
人へのアドバイスを止めたら相手が勝手に元気になったとか、
昨日も、出たくなかった集まりに先方からキャンセルの連絡があったりとか。
ヘヴィーなことがあっても、統覚視点の「私」に戻ってゼロポ還しすると、さーっと道が開けるし。
そもそも非3次元状態だと3次元の「現実」に興味がなくて、
ただ五感的だったり思考的だったり直感的だったりする感覚(周波数)を感じてるだけだから、
それ自体、すっきりしてて健康的なんだよね。
わくわくしてるとか幸福感とかって、3次元の「現実」の出来事とはまったく関係ないですよ。
非3次元状態って、悩みがなくてホッと安堵できる世界じゃないんです。さりげにテンション高くて、
何をしてても、とくに何もしてなくても、無条件に楽しくて元気。
「現実」の声がデカいときって、「私」とズレて3次元マインドが立ち上がってるときだから、
そのズレからくる変な被操作感(これが増幅すると被害者意識になる)をゼロポに還します。
なので、「現実」感はなければないほどよく、
「現実」感のあるなしや、その強度は、自分という宇宙のモニタリングに使ってるという感じ。
全感覚(全周波数)が整ってれば「現実」は気にならないけど、
「現実」がリアルでそっちに引かれてるときはズレてるとき。
ソフィア そうそう、そうやって非3次元状態が楽しいってわかってくると、 
「3次元の“現実”がどう変わるか」「3次元の“現実”に役に立つのか」という問いが出てこなくなる。
モナ ダブルスタンダードって、五感的な感覚を「日常」、微妙な感覚を「スピリチュアル」と呼んでいる
のではなくて、3次元をベースにして、非3次元との間を行ったり来たりしているってことよ。
3次元ってマインドでつくってる世界だから、五感的な感覚じゃないの。心の世界。
だから、3次元に着地するって全然グラウンディングじゃないからね。
(ここで突如、ヒーミル@シリウスイルカの歌。以前に一度聴いたことがあるもの)
ヒーミル ♪ぐらぐら ぐらぐら グラウンディング きみのこころに グラウンディングー。
みけ ・・・。ところで、自分でこうすると決めて、決めたとおりに実行する、って、
3次元にリアリティがあると、なんか、努力とか練習とかっていうニュアンスがあります。
3次元の「行動」って、すごく大きな労力を想定していて、
なにせ身体とか心に制限された自意識としての「私」が、単身、環境に働きかけてものごとを進める
わけだから、決めるのも実行するのもたいへんなことに思えてしまうんですね。
精神世界的なことがかかわると、「修行」「修練」あるいは「生き直し」みたいな。
ところが実際やってみると、べつにたいへんじゃないです。
あ、ここがズレてるな、って、自分でわかるし、
ツールはいろいろあって、自分仕様にアレンジできるようにもなるし。
ただ、3次元マインドでつくってる「現実」って、ほんとに習慣になってるから、
スポーツのフォームを変えたり、ふだんの姿勢とか話しかたを変えたりするときみたいに、
最初のうち、ちょっと意識的にならないといけないけど。
ソフィア 3次元の「現実」前提で考えているときは簡単じゃないと思えるんです。
めんどうくさそうだとか、根気がいりそうだとか、ハードルが高く見える。
しかし「本来の(統覚視点の)“私”に戻る」とコミットメントすると、
それは3次元を脱して非3次元状態に移行するという指令だから、
非3次元の知識や方法がダイレクトに、
あるいはベストのタイミングでメディアを介した情報などが入ってくるようになる。
追い風が当たり前になるわけ。
  1. 2019/12/04(水) 16:36:23|
  2. コミットメント
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

プロフィール

みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、
イタリアの美少年のような豹専務(♀)が同居人。
リンクはご随意に。連絡も不要です。
いただいたコメントはすべて拝読しておりますが、
原則としてレスはつけません。
※パブー(電子出版サイト)のリニューアルにつき、出版案内は休止中です。

最新記事

カテゴリ

三毛猫亭日乗 (25)
社説 (27)
ひみつの閉架書庫 (64)
デムパ話 (25)
超デムパ話 (8)
新世界への回帰 (115)
アセンションについて (17)
実現のメタフィジクス (24)
仮想集合システム (31)
コミットメント (12)
次元上昇 (37)
平面世界(4次元) (6)
デムパなメソッド (23)
ナチュラルトランス (14)
ナチュラルトランサーの特徴 (1)
フィロソフィア(愛知) (28)
この女(ひと)を見よ (8)
不思議なお店 (8)
RTLF (2)
未分類 (17)
ブログをご覧になる方へ (1)
音楽 (7)

最新トラックバック

ぞろ目が出るかな?

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文: