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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

高い音はほんとに高いのか

2021.2.12(金)

Youtubeでトランペットのレッスン動画を公開されている、ニイヤマッスルさんという方がいらっしゃいます。
記事を書くためにヤフーで検索したところ、ニイヤマッスルこと新山泰規さんは、
ジャズバンド等での演奏活動のほか、群馬県内でトランペットのレッスンをされているとのこと。
のみならず、トレーニングジムの広報、営業もなさっている、「筋肉トランペッター」なんだそうです。
私は昨秋くらいから、この方の動画をときどき拝見していました。

発想が革命的だったのです。
トランペットで高い音を出すには、最初に唇のテンションをMAXにしてなんかわからん謎音程のハイノートを出し、
そこから目標の音(ハイB)まで降りてくれば楽に出せますよ、
なんてことを、ぺろぺろんと言い放っておられるのじゃ。
は?(-д-)?
それって、跳び箱の8段が飛べれば6段は楽にイケますよ、って言ってるのといっしょじゃん、できねーよw
って、初は笑ってネタにしてたのですが、
何本か動画を見ているうちに、「高い音」という観念が壊れていって、
自分のなかでは、ハイFくらいまでの音はもう完全に「高い音」ではなくなり「そういう音程の音」に
なってしまいました。
そもそも私には、自分にはまだ吹けない音であっても、
高い高いといわれている音は本当に高いのか?
風(息)に押されてゲート(唇)がある振動幅で振動してそれが楽器に伝わって音になってるだけでしょ、
条件設定(息、唇)が変われば出力される音も変わる、それだけじゃん、
高い低いってのはマインドで起きてる、プレッシャーとセットになった心理評価じゃん、
というような思考があって、
自分が出せると思ってる音なら、いずれ条件設定がそろって出るはずだ、
という無根拠な確信にもとづいて練習してたのでした。
楽器をはじめたのも、自分の意志でというよりはチャネリング的、直感的なオカルト動機でした。
だからといってすぐできるわけではありません。
オカルト界には、ピカッと閃くと、まったく未経験のことであっても、
身体が勝手に動いてできてしまった、みたいな例もあるらしいですが、
私の場合は全然そうではありません。
当初は、顎が震える息がもれる姿勢が保てない酸欠でめまいを起こす・・・等々、
あれやこれやの問題がうず高く山積していました。
また、中高生のときホルンをやっていたので、
昭和の部活で培われた無理のあるアンブシュア(口格好)が潜在記憶に残っていて、
これをリセットすることからはじめたので、
たぶん、まったくの未経験ではじめた人よりも、とっかかりはたいへんでした。
でも私は、どうしたらこれを解決できるだろうか、などと煩悶したりはせず、
たまにおもしろそうな動画や文章を拾い見、拾い読みするだけで、
問題解決のためのリサーチはめんどくさいので一切せず、
そのうちなんとかなるべさ、と放っておいたら、
そういえばそんなことあったっけ、みたいに、問題は消えていました。
むかしの歯科治療の後遺症である左顎の麻痺と知覚過敏もいつのまにかなくなっていて、
これにはかなりびっくり。

トランペットの中音はチューニングB(ベー)である、
だから音出し(ウォーミングアップ)はチューニングBからするのがいい、
という説も画期的でした。
トランペットの公式音域は、
ファ# ソ ラ シ  レ ミ ファ ソ ラ シ  レ ミ ファ ソ ラ シ ド
の約2オクターブ半です(※)
ただ、ジャズやポップスだと、右端の(ハイB)よりも高い音を使うことがあって、
その非公式音域を含めると最大幅は3オクターブ半くらいです。
チューニングBとは、右端のドの一オクターブ下ののことなので、
こうして並べてみると、なるほど中音といってもいいかもしれません。
ローからハイまでの二オクターブを最も頻繁に使われる音域と考えれば、たしかにそうです。
しかし、ニイヤマッスル説で中音とされるチューニングBは、
トランペットをはじめてまもない人がパパパッパー、イェイ、とかって出せる音ではないんですね。
ど初っ端は音自体が出ないというケースもあるし、そもそも音らしい音が出るまでがひと苦労、
練習時間や回数などにより個人差はありますが、
チューニングBが出せるようになるまで、だいたい3か月くらいはかかるんじゃないかな。
チューニングBは、高いほうへ音域を広げていくときの最初のヤマ場みたいな感じに思えます。
するとだね、すでにチューニングBからして高い音であるという刷り込みができてしまうわけです。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、と上がってチューBまできた、さぁ、ここから高音域に向かうぞ、
みたいな意識が形成されてしまう。
この「チューニングBは高音域のスタート地点」意識だと、その上のハイF(ソ)は富士山、
ハイB(右端のド)はマッターホルンか何かみたいに思えてしまいます。

このマインドを崩すには、ともかくチューニングBが吹けるようになった段階で、
音出しの一発目とまではいわなくても、ソ、ラ、シ、ド、とか、ソ、ラ、シ、ド、シ、ラ、ソ、みたいに、
口輪筋が元気なうちにチューニングBを出しておくのは有効と思います。
私自身、まだチューニングBが出せなかったころでも、
その日に出せるいちばん高い音から音出しをしていました。
「これはいろんな音のひとつで、高い音ではない。
高い音などというのは他人軸の定義で、私の宇宙に高い音なる音は存在しない」
という意識に誘導する、一種のイメトレです。
現在は、公式音域の音は出すだけなら全部出せるので、
音出しの一発目は二オクターブ目のソ(F)かミ(D)にしています。
※トランペットはピアノの鍵盤でいうとシ♭すなわちドイツ音名だとB(ベー)がドになる移調楽器なので、
トランペットでドの音を吹くと、ピアノの鍵盤だとシ♭の音が出ていることになる。
ピアノのド(C)がそのままトランペットのドになるC管トランペットというのもあり、主にオーケストラで使われている。


とはいえ私は、上記の音域の左半分、中低音を無視しているわけでは決してありません。
むしろ中低音のほうにウエイトをかけています。
中低音がきちんと出せるようにならないときれいな響きがつくれないだのなんだのって、
そんなの都市伝説かと思いきや、どうも一理あるっぽい。
ただ、低音の口からだんだん口を締めて上げていく、のではなくて、
高音の口をだんだん脱力させて低音に降りていく、というニイヤマッスル説のほうが、
練習の考えかたとして合理的なんですね。
自分でやってみてそう思いました。
左半分の音域がちゃんと出せるようになってから右半分にとりかかろう、というんじゃなく、
ニオクターブ目にも(倍音のリップスラーや音階などを使って)ばんばんトライするようにしたら、
左半分の音程が安定し、響きも向上したので。
アンブシュア(口格好)にせよ姿勢にせよメンタルにせよ、またおそらく楽器関係に限らず、
脱力が上手になると、適切な力の入れ加減が感覚的にわかるので、いろいろ上達すると思います。

人にはその人の宇宙があり、マインドも五感的感覚もちがうので、
ニイヤマッスルさんとはちがう角度のアプローチも多々あるでしょうが、
ドレミファソラシド(上り)ではなくドシラソファミレド(下り)指向のその発想は、私的には超目ウロコでした。
私の在籍していた当時の吹奏楽部で同じことを言ったら、
提唱者が下級生なら呼び出し、上級生なら顧問から呼び出されるかミーティングになっていたでしょう(笑)。


ニイヤマッスルさんの演奏動画「ルパン三世のテーマ」(約3分)
https://www.youtube.com/watch?v=Igv8xOfCeeQ

私的に心惹かれるトランペットの仕事は、
ホルストの「吹奏楽のための組曲一番」より「一楽章 シャコンヌ」で、
湧き上がるようなクラリネット隊の旋律につづいて「ンタタタ」と出てくるやつとか、
モーツァルトのピアノ協奏曲二十番三楽章の終盤で華を添える的にちょろっと出てくるのとか、
どちらかというと渋い裏仕事系ですが、
なんだこりゃフルートかよ、みたいなハイノートの快感も、なんとなく想像できます。

なお、森井奈緒さん、岩田恵子さん、宇野嘉紘さんほかのレッスン動画もいくつか拝見しています。
諸先生方、ありがとうございます。
つべのアカウントさえつくってない野良視聴者ですが。
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  1. 2021/02/12(金) 19:35:49|
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つまらなさが消える

2020.10.2(金)

つまらないものがなくなっていることに気づく。
つまらないおしゃべり、自己対話、会合、催しもの、景色、文字、音。
かつては、何かそうしたつまらない感覚(波動、周波数)が、
空間と時間を伴いつつ、泡のように生じては消え、また生じ、というようにして、
常にあったような気がする。
高揚する時空間を確保するために、つまらなさを我慢しておくとか、
つまらないことを一気にかたづける、ということもあった。
いつも何かしらつまらない感覚(波動、周波数)があり、つまらなさが絶えなかった、
というのは、自分がつまらなくしていたからだ。

さまざまな感じの原因として物質(客体)を想定していると、
その物質(客体)固有の法則と、それにもとづく一般常識が創造権を握り、
感じ手(私)の感じの有無や感じかたは、
固有の法則にもとづいてふるまう物質への一次反応(物理感覚)、二次反応(思考、感情など)
にすぎなくなり、感じ手(私)は、そうした反応を無自覚に自作自演して一喜一憂することになる。
物質(客体)を想定してできあがる、こういうマインドの様態が3次元世界である。
3次元の感じ手(私)は、身体(物質)+それに由来する心という範囲に限定されており、
物質が主権を握る世界の一片にすぎない。

本来の感じ手(私)は、感じるとともに世界を創りだす統覚視点である。

一喜も一憂も、物質(客体)を想定した3次元世界特有の一次、二次反応なので、
物質(客体)の想定をやめてしまえば、世界は3次元ではなくなり(非3次元になり)、
反応も霧消し、一憂の一種だったつまらなさも消える。
実感的には、アンテナに引っかからなくなる、寄ってこなくなるという感じ。
禍々しい感覚(波動、周波数)も寄ってこなくなるので、厄除け、プロテクトがいらなくなり、
とてもラクチンです。
もし寄ってきても、怪しいとかザワザワする時点でゼロポに還してしてしまえばいいし。
3次元を出ると、もうそれは3次元ではなく非3次元で、
客体‐空間‐時間思考システムにコントロールされていたマインドがカラッと自由になって、
高次の感覚(周波数)とコヒーレントに(整合して)連動するようになるので、
興味や関心ごとの再編成、再生、あるいは新生が起きます。
それが仕事や人間関係などに変化をもたらすこともありますが、
仕事や人間関係、健康状態、家計収支などの変化は、
高次、マインド、五感と感覚(周波数)が具体化していくプロセスの末端で、
しかも「仕事」とか「人間関係」とか、3次元の概念で言い表せる範囲での変化です。
必ずしもそういう形で変化が起きるとは限らないし、
そうした面で変化があっても、感覚宇宙の動き全体に埋め込まれていて、
あまり気に留めないかもしれません。

私の場合は、つまらないと感じるような感覚(周波数)は最初からフルスルーするようになり、
常識的には重要なはずの情報、注意すべき他人の言動であっても、
アンテナにかからないものは、どんなに努力しても読解できなくなってしまいました。
映像、画像、音声や文字が、その意味は理解できても、サーッと拡散してしまうのです。
なので、自分が接している感覚(周波数)は、どれも何らかの関心と符合していて、
わくわくしていたり、
わくわくまで行かなくても、p(ピアノ)とかpp(ピアニッシモ)で響いていたりして、
つまらないとか退屈ということがなくなった。
そのなかには、もし自分が3次元をやっていたらまず出合わないというか、
注目しなかったであろう感覚(周波数)が多々あり、われながら意外で新鮮です。
引き出しが増えるにしても、え、そっち方向に行く!? みたいな驚きがある。

たとえば、ダニエル・バレンボイム(ピアニスト、指揮者)なんですが。
この方は、アルゼンチン生まれのユダヤ系の音楽家で現国籍はイスラエル、
社会的な発言や活動でも注目されています、が、
私が読んで、おもしろいと思ったいくつかの音楽批評では、ピアノについても指揮についても、
軒並み評価が芳しくないのです。
つまらん、凡庸、立派な発言に演奏がついてきてない、興味がもてない嫌いにすらなれない、
などなど、ペッタペタにやられとる。
で、ふとしたきっかけから、この人のピアノ演奏CDを聴いてみたら、あーなるほど、って感じだった。
曲目はベートーヴェンのピアノソナタ8番(悲愴)、14番(月光)、23番(熱情)、
いわゆる三大ソナタといわれてるやつで、どれも起伏があるというか、とくに8と23はドラマチック、
なのに、気をつけてないとBGMみたいに聞き流してしまうんですわ。
なんだこれは!? と思って、ほかのピアニストの演奏もネットで聴いてみました。
濃ゆくてグイグイくるホロヴィッツ、
豪腕でコントロールも超正確なピッチャーみたいなポリーニ、
コントロールはともかく豪速球ビュンビュンのリヒテル、
水のように浸透してくるヴィルヘルム・ケンプ、
モノクロの華やかさがあるクラウディオ・アラウ、
よい子のシェパードだけど随所で野生に戻る、油断のならないツィメルマン、
などを聴いてしまうと、バレンボイムの演奏って、何がやりたいのかわからない、スルーしてよし、
と評されてしまってもしかたないかな、って感じです。
音が軽い。でもファジル・サイのように洒脱というわけでもない。
聴いている私のエモーションを動かさない。
表層だけ。
にもかかわらず、もう10回くらいはバレンボイムのCDをリピートしちゃってるよ。何なんだろう。
私は、もともと善い人ではないので、「よいところを探そう」的な了見はないし、
先に書いたように、もうつまらないものとは周波数が合わなくなっているので、
本当につまんなかったら、最初の数小節で気が遠くなって止めちゃってるはず。
先方から働きかけてこないので、ぼんやり受け身で聴いているとBGMになっちゃうんですが、
少し踏み込んで凝聴していると、
必要最小限の音だけでできた曲の輪郭線のようなものが感じられ、
余計なものは一切込めていない音楽、のように聴こえるのでした。
作為を除こうとする作為すらない、というか。
本当は演奏者自身も消してしまいたいのだけど、そこまでやるとそれはそれであざといので、
ぎりぎり残る個体性は放置しておく、みたいな。
エッヘン、これが虚飾のないドイツ音楽の本流さ、ってことでしょうか。
エッヘンってドイツ語っぽいな。シャウエッセン、なんてな。
また、高名な作曲家の作品でもそうでなくても、
音楽はそう大げさなものじゃない、どの音にも固定した意味なんかない、
というようにも聴こえます。

クラシック音楽は、
音楽室に並んだ肖像画のモデルになった人たちが現役だったころには「古典」じゃなかったし、
これはアレンジというかもはや二次創作なんじゃないかみたいな演奏も許容されてたらしいですが、
トスカニーニが活躍した時代くらいから「譜面どおり」が原則です。
演奏家のインタビューなどを読むと、
譜面どおりに、とか、作曲家の意図を忠実に表す、とか、
似たような発言にしょっちゅう出くわすのですが、
アウトプットされてくる音はことごとくオレ流アタシ流ってとこが爆笑です。
  1. 2020/10/02(金) 19:20:51|
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ピアノ音楽とか

2020.7.14(火)

図書館が閉まっていた間、内田光子さんの弾くモーツァルトのピアノソナタ、ジェフリー・テイト指揮の
イギリス室内管弦楽団との協演によるモーツァルトのピアノ協奏曲20番、27番を何回も聴いた。
ピアノもオーケストラも、なんてチャーミングなんだ、ニクいぜ、って感じで、まったく飽きなかった。
これがきっかけといえばきっかけになって、クラシックのピアノ音楽に、かつてない興味をもった。

ピアノ音楽に対しては醒めていた。
上述のCDだって、十年以上むかしに買って、三、四回くらい聴いて、いいな、とは思ったものの、
それ以上の感興はなく、ずっと寝かせておいたものだ。
ピアノという楽器は、1オクターブの範囲を12等分した平均律で音が鳴るようにできている。
そして、いっぺん調律したら、奏者が演奏中に自由に音程を調整することはできない。
そういう事情により、管弦楽や吹奏楽のような融けたハーモニーをつくることができないのだ。
わざと音程を少し高め、または低めにズラし、浮遊感や異次元感を出すなどのワザも使えない。
弾きかたを工夫して、ある程度はカバーできるのかもしれないが。
私に絶対音感はなく、音楽的な音感もたいしたことはないので、
ピアノの和音が合っていないことは「融けていない」という違和感でしかわからないのだが、
その微細な濁りのために、低音部で濁点がつき、中高音部でkとかtとかの子音が強調されたような
ピアノの打鍵音が変に目立って聴こえてしまう。
管弦の合奏音楽を聴き慣れていると、
ピアノの和音には、緑色に黄緑色が混じっているような混濁感を覚える。

しかし私は、ピアノ音楽に興味をもってから、聴きかたが変わった。
ピアノに管弦楽器のようなハーモニーを求めるのは、
タンバリンに音階をつけろとか、管楽器一本で和音を鳴らせとか言ってるのと同じ。むり。
これは楽器の構造上の特性なのだから、そんなことを期待してはいけないのである。
そうではなく、複数の音が鳴っているこれすなわち和声音楽、という概念をやめて、
左手で伴奏、右手で旋律、あるいは片手で二声部弾いてトータルで四ないし三声部、とか、
それぞれの声部が別々に動いて、寄ったり離れたり重なったりしている多声音楽、
として聴いていると、じつにおもしろいのである。
フェアリー系のentitiesが跳ねたり、図形を描いたり、嬉々として動き回っているみたい。
別々に動いてはいても、まるで無関係ではなく、でも寄り過ぎない、
この距離感に音同士のテレパシー的連帯を感じる。
そういえば西洋の音楽は、楽器が発達して器楽中心の和声音楽ができるまでは、
複数の声部が別々に動く多声音楽(ポリフォニー)だった。
私の聴きかたは音楽学的にはまちがっているかもしれないが、そのへんはどうでもいい。
ともかく私は、ピアノ音楽を、複数の音の流れとして聴いている。

図書館が開いてからは、ピアノ音楽に関する本も何冊か読んだ。
クラシックのピアノ音楽というジャンルは、ヴァイオリニストや指揮者と並んで、
至高の天才伝説が渦巻くジャンルであり、
「(著者推しの)このピアニストがいかに凄いか」「いついつの名演がどれだけ神懸っていたか」
を語る本が多い。あとはコンクールに関するエピソードや、業界事情を綴ったエッセイ、
音大受験生や勉強中の人に向けた「この業界甘く見んな。自分は天才じゃない、という前提で考えろ」
という主旨のアドバイス本とか。
私の宇宙からは、いつしか「才能」という概念がなくなったが、こういうのは、
「自分の宇宙図書館にあるテキストに書かれた人物、名演、業界事情、アドバイス」などとして、
自分ごととして読む、そういう角度を使って読んだら、いずれも興味深かった。

ある大御所ピアニストには、練習サボりの逸話が多い。
ほとんど準備なしにコンクールに臨み、予選を通過してから本選で弾く曲の譜読みをはじめたとか、
本番の日が迫ってくるなかギリギリまで練習しないとか。
こういう話は一般的には天才伝説のひとつとしてかたづけられてしまうが、
これは天才ゆえに云々という話ではない。
天才であってもなくても、そういうタイプの人はいる、という話である。
私の推測だけど、この方はゾーンに入りやすいのだ。
というかピアノを弾くという行為自体が、意識の変性と深く結びついている。
だから、何かの拍子に練習中にゾーンに入ってしまわないように、
潜在意識的に練習量を必要最小限にセーブしているのではないか。
ゾーンは呼ぶことはできないし、
起きたあとで、あの境地をもう一度、などという了見が刻印されてしまうと、
それはどんどん逃げていくからだ。
それに練習によって見取り図ができると、それを超えられなくなってしまうこともある。
練習して仕上がった曲はもうその曲じゃない、譜面で作曲家が伝えてきた音ではなくなる、
そういう感覚は、なんかわかる。
とはいえ技術的な記憶は束ねておかないと五感的な音にならないわけで、
そのへんの加減が「本番ギリギリ」なのかもしれない。
私だって、もし人前で楽器を演奏しなくちゃならん破目になったらしこたま練習すると思うが、
公開チャネリングとかだったら絶対練習なんかしないよ(公開チャネリなんかやらないけどな)。
演奏に限らず何ごとにつけ、準備しすぎてコケる、ということはあるある。

かと思うと、技術的な記憶の離散速度がすごく速くて
二、三か月もブランクが空くと、すっかり指が動かなくなるという奏者もいる。
離散速度が速いのは、記憶の設計がおそろしく緻密だからである。
「ゾーン? へっ、ヌルいこと言ってんじゃねーよ。
うまいく時もあるしいかない時もあるそれはしょうがねえんだ運命を受け入れるしかねえんだ」
という人もいる。

才能は他者に見い出すものであり、他者から見い出されるものである。
「誰にも理解されない才能」だって、理解する他者を前提とした表現である。
したがって、客体化された(物でできた)大勢の他者が、
客体化された(物でできた)自分と同じ仕様で存在する、
という思い込みからなる3次元世界でしか通用しない概念である。
客体軸すなわち他人軸による評価といってもいい。
適性というのもまた、蓄積された経験則という目に見えない統計のようなものを根拠としており、
これも他人軸、客体軸による判定である。
どちらも、非3次元では関係ない。
才能や適性があってもなくてもどっちでもいい、どうでもいい、のではなくて、
辞書を引いたりネットで調べたりしないと書けない漢字のように遠くなってしまうのだ。
3次元では、ひとつの統覚視点(私)がもつさまざまな傾向のうち、
マーケットに乗ったり、特定の分野の活性化に貢献するという形で、
3次元の維持に役立つものだけを才能とか適性とか呼んでいる。それだけのことである。

『ソース』(マイク・マクマナス/ヴォイス刊)という本には、
「適性があると言われたからといって、それをやる必要もなければ、好きになる必要もない。
しかし、適性がなくてもワクワクすることなら、やったほうがよい」(「5章 能力のウソ」より)
と書かれている。どころか、
「ワクワクすることや好きなことに適性がないと思う場合は、なおさらそれをやろう」
とまで。
私が思うに、そのワクワクする感覚(周波数)が3次元の推奨コースに乗らないからこそ、
頭のなか、心のなかにある観念世界である3次元の剥離、そこからの離脱を促すのである。
職業も、プロフェッショナルも、アマチュアも、3次元の概念である。
ワクワクする感覚(周波数)の目的はそれ自体であって、成功や業績ではない。

いや、3次元の世界だって、結果が才能や適性と比例するとは限らない。
『ソース』を最初に読んだとき、目うろこだったのは、
「世間には能力に関する誤った通念があり、成功するには才能が必要だと信じられている。
でもそれはウソ。技術や能力のない人が仕事に就いて成功している。
周りを見渡してみてください、本当に有能な人がいったい何人いますか?」
というくだりであった。
すぐに連想したのは、近所のベーカリー。
豹専務が「不味い」と言っていたそこのパンを食べてみた私は、
未知の不味さに戦慄を覚えて、以後、近づかないようにしていたのだけども、
何年かたって、まだ営業しているということは味が変わったのかもしれないとほのかに期待し、
ふたたびその店のパンを試しに買ってみた。
何ひとつ変わっていなかった。
妙にねっちゃりした食感で、口のなかにイヤな油分のような後味が残る、この味・・・。
しかし、その後も店は営業しているし、わざわざクルマで買い求めにくる人もいる。
創業以来、店は頑なにこの不味さを守りつづけているようだ(もう二十年くらいにはなると思う)。
さらに、私はある日、店の近くの道路上で、
女子高生とおぼしきヤング女子が、連れの男子に、
「ここのパン、めっちゃうまいよ」と本気で推薦していたのを聞いてしまった。
素人の失敗作でも、ここまで不味くするには何か工夫がいる、と思えるようなその味の虜に
なっている人が、この地域には一定数いるらしい。宇宙人だろうか。
店で製造販売されているのが、
お好み焼きやたこ焼きの食感をそのまま残して味だけパン方向にスライドさせたような、
パンという食品の概念を壊しかねないものであることを考えると、
この現象は、立地がいいとか固定客を育てるのに成功したとか運がいいとかでは説明できない。
謎。

<ピアノ音楽関連でとくにおもしろかった本>

書名/ピアニストが見たピアニスト
副題/名演奏家の秘密とは
著者/青柳(あおやぎ) いづみこ
発行所/株式会社 白水社
発行年月日/2005年6月20日
価格/2,000円+税
*著者がピアニストなので、椅子の高さとか、身体動作の細部、演奏前後の心理状態など、
当事者寄りの描写が秀逸。読んでいるうちにピアノが弾けるような気分に(笑)。
取り上げているアーティストは、リヒテル、ミケランジェリ、アルゲリッチ、サンソン・フランソワ、
ピエール・バルビゼ、ハイドシェック。

書名/世界最高のピアニスト
著者/許 光俊(きょ みつとし)
発行所/光文社(光文社新書536)
発行年月日/2011年8月20日
価格/760円+税
*個人的に、いちばんたまげたのはあとがき。自分にはない発想だった。そんな人もいるんだ。
  1. 2020/07/14(火) 18:55:38|
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ある日の吹奏楽コンサートから(追記あり)

2018.9.25(火)

先日、地元の市民吹奏楽団の定期演奏会を聴きに行きました。
定演は毎年開催されているのですが、それまでそんな情報はとんと引っかかってこず、
市民吹奏楽団の存在も、うっすら知っている程度でスルーされていたのですが、
今回、ふとデムパが走り、そういうタイミングだったので出かけてみたのだ。

なんとか交響楽団とかの管弦楽の生演奏は何度か聴いたことがある。
でも今回は管弦楽じゃない。管楽器と打楽器が主体で、コントラバスが1~数本、
編成によってはピアノやハープが入ることもある、吹奏楽ですよ。
ウインド(息)オーケストラです。
私にはリニア時間感覚がなくなってますが、生吹奏楽は暦年的には何十年ぶり?って感じ。
なので忘れてました。ナマ吹奏楽の音のデカさ、振動の凄まじさを。
管弦楽では副菜的な位置づけの管楽器がメインディッシュでどーんと出てきますからな。
それに管弦楽にはないサックス隊、ユーフォニアム、バスクラリネットやEs管クラリネットとかも
入ってるし。フォルティッシモのトゥッティ(総奏)なんかで来られたひにゃ、
ドーン、ズズン、ビリビリビリ・・・てなもん。落雷ですよ。

そんな巨人族のダンスみたいなボリュームのなかで、
たった1本のコントラバスの音が聴きとれたことに、ワシは喫驚した。
この楽団の場合、チューバは4本、それに対して弦バスは1本きりです。
こういうことは、ホールの設計とか座席の位置とかの環境にも左右されるけど、
ただ1本の弦パートの音がちゃんと聴こえてくるとは衝撃でした。
管打楽器メインの吹奏楽に、管打に比べて音量の小さいコントラバスがあるのはなぜなのか、
と、ワシはむかしから思っておって、
ヒドイ言いかたですが、あってもなくてもいいじゃん、くらいな位置づけだったのですが、
コントラバスが鳴っていると、低音部に輪郭ができるというか、ラインが見えるのです。
彼女or彼には、しっかり存在意義があったのだ。
足りないパート(予算の都合や人材不足でファゴットやオーボエがない、など)はあっても、
いらないパートなどひとつもない、ということを再認識したわ。
たたけば音が出る、ために誰でもできそうなトライアングルやシンバルなど、
ただ一発で曲全体を台無しにできる(笑)という怖ろしい楽器である。

私には、絶対音感とか、音楽の才能に通じるような感受性はないんだけど、
2012年くらいから、音楽も含め音一般の聴こえかたが変わったようで、
ここ半年くらいでまた変化しているように感じる。
主旋律の流れや、主旋律と対旋律のからみの流れがメインではなくなって、
さまざまな音程、音色の音、無音が重なったサウンドが鳴っているだけって感じ。
感覚が主旋律などに絞り込まれず、フォーカスが開放されていて、鳥瞰的になっている。
と、とくに聴きとろうとかまえてなくても、1本のコントラバスの音のような、
細かい情報が入ってくる。
音のない環境でも、無音が鳴っている。その無音にも、さまざまな響きがある。

思いもよらない音の動き、無音の表情、協和している不協和音、
というような細かい情報は、
耳を澄まそうとすると、かえって遮断されてしまう。
というか、自発的に耳を澄まそうとしているモードだと、そんなこと気にならないわけ。
気にならないことは発見されないわけ。
「コンバス? 聴こえないよ、なくてもいいじゃん」となってしまう。

そんなこんなで、私は、コンサートや演劇などの公演でアンケートとか書かないのですが、
今回はウザいくらいびっしり書いて回収箱に投函してしまいました。

もうひとつ、この吹奏楽団でほほぅと思ったのは、
フルートパートに2名も男性奏者がいらしたことです。
近年、女性の金管奏者はバクハツ的に増えました。
トランペット、ホルン、トロンボーン、ユーフォニアム、チューバ、
プロアマ問わず、いずれのパートにも女性奏者がいることは珍しくありません。
とくに中学高校の吹奏楽部なんかだと、共学でも総数で女子部員が多いため、
金管パートが女子ばっかりということもある。
一方、クラリネットやサックス、ファゴット、オーボエなんかの木管パートには、
むかしから男性奏者がいました。
しかしフルートについては、私の知る限りですが、
プロの楽団、男子校を除いて、男性奏者をあまり見かけないのです。
フルート、私は試し吹きしたことがありますが、すごく息力がいる楽器ですよ。
オーボエやホルンは管が細いので息がタマってしまってそこがキツいのですが、
フルートは逆に息が足りなくなってハァハァしてしまう。
にもかかわらず、一般的には女性より体力があるとされている男性の奏者が少ない。
なんでやねん、と思っていたら。

これは、40代だか50代だかでフルートを習いはじめたという男性のブログで知った
情報ですが、昭和のむかしのさらにむかし(戦後くらい?)、
フルートは一般的に木製だったんだそうです。
そのころはフルート教室の受講者は男性が多かったらしい。
しかし、金属製のフルートができて、メタリックなデザインで定着してから、
女性の受講者が激増したと。
結論として、「どうも女の人はキラキラしたヒカリモノに惹かれるらしい」的な。
ソンナ理由カイ!?(@_@)!?

そういえば、もう退会したSNSで、MtFトランスジェンダー(物理体は男性仕様で、
エーテル‐アストラル体が女性ジェンダー優勢の人)の方が、
「中学高校の吹奏楽部ではトランペットだったけど、これからフルートはじめようと思う」
という記事を投稿してらしたことがあって、「えっ、なんで? ペットじゃだめなの?」と、
マインド帯域に「?」が飛び散ったこともあったな。
単に好みの問題かもしれず、ジェンダーのイメージは関係ないかもしれませんが。

そういえば、『響け! ユーフォニアム』(原作:武田 綾乃/宝島社文庫)でも、
金管女子は多いけど、フルート男子は出てこんなぁ。
ちなみに『ユーフォ』では、オーボエの鎧塚みぞれ推しです。
イタイタしくて可愛いとか可憐とかの方向からではなく、
先輩がいなくても、部内が人間関係で荒れてても割れてても、
ときに自分が嵐の中心wとなっていようとも、
独り廊下でもくもくとロングトーン、ロングトーン、ロングトーン、スケール、スケール、スケール・・・という姿勢を
リスペクトする。
小説の続編『響け! ユーフォニアム 第2楽章』ではTpの吉川優子もいいすね。
後輩(高坂麗奈)が自分よりうまくてクソ生意気でもリーダーシップがブレなくて偉大です。

この記事についてはコメント欄を開けておきますので、
何かコメントしたいことがありましたらどうぞ。
ただし掲載は管理人が承認したもののみとさせていただきます。
また返信コメント等(質問への回答も含む)は書きません。

9月26日(水)

ご参考までに(何の参考?)。
私のかつての担当パートは中高一貫ホルンでした。
ただいまは密かにべつの楽器を闇練中。あ、フルートじゃないよ。
好きな作曲家はホルストとアルフレッド・リードです。

コメントあざっす☆
レスしないけど、ちゃんと拝読してまっすm(__)m
  1. 2018/09/25(火) 17:34:40|
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  4. | コメント:1

『響け! ユーフォニアム』を読んで

2018.4.4(水)

図書館がリニューアルオープンしたので久々に出かけてみた。
棚の位置が前と変わっていて、ライトノベルコーナーにあった『響け! ユーフォニアム』
(武田 綾乃/宝島社文庫)という本が目に留まったので、借りて読んでみた。
これは、かつては全国大会金賞レベルだったが、県大会サイテーレベルにまで落魄してしまった
高校の吹部(吹奏学部の略称)が、顧問の先生に優秀な指導者が就いて、
ふたたび全国大会をめざすようになるというお話である。
最初のほうでは、レベルが落ちた部内には投げやりな空気が蔓延しているのだが、
1~3年生あわせて81名(!)と、部員数は多い。すげえな。少子化なのにな。
それと、先輩後輩の関係がユルいな。これが21世紀というものか。
ワシがおった部はもっと露骨にブラックだったわ。
でも部活というのはきほんどこもブラックだったんで、ブラックさに気がつかんのよ。
いまの世では、パワハラセクハラ、モラハラにアルハラ、種々のハラスメントが取り沙汰されるが、
それらが問題視されるようになったのは集合マインドが向上した証だと思う。

この吹部では、コンクールに出場するメンバーとともに、楽曲にソロがあるパートでは、
誰がソロを演奏するかがオーディションで決められることになった。
で、トランペットパートでは、3年生の香織先輩ではなく、1年生だけど圧倒的に巧い高坂麗奈が
ソロを受けもつことになる。この結果に不服な2年生の優子先輩が、麗奈に「おめーが譲れよ」
と迫るも、麗奈は引かない。このときの麗奈の言い分が、
「香織先輩よりアタシのほうが上手いから、だからアタシがソロなんですよ」
そこからもうひと悶着あって、
「ケチつけるなら、アタシより上手くなってからにしてください」
である。
よし、よく言った! と、オレは喝采したぞ。
トランペットパートというのは、音が大きくキラキラしく、主旋律とかハデなパッセージが多く、
ちょっとでもしくじると素人耳にもわかってしまう。
しかもソロがあるということは、たぶん麗奈の担当は1st奏者(1st~3rdに分かれている)であり、
ハンパない激烈なプレッシャーがかかるのだ。
このくらいのことを言えるようなタマでないと、トランペットのソロなぞできゃせん。

この騒動は練習中も尾を引き、コンクール直前にちょっとした出来事があって丸く収まるのだが、
実際にはそんなに引きずらないだろうな。
当の優子先輩や香織先輩をはじめ、みんな自分のことに一杯一杯になって、
引きずってる余裕がないからよ。
そしてコンクールが終われば(上の大会に進めばさらに燃え尽き度は上がる)まっ白な灰になり、
「そんなこともあったかな・・・なんだったんだろうね」的な空気に融解してしまう。

上記のような状況が他のパートで起きたら、きっとこんな感じじゃなかろうか。

<ホルン、オーボエ>
1st奏者になった麗奈が、
「ソロがないパートはどうでもいいんでしょうか? 2ndや3rdはヘタでもいいんでしょうか?
じゃないですよね? この2ndの譜面見てくださいよ、ここ、目立つし、難所です。
私的には審査の重要ポイントだと思います」
などと音楽論のほうへもっていき、楽曲について滔々と長広舌をふるってケムに巻く。で、
ケチをつけた優子先輩がまっ先に「だね。どのパートが大事とか、ないね」と説得されてしまう。
ちなみにホルンは4thまであり、オーボエは2ndまでしかない。

<フルート、クラリネット>
香織先輩が怒るか泣くかして音楽室を飛び出し、麗奈があとを追う。
「すみません、こんなことになるなんて・・・」
「いいの、高坂さんのほうが上手いんだから。それはわかってるんだ」
てな辛気くさい会話が廊下などで展開し、
周りを香織先輩の友人、1人パートのピッコロやバスクラリネットやファゴットの人などが囲み、
「それぞれ自分のパートがんばろう」的な文句で手打ちになる。
クラやフルートは16分音符、32分音符の細かい旋律、パッセージが多く、
運指やブレスのことで必死になるので、たぶん翌日にはうやむやになる。

<サックス>
麗奈が2、3年生から「降りろ」と迫られることはない。
ただ香織先輩のモチベーションがダダ下がりして3~4日、部活を休む。授業がすんでもすぐには
帰宅せず、部活が終わる時間までゲーセンやファミレスなどにいる。電話には出ない。
翌週の月曜日あたりに何ごともなかったかのように復帰し、練習を再開。

<トロンボーン>
香織先輩は「はぁ?」とふてくされた表情を隠さず、優子先輩は机やイスなどを蹴って八つ当たり
するが、揉めるのはめんどうくさいので、それ以上のことは起きない。
ほとぼりが冷めても、優子先輩はときどき「ミスんなよ。許さんど」と軽く麗奈を脅す。

<パーカッション>
誰もぐずぐず言わず、顧問の指示に従う。

<チューバ、ユーフォニアム、コントラバス>
香織先輩「がんばれ」、麗奈「はい」、といった言葉数の少ない淡々としたやりとりがあるのみ。
ソロ奏者発表時、優子先輩は、一瞬「ええっ、こんな下克上ありか!?」とは思うものの、
「今日は○△屋の惣菜が特売だから、夕飯はメンチカツじゃないかな、それともカツ丼」
といった類の思考がクレッシェンドしていって、音楽室から麗奈が出ていっても気がつかない。

<本のデータ>
書名/響け! ユーフォニアム ~北宇治高校吹奏楽部へようこそ
著者/武田 綾乃(たけだ あやの)
発行所/株式会社 宝島社(宝島社文庫)
発行年月日/2013年12月19日
価格/657円+税
  1. 2018/04/04(水) 18:20:50|
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みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、
イタリアの美少年のような豹専務(♀)が同居人。
リンクはご随意に。連絡も不要です。
いただいたコメントはすべて拝読しておりますが、
原則としてレスはつけません。
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