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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

2020年夏至の出来事

2020.6.28(日)

2020年6月21日(日)の「波動と感覚」は、個人的にかなり奇妙な作文感を感じながら
書いた記事です。
アップロードするはずだったのは別の記事で、3分の2くらい書けていたんだけど、
急に「これじゃない」感じがしてボツにし、
何も考えずにキーボードを操作していったら書けていた、というような。
これはジャズのアドリブみたいなものだと思うので、オカルト現象ではありません。
ただ、演奏する直前までまったく別のフレーズが頭のなかにあったのに、
実際音を出したらそれとは全然ちがうフレーズだった、そういう奇妙さです。

21日までの数日間、自分のマインドでいろいろと色彩の異なる摩擦が起きていて、
摩擦というのは葛藤や確執までには至らない表面的なやつなんですが、
それを観察していました。
そのときは言語化されず「感じ(周波数)」だけだったのが、終わってみると、
摩擦の内容は、次のような諸説のバトルロイヤルwwwとして要約できました。

①素朴な二元論
世界は物質と、物質の一部である身体の諸反応を言語やイメージなどで象徴化した主観で
できている。究極の現実は物質だが、人が単なる物質の塊と堕さないために、主観の涵養は大切。

②形式的一元論(唯物論)
世界は物質でできており、物質固有の原理、法則(自然科学)がすべてを決定する(※)。
※唯物論が「形式的」な一元論なのは次のような理由による。
(1)物質に属する身体から主観がつくられ、物質と主観との間でしばしば葛藤、確執が生じることは否定できない。
つまりトータルの現実世界が究極の現実(物質)だけで動いているわけではないという現状は変わらない。
(2)唯物論者自身が主観世界を持ち、何らかの主観的判断にもとづいて唯物論を展開しているという矛盾は解決できない。


③スピリチュアルな情報、知識(引き寄せの法則、潜在意識の書き換えなど)を日常生活に活かすことで、
個々人が願うことは実現できるし、より充実した人生を送れる。

④③のようなことはエゴ(自我)の肥大化を助長するので、しないほうがよい。
個々人は全体(過去や未来への歴史観念を含む地球や人類など)への貢献、他者への貢献を意図する
ことで、宇宙と重なる自己を認識し、宇宙としてふるまえるようになる。

⑤その他~場外乱闘
輪廻転生説vs.死んだらおしまい説のバトル。でも両者とも連続的な時間展開に拠るという点では同じ。

私自身は、主に①を、社会生活上の方便として、暗黙の基本コンセプトとして使ってきましたが、
いずれも百%支持したことはありません。
いずれも、言ってることはわかるんだけど、おもしろくなく、わくわくしなかったので。
今から思うと、それは、これらのいずれにも「客体(物)」が設定されていて、
客体が設定されると、それは私の認識の有無、私の感じかたとは関係なく、
自律的な客体固有の法則(客体が物であれば自然科学)で動くことになり、
自分にはどうにもできないことがあることになります。
これが、頭のなかや心のなか、つまりマインドで組み立てられる3次元に特有の制限です。
「どうにもできないことがある」という方程式ができて、
xやyのところに「身体」とか「資源」とか「他人」などが入り、
健康、経済、人間関係の問題などとして表現される
わけです。
これは立ち入り禁止区域とか変えられない台本があるようなもので、私にはつまらない。
「客体がうんたらかんたら」というふうに言語化されていなくても、
なんか刺さんないなぁ、響かないなぁ、ピンとこないなぁ、という違和感として、
それはわかります。

ちょっとわかりにくいかもしれませんが、
③は「日常生活」が、
④はそれを延長拡大した「(過去や未来を含む)地球、人類」というのが客体で、
「日常生活」も「地球あるいは人類」も、物質の組み合わせが連続的に広がり(空間)、
変化していく(時間)という観念です。
③も④もスピリチュアルな方法を導入する、
つまり、ときどき変性意識に入って高次の感覚(周波数)を感知し、情報収集するので、
変性意識に入っているときは客体(物)という設定がなく、波動(感覚)だけの一元世界ですが、
3次元に着地すると、再び客体(物)設定が復活します。
と、「どうにもできないことがある」という制限方程式も復活します。
なので、あるテーマ、ある問題について高次の情報を活かしてクリアできても、
必ず別の問題をつくりだします。
それでも、作問と解決を延々繰り返していても、最後には、
「“客体(物)がある”というこれ、この壁をどうにかできないか」というところにたどり着くので、
そこで3次元ゲームは終わりです。
③と④のちがいは、情報の活用先が「個人」か「全体」かというところですが、
「人類」でも「地球」でも「宇宙」でも特定の統覚視点(私)の感じかたですから、
じつはどちらも個人です。

おもしろいことに、バトルロイヤルといっても、
炎上しているのは①vs.②、③vs.④であって、
①②は③④を、③④は①②を相手にしていません。異星人だから関係ないって感じ。
プロレスは勝者も敗者もなく、6月21日、朝、目覚めたときには、消えるように終わっていました。

私は①~④のいずれの流派でもなく、①~④に共通する、
頭や心のなかでつくられる「感じ手」と「客体(物)」に二元化された3次元から離脱する、
というアプローチを採用していますが、
これが唯一の正解だとか、高度だとかいうふうには思っていません。
脱3次元という視点から見ると、①~④のいずれも、
『聖☆おにいさん』(中村光/講談社モーニングKC)に出てくる「選べる苦行カタログ」みたいに
見えてしまわなくもないですが、
それは自分はどれでもないという圏外視点から見ているからです。
宇宙の創造はサイエンスじゃなくアートなので、どんなやりかたをしてもいいし、ペースも自由です。
サイエンスも、自分で合意規定を設けたアートです(合意規定とは、「みんなが守っている」のを
自作自演した決まりのこと)。

それに、③④の方法では、
私が「アンドロメダ周波数」と呼んでいる、
「客体(物)」を設定しても、客体(物)固有の原理や法則を無視するという視角がとれるのであれば、
3次元の像である事物をいろいろと改変しながら、本来の自分、本来の宇宙に戻ることが、
原理的には可能です。
3次元から出ず、「感じ手」と「客体(物)」との分離、二元化を保持したまま、
「客体(物)」側を(サイキックな方法を使って)自在に変えることによって、
「どうにもできないこと(制限)」をつくりだすという二元化の目的を無意味にしてしまう、
哲学用語を使うと、3次元の「脱構築」をねらうやりかたです。
引き寄せとか物質の変性とかが得意で、むしろできないのが不思議、みたいな人は、
もしかするとアンドロメダ方式のほうが向いているかもしれません。

原理的には、と留保をつけたのは、
3次元をつくっている客体‐空間‐時間思考システムは同時に仮想集合システムでもあって、
頭や心のなかでこのシステムを設定すると、大勢の他者がいるという観念も出現するからです。
ひとりひとりは、自分と同じく、固有の身体や心(空間)、未来につづく歴史(時間)をもっています。
それも「物」と同じく観念であり、
合意観念あるいは合意現実の「合意」も自作自演なのですが、
大勢の他者がひとりひとり分離した塊として存在する、という感覚はとてもリアルです。
アンドロメダ方式では、3次元がマインドの観念だと気づくことは不可欠ではなく、
一般常識をとりあえず受け入れたままアセンションをスタートさせるケースが多いので、
3次元の改変に他者を巻き込むとなると、強い倫理障壁が生じたり、
倫理障壁が外側に投影されて、ストップをかけてくる人物や状況をつくりだしたりします(※1)。
なので、あたしだけがしあわせになっていいのかしら的な妙な罪悪感に囚われたり、
それが裏返って妙な使命感になったり、
大勢の他者前提の社会通念と折衷させた妙な未来像を描いたり(※2)、などなど、
他者問題への躓きから失速するということが生じがちです。
と、ここでソフィア@シリウスつながりのアンドロメダ系entity氏から、
アンドロメダ周波数を使う方への助言が。
自分の志向が他者を巻き込むとわかってそこでとまどいが生じたら、
「誰にも干渉することなくこれこれのことが実現します」式のオーダーをするといいそうです。
※1
「他者を巻き込むのはよくない」と考えても、「他者の意など介さない」としても、
どちらも客体化した他者(自分と同じく身体と心をもつ他人)の実在を前提とするので、
倫理障壁があることには変わりない。後者は禁を認めたうえで禁を破るのである。
脱3次元する天の川アプローチでは、「自分の周波数(感覚)を本来のものに戻す」ことによって
宇宙ごと場面転換させてしまうので、他者との衝突は問題化しない。
たとえば、仕事の納期が短すぎてムリ、というような場合に喩えると、
自分の設定した納期に変えるか、超速で仕事がかたづいてしまうという方向をねらうのがアンドロメダ方式、
仕事そのものの自然キャンセル、担当者の変更などを含めた、あらゆる可能性に結果を開いておいて、
最適の結果に決着させるのが天の川方式。
具体的には、「この納期ではムリ」と感じた時点で、
そこで生じている「本来の周波数(感覚)とズレた感じ」をゼロポイントフィールドに還すと、最適の決着場面に飛ぶ。
これができるには、ムリな状況がピンチではなく「周波数(感覚)の異常」ととらえられる必要があるので、
「私」が3次元という観念でできた身体や心に閉じ込められておらず、
「本来の周波数(感覚)」や「ズレ」がわかる位置(統覚視点)まで後退していなければならない。
※2
伝統的な役割分担、序列、道徳観などを固守したまま、個々人が充分な自己実現をはかれる、というような、
どこか擬似アリ社会めいたシュールな未来像のこと。
もちろん、このような未来像に惹かれる人たちだけでそうした未来をめざすのは自由である。


ともかく、わくわくするかしないか、響くか響かないか、という、
自分の周波数(感覚)をごまかさないことが大事。
何度も書いていることですが、このブログも、つまんないとか残念とかけしからんと感じたら、
クリックするなりタップするなりして、早々に他のページに飛ぶなり閉じるなりしてね。
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  1. 2020/06/28(日) 18:16:33|
  2. 仮想集合システム
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仮想集合システムとしてのマインドシステム

2020.3.7(土)

ソファイア@シリウスとのチャネリ記録のつづきです。

1.合意現実ができるしくみ

みけ 認識していようといまいと、とにかくまず客体がある、それが連続的に広がり、変化する、
というのが客体‐空間‐時間思考システムです。
長いし、ハイフンを打つのがめんどうで最近はマインドシステムと表記してますが。
客体Xは一般的には物、物質ですが、X=エネルギーでも霊でも神でもなんでもいい、
認識(感じること)と存在を別枠(二元)にして、
客体として存在するXは認識にとって最終的に不可知とする考えかたです。
なぜ不可知かというと、認識の視点(私)が身体や魂などとしてXに繰り込まれているので、
認識自体が客体Xの原理や法則に限界づけられるからです(※)。
マインドがこの考えかたの管理下にあると、
どんな体験をし、何を感じるにしても、無自覚に客体‐空間‐時間が常識以前の常識になり、
この考えかたに沿った世界が出力されます。それが3次元世界です。
なので、3次元世界というのは、全部マインドで体験されていることです。
※たとえば人間は人体の器質や機能に制約されるので、他人や他の生物のことは直接には知りえないし、
感覚器官の能力を超えるミクロ、マクロの世界は直接にはわからない。
機能停止したあと(死後)の世界がどうなるかも知りえない。

ソファイア 実際に体験している本人は、これはマインドの世界じゃなく物理的現実だと実感して
いるわけだけど、その「物理的現実」がマインドの産物なんだよね。
客体(物)でできた自分、誰か、家具、雲、それらの広がり、内部、変化、といった概念を
与えられるのはマインドであって、五感的な感覚は概念をつくらない。
みけ マインドシステムを適用すると、統覚視点(私)は身体とそこから派生する心に閉じ込められ、
身体と心(という概念)をドメイン(生存領域)とする自意識になります。
ただの視点、視角が、身体のような体積、心のような擬似体積をもった領土みたいなイメージに
変わるわけです。
いったん自意識が立ち上がると、自意識に属さない外側は、自意識と相互作用する環境になります。
自意識にとってドメインの核である身体は、客体(物)であることによって外環境にも属しています。
身体の客体性、外部性は、健康なときはあまり意識に上ってきませんが。
ソファイア 統覚視点(私)が身体という概念にいわば憑依する、もしくは憑依されて、
身体という概念の客体性、外部性によって「思いどおりになるとは限らない」という制限をつくる。
みけ ええ。そうして、マインドシステムによって「自意識vs.環境(身体という概念も含む)」
という構図からなる3次元世界ができあがる。
ただ、自意識はひとりで環境と対峙しているわけではありません。
客体化された(身体という物でできていると考える)他者のうち、家族とか、同じ境遇にある人とか、
特定の誰彼を運命共同体的な仲間と見なして、自分をその一員と位置づける。
一方、この運命共同体的な仲間は、自分を評価評定する「世間」でもあります。
同じチーム、同じ部族、同じ民族、等々といった、この集団意識は何なんでしょう?
ソファイア それはマインドシステムに付随する相互参照機能です。
「相互」といったって、じつは自分の頭のなか、心のなかでひとりでやっていることだけど、
ひとり相撲だということは、マインドシステムをはずさないと見えてきません。
みけ 相互参照?
ソファイア 固いとか柔らかいとかの感覚は物(客体)に由来する、それは連続的に広がっていたり、
奥行きや内部をつくったりしていて、連続的に変化する、
という観念にもとづいて出力されてくる3次元世界を、確認し合って定着させていくしくみ。
マインドシステムって、マインドをセルフコントロールしている観念システムだけど、
要は思い込みなんだから、それだけだと、さほど強力には作用しないんだわ。
だから、自分が立ち上げた3次元世界のなかで、
自意識と客体化した他者との間で、物(客体)とその連続的な広がりや変化を確認し合って、
合意現実にしていくわけです。
みけ 自分ひとりにUFOが見えているんだったら気のせいかもしれないけど、
周りに大勢の人がいて、その人たちにも見えるんだったらホンモノだろう、というような。
ソファイア そう。相互参照機能によって、物理的な感覚をともなわなくても、
他人の話を聞くことで、その話の内容が物理的に起こりうることだと考えられるようになる。
特定の状況で喜んだり、悲しんだり、怒りを感じたり、行動に出たり、
相互参照機能が働く範囲内の集団の反応パタンというのができあがる。
みけ そういうのは「自然な感情」とか「自然な共感」作用と説明されることが多いけど、
私にとってはちっとも自然じゃありませんでした。
ソファイア 実態は「自然な」じゃなく「自動的な感情」であり「自動的な共感」だね。
みけ ああ、マインドシステムの付随機能に操られてるわけだから。
ソファイア 3次元世界に浸りきってて、マインドシステムに気づいていなければ、
自動的な反応が自然な発露と思えるだろうけど、
その自意識(本人)は無自覚に、何度も、数えきれないほど相互参照機能を使って、
自動的な反応を、常識的な思考とか自然な感情に育ててきてるわけ。
みけ 3次元世界には仲間集団をまとめる上位概念として「社会」という概念があって、
人との絆とか支え合いとか思いやりとか、ひとりは淋しいとか孤独死やばいとか、
客体化された他人と関係をもつことにすごいキャンペーンを張ってくるんだけど、
それが相互参照機能からくるんだったら、
マインドシステムは最初から社会化されてるんですね。
ソファイア だからマインドシステムは「仮想集合システム」でもあるわけ。
客体‐空間‐時間思考の開始とともに、自意識の外部にある客体化された他者と
相互参照をはじめるから。
みけ その相互参照機能が働く範囲って、「人類」には及んでいませんよね。
ソファイア ていうか相互参照機能が働く範囲イコール「人類」です。
みけ 相互参照できるメンバーだけが「人類」で、圏外は野蛮人、宇宙人、
とにかく姿形は霊長類だけど、得体のしれない連中だと。
ソファイア そういうこと。「どんな災いをもたらすかわからない」という形で客体性、外部性を
突きつけてくるから、生存圏が接していれば征服、戦争、教化の対象になります。
ある程度、生存圏が離れていれば、神話や伝説のなかで相手の生存圏を不可侵としたり、
場所や時期を限定した「交易」を行って、互いの文化に相互不干渉とすることもある。

2.覚醒すると3次元情報に違和感を覚えるようになる

みけ 人の意見や行動、メディアのニュースなどが気になるというのは、
相互参照機能が働いているとみていいんでしょうか?
ソファイア うん。相互参照機能が作動するときは、ベースのマインドシステムが起動し、
誰それとか特定の媒体とかいう形で、「この視聴覚の向こうに実体がある、事件がある、
これが現実だ」という客体化が起きている。
ということは、客体‐空間‐時間思考がはじまり、3次元世界が立ち上がり、
その強化定着作用までもが起きている、ということです。
レファレンス(参照)の結果、もたらされた反応が賛同であれ、反発であれ、
安堵であれ、不安であれ、いろいろ複合したモヤモヤであれ。
いったんマインドシステムをはずしても、
「(3次元の)現実」を把握しようと企てたとたん、
マインドシステムの再起動から強化安定まで、あっという間に進行して、
人の意見やニュースを気にかけているときには、もう3次元世界に着地しています。
みけ じゃ、「3次元ふたたび」の赤信号といっていい?
ソファイア だから、覚醒プロセスに入った統覚視点(覚醒プロセスに入った各人)には、
高次の感覚から、マインドを通して、
「他人に働きかけるな」「外に原因を求めるな」といったメッセージが入るわけ。
どちらも感じた感覚(周波数)を実体化、客体化するってことだから。
不快感、危機感、あるいは義務感、罪悪感のような形で不整合な感覚(自分の宇宙と
合わない感覚)を感じたら、実体化、客体化の方向に走らず、
その重たさとか摩擦熱とか被操作圧といった不整合感全体をゼロポに還すとかして手放し、
もとの感覚(周波数)一元宇宙に戻って、あとは感覚が起きるにまかせろってこと。
みけ 私は、人の意見を傾聴したり、ニュースを見たり読んだりってことはできるんだけど、
それを理解しようとか、理解してリアクションしようとすると、えらい努力が必要なの。
坂道を上っているみたいな。
むかしからそうだったんだけど、近ごろますます、その坂の角度が急になってきたっぽく。
興味も湧かないし、事件のあらましや固有名詞とかが憶えられないんです。
高次の感覚が人やメディアからの情報という形で具体化することもあるけど、
それって被操作圧とかがないし、レファレンスとかサーチしてる感もないし、
「ベストの入射角で射し込んできた」とか「パズルがはまった」みたいな感じで、
とまどう余地があったり、ノイズも多い3次元舞台の情報収集とは全然ちがいます。
ソファイア マインドシステムの相互参照機能は、マインドシステムを強化安定させて、
3次元世界のリアリティを濃くしていくためのツール、
つまり客体‐空間‐時間思考という観念の増幅装置なのね。
だから、身体と心という概念に閉じ込められて自意識化した統覚視点が目覚めはじめて、
身体と心という概念との同一化が解けだしてくると、
まっ先に相互参照機能がイカレてくる。
自意識が半覚醒して統覚視点になりかかってくると、レファレンスした情報の意味がぼやけて
わからなくなってくる。なので増幅が利かなくなってくる。
みけ 集団になじめないとか、アイデンティファイできないとか。
ソファイア そう、集団のしくみ、メカニズム、ルールが読めないから染まれない。
反発しているんじゃなくて、わからないんです。
ナチュラルトランスといって、覚醒以前から半覚醒していると、
マインドシステムを一時的にオフにすること(変性意識に入ること)は苦手でも、
最初から一元状態を引きずってて3次元に入りきれてないから、覚醒は早い。
あなたに起きていたのはそういうことです。
ナチュラルトランスの場合は、相互参照機能がはじめからポンコツなんだから、
しっかり3次元をやろうとすると非常にくたびれるよ。
早々に覚醒するとコミットメントして、覚醒にシフトされることを推奨します。
みけ ナチュラルトランスという言葉を久しぶりに聞きました。
ソファイア ナチュラルトランスじゃなくて、しっかり3次元世界をやってた場合でも、
一元状態が戻ってくると、群れ志向がなくなるというか、ひとりでいて不安じゃなくなる。
みけ ひとりでいても、ひとりっていうことを意識しなくなるんですよ。
四方八方に感覚を感じ、創りだしてるから、統覚視点ってけっこう忙しいの。
あ、でも、私、スピリチュアル系の集まりに出てハブられたり、いじわるされたことってあるよ。
あれって何? 瞑想とか断食とかしている人たち同士で思いっ切り徒党を組んでて、
「きみ、場ちがいだよ」みたいなさ。
(たぶん)私のせいでパソコンとかプロジェクターとか壊れたし。
ソファイア 気の毒に。
みけ ね、ひどいよね。視線をそらしたり、話しかけてもフルシカトとかさ。  
ソファイア いや、相手の方たちが。
みけ なに、そっち!?
ソファイア そうだよ。まさかのアルクトゥルスの波動襲来で、
相互参照の輪はめちゃめちゃ、磁場は攪乱、電気系統はダウン。
あんたみたいなのは居るだけで3次元のお作法が軒並み崩れるんだから、
準備のできていない人たちのところへノコノコ出ていっちゃだめ。
スピリチュアルとかサイキックとか、マインドシステムの離脱と重なる場合もあるけど、
基本的には別のことだし、
オーソドックスなメソッドに沿って段階的に詰めていって、最後の最後にひっくり返す、
と決めてる人もいるんだから、ネタバレみたいなことしちゃだめ。
それはさておき、非3次元が常態化して、感覚(周波数)一元状態に慣れると、
客体‐空間‐時間思考前提の3次元的情報には強烈な違和感を感じると思う。
言い換えると、相互参照機能の作動から3次元世界に舞い戻るってことがなくなります。
すぐ気がつくから。
  1. 2020/03/07(土) 18:00:40|
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夢見手と夢、像と「私」

2019.6.15(土)

まずソフィア@シリウスからのメッセージ。
「すべての情報は、既知となって現れる」
閃き、一瞬垣間見られる伝言、イメージ、音声、文字、映像、など、
濃淡や質感のちがいを問わず文字どおり全部の情報が。

既知と「なって」現れる、ということは、
既知と未知の中間がある、ということだ。
この中間は時間の経過を示すのではない。
ある感覚世界から別の感覚世界に飛ぶということは、
「私」の感じかた、と、「私」の感じる対象が、ともに変わるということだから、
潜在既知から顕在既知へと、伏せてあるカードが表向きになるように一気にひっくり返る、
0が1に、1が2になるようにデジタルに変わるということである。

中間とは、わくわく、ぞくぞく、欠乏ではなく充溢からくるダンサブルな欲望、
「私」を量子跳躍へと誘う波動である。
私の知るシリウスentitiesはこの風を予感と呼ぶ。
そして既知とは、「これだ!」というあの感じ(周波数)、
一分の隙もなく、これしかないというようにピントが、音程が合った状態である。
それは熱感のないエクスタシー、重さのない歓びとして広がり、
そこからまた風が生まれる。

統覚視点「私」は、身体、心、魂といった体積のある何かではなく、固定点ですらない。
何かが認識され、同時に創造されるとき、
その何かを対象として認識し創造している側のことを統覚視点「私」という。
だから「私」は対象とともに現れ、対象とともに在るのであり、
対象がなければ「私」もない。
「私」がなければ対象もない。
対象即自分。
このような認識と創造の形式は、個別化以前の0/1帯域で生じた。
0/1はゼロポイントフィールドを対象化して「私」を立ち上げ、
ゼロポイントフィールドを認識かつ創造した。
この事件以前に、認識即創造はなかった。

「あり、かつ、ない」ゼロポイントフィールドに「否」という違和感が亀裂として走ることによって、
「あり、かつ、ない」は対象化され(認識即創造され)、
「あり、かつ、ない」ものではない側(私)は「ある、もしくは、ない」となる。
しかし、違和感は自身にも違和感を覚え、
「否」はそれ自身も「否」と否定することで、
「“あり、かつ、ない、ではない”ではない」
(=“私、0/1はゼロポイントフィールドではない”ではない→ゼロポイントフィールドである)
となって、「あり、かつ、ない」に還る。
否定は外側をつくり対象化し、外側でない側を内側(私)とするが、
まったく同時に、対象化の働き自体も否定されることによって、
認識即創造された対象も、認識即創造した「私」も、ゼロポの藻屑と消えているのである。

「私」によって認識され創造された対象も、対象を認識し創造した「私」も、
即時にゼロポに還り、即時に藻屑である。
「~ではない」と同時に「“~ではない”ではない」ということは、
結局、あり、かつ、ない。
だから、認識され創造された対象は「像」であり「夢」であり、
認識し創造する「私」は夢見手なのである。
像あるいは夢に奥行きはないし、
「私」に体積はない。
夢と夢見手の裏側は「中身」ではなくて無である。
夢見手によって見られた夢、夢を見た夢見手は、メビウスの輪のように無と並行しており、
全体として「あり、かつ、ない」である。
夢と夢見手があり、夢も夢見手もおらず、全体としてゼロポである、というこれは、
0/1のふるまいが具象化に向かう個別宇宙でも繰り返されている、
コヒーレントである(一貫している)とみることができる。

「私」が何ごとかを認識し創造し、対象として夢見るとき、
認識即創造あるいは夢見を可能にするのは、
ゼロポに亀裂を走らせて、
「“あり、かつ、ない”を認識し創造した私は“ある、もしくは、ない”である」
という0/1を目覚めさせた違和感である。
しかし、0/1は同時に、
「私は“ある、もしくは、ない”ではない(=“あり、かつ、ない”である)」
としてゼロポに回帰しているので、
この違和感は、異物感的なミスマッチ感ではなく、
「これだ!」というフィット感として感じられる。

感覚的にいえば、この違和感というのは、
均一に広がる感じ(周波数)のなかに、濃度や質感の異なる感じ(周波数)があって、
その段差をとらえたときの感触といっていいと思う。
全体と調和していればそれはフィット感になるだろうし、
調和していなければミスマッチ感になるだろう。

しかし、認識と存在の間に、
「先ず何かが存在するから、存在の一部である“私”は、それを対象として認識できる」
として、存在優位の序列をつけることにはじまる客体‐空間‐時間思考を使うと、
この思考によってできた客体‐空間‐時間世界は、
客体固有の法則(一般的には自然科学の法則)によって変化することはあっても、
ゼロポに還ることはない(そもそもゼロポイントフィールドなどというものはないことになっている)。
したがって、身体として客体に繰り入れられている「私」も、ゼロポに還ることはない。
と、「私」は、何ごとかを「これではない」と外側に対象化して認識し(※)、
外側ではない側(内側)を「私」の体積や中身として建設したり維持メンテしたりする運動を、
客体‐空間‐時間世界のなかで「私」が終わるまで(死ぬまで)止められない。
五感的な濃い感覚を感じなくなっても(死んでも)なお客体‐空間‐時間思考を使っていれば、
そのあともつづくかもしれない。
「これではない」という否定によって否定したものを対象化し、他から自分を区別することは、
0/1に由来する統覚視点「私」の本性で、
その否定自体を否定してゼロポに還るのでない限り、どこまでもつづいていく。
これは、環境とそこに含まれる他者を延々と否定し排除することを意味する。
そこで、他者もまた身体や心、魂などの体積をもつ「私」としてそれぞれ存在し、
それぞれの立場から外側を認識し、外側ではない側(内側)の私を建設メンテする、
という見かた(思考)が、倫理として要請されるのである。
他者を像としてとらえることが反人道的であるかのような抵抗感、
「私(エゴ)」を手放すことで平安で高い境地に至れると思えてしまう錯覚、
その起原は客体‐空間‐時間思考である。
だが、客体‐空間‐時間思考を使いながら他者を像としてとらえることなどできないし、
「私(エゴ)」は身体でも心でも魂でもなく、唯の統覚視点であると気づくことはできても、
なくすことはできない。
それに、「私」と他者の双方に体積をもたせることによってもたらされる状況は調和ではなく、
体積同士の多様な確執である。
※客体‐空間‐時間思考を使っていると、「先ず何かが存在するから、存在の一部である“私”は、
それを対象として認識できる」ことになるので、「私」はあらかじめ存在しているものを認識したり、
発見することはできるが、認識によって存在するものを創りだすこと(創造)はできない。

有り体にいって、宇宙の認識と創造のはじまりはNO(否定)である。
そのNOをNOと否定することで厚みのない夢として完了し、
否定した対象とも即時に和解している。

なぜYESでないかというと、YESだったらゼロポのままで何の展開もないからだ。
この好奇心と冒険心に溢れた瑞々しいNOが、
客体‐空間‐時間思考を使った客体‐空間‐時間世界から眺めると
他者を侵略し「私」を肥大させる禍々しいコードに見えてしまう。

・・・以上は、前回の記事で私が引っかかっていた、
「他者を像としてとらえるのは、なんか利己的で反人道的な気がする。
なぜこのような倫理シバリがあるのか?
他者に身体や心という体積をもたせたとき、自分にも同様の体積ができ、
操作‐被操作の関係に入ってしまうことは明白、なのに、
そうしないといけない気がしてそうなってしまうのはなぜか?」
という、自分的に腑に落ちない点について、
ソフィア@シリウスの誘導という形で起きた自問自答を文字化したものです。
自問自答はセルフアセンションの要です。
遠回りしても、横道に逸れても、それも含めて、
自問自答が結局は最短距離。
周波数の上昇は、自分の波動が上がると隣の人の波動も上がり、その隣の人の波動も・・・
というように水平波及で起きることではないからです。
隣の人に、
「“私”というのは夢見手で、見えてることも見えてないことも全部“像”で、夢なんだよ」
といった講釈をすることも、隣の人に身体や心などの体積をもたせることで、
講釈をはじめたとたん、自分にも体積ができています。
「この人は、自覚なしに客体‐空間‐時間思考を使った客体‐空間‐時間世界にいて、
健康だのお金だの家族だの、いっぱい問題を作成して満喫しているな。
でも止めたければ止められるのに」
という判断も、自分が客体‐空間‐時間思考を使って行っています。
↑こういうときには、相手をめぐっての思慮をゼロポに還すことです。
自分自身が夢見手に戻り、自分の夢を見ること、
それに徹することで、あらゆる問題が問題でなくなるという形で自然解消します。

お金の心配とか、健康状態の心配をはじめると、
瞬時に、客体‐空間‐時間思考を使った客体‐空間‐時間世界の住人と化して、
転がり落ちるように急速に周波数を落とすことができます。
でも、いつのまにか客体‐空間‐時間思考を使っているという無自覚さ加減においては、
お金より健康より、一対一にしても一対多にしても多対多にしても、対人関係問題がダントツです。
客体‐空間‐時間世界で「発達」とか「成長」とか呼ばれる時空間展開の過程で、
客体‐空間‐時間思考の運用に習熟していくとき、
まず身体や心といった厚みをもった他者とのやりとりを通して学習されるからです。
(ちなみに「発達」や「成長」は、すでに一定のルートでの発達や成長を終えた人の立場から
こしらえられた、客体‐空間‐時間思考の浸透した概念です。)
身体や心である自分を守るために、身体や心である他者を拒否したり攻撃したりする場合でも、
身体や心である他者を助けようとして、身体や心である自分が動く場合でも、
どちらも体積をもつ自分による体積をもつ他者の操作であり、
どちらもコヒーレントな夢の一環として起きる回避や接近とはほど遠く、
波動をサゲます。
もしかすると、他者というテーマはセルフアセンションのヤマ場かも。
  1. 2019/06/15(土) 15:54:16|
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現実を変えようとすると、現実は変わらなくなる

2019.5.21(火)

スピリチュアルという言葉に、ざっくりとして大味な印象があり、自分の関心ごとを示す語として
いまいちフィットしないなぁ、と思ってきたのだけども、近ごろはすっかりめんどうくさくなり、
はいはい、もうこれでいいです、とばかりに、この単語を入力するようになった。
そこは、オカルト、人文サイエンスとしての哲学や心理学などから追放されそうなギリギリ領域、
宗教の秘教的な部分、19世紀米国のニューソートの流れを汲むニューエイジ、占い、
ヨガや瞑想や気功などの心身修練法、現代医学に拠らない医学・医術、などなど、
さまざまな出自をもち、それぞれの出どころでの正統、異端の別に関係なく、
サイエンスからはずれた、
サイエンス側から俯瞰するとイカレたいかがわしげな「思想」の坩堝になっている観がある。
またそこは、サイエンスからハブられているのをいいことに、
私も含め、各人が勝手に(entitiesとかの)お墨付をでっち上げて言いたい放題に
自説を開陳している無法地帯でもある。
  ↑
高次像の下方、微妙な感覚のうちでも比較的具体的なアストラルスペースの鏡さながらに。
他人のアストラル話は他人の夢の話といっしょ。
響かない話というか音は、聴く必要がない。
響く音は解釈せずとも勝手に置換されて、自分の宇宙に適合していく。


以下は、私の「私」が感じて出現させている宇宙での話。
上述のような状況から産出される情報、メソッド、ヒーリング等の技法などは、
3次元とか現実とか呼ばれる世界に対して、おおむね次のようなアプローチをとってきた。
①保守~3次元世界の受容、あるいは諦観
3次元世界は波動が低いので、高い波動で存在するには、ここを卒業するしかない。
なので、3次元の波動レベルで最善を尽くして、3次元から出る(死ぬ)。
②中道~自分と身の回りの世界の改善と向上をめざす
スピリチュアルな方法を活用して、3次元世界を自分にとってより過ごしやすい、
調和のとれた世界にする。
③革新~社会、人類の変革をめざす
スピリチュアルな方法を活用して、3次元世界の制度やしくみを変えていく。

三者に共通するのは、3次元とか現実と呼ばれる世界に、バシバシにフォーカスしていることだ。
これは3次元、現実を、そこに働きかけ、手入れをしなければならない、という角度から見ることで、
統覚視点「私」の向こう側に「私」を取り巻く環境世界として現実がある、という立ち位置をとること、
つまり客体思考である。
すると、「国内外のどこかの状況や誰かの状況」を射程に入れる空間思考、
「自分や誰かや社会の(過去から延長された)未来」を射程に入れる時間思考も稼動し、
その人のマインドは即座に客体‐空間‐時間思考に囚われ、
その人の統覚視点「私」は身体や心といった暈(かさ)のある制限つきの「私」に縮む。
と、客体‐空間‐時間思考システムによるセルフマインドコントロールと、
そのシステム下で動くゲーム場面のなかで暈つきの「私」が右往左往するというゲームは、
このシステムの時間思考にしたがって「ずっとつづいていく」のである。
また、暈つきの「私」と、唯(ただ)の統覚視点である「私」は折衷できない。
一方で身体や心である「私」をやりながら、もう一方では唯の統覚視点であるというのは、
客体‐空間‐時間思考による一般的状況に喩えると、
室内に居ながら外に出るようなもので、そんなことはできない。
①②③はどれも、「私」のありかたをダブルスタンダードにしていて、結局、
フォーカスしているほうの3次元の「私」=客体‐空間‐時間思考で制限された「私」に一本化する。
要するに、スピ歴の長短、サイ能の有無、知識の多少などに関係なく、
「現実に対処しなくては」
「現実に活かさなくては」
「現実を変えなくては」
というような発想をしたとたん、「私」はスルッと客体側に丸め込まれ、
客体‐空間‐時間思考という制限装置をカチカチカチッ、と装着してしまうのです。

一瞬で「私があって世界がある」から「世界があって私がある」への逆ポールシフトが起きる。
現実を、暈つきの「私」を取り巻く環境世界として設定することが、この逆ポールシフトです。

ところで、①②③はいずれも、
客体‐空間‐時間思考を適用して逆ポールシフトしたと同時に起きる発想、
言い換えると客体‐空間‐時間思考なしには出てこない発想なので、
①②③で言われる現実とか3次元世界というのは、
五感的な濃い感覚そのものではない。
この五感的な濃い感覚は、マインドで総合されて、
マインド帯域(中程度の感覚)で物理像として認識される。
しかし、マインドに仕掛けられた客体‐空間‐時間思考システムに気づかないでいると、
客体‐空間‐時間思考で読まれて、客体として実在し、客体固有の法則によって、
一律な広がりや変化の方向をもつ、
客体‐空間‐時間思考システムによって変調された物理像として認識される。
どこが変調なのかというと、
客体‐空間‐時間思考をしていると、高次(微妙な感覚)と連動しないからである。
客体‐空間‐時間思考は「私」の認識能力を濃い感覚と中程度の感覚までに制限し、
認識が創造であることにまったく気づかせないことによって創造能力のほうは全面封印する。
この変調状態を復調して、
高次-マインドの連動関係を回復させるには、
マインドで中程度の感覚として起きる思考、感情、気分が、
客体‐空間‐時間思考にコントロールされていることに気づかなければならない。
客体‐空間‐時間思考の懸かった思考や感情や気分が起きたとき、
「しんどい・・・あれ、なんかヘン。この重量感、傾きは何? あれ?」
というように、被操作感、違和感を感じることができるようになると、
この変調した物理像はゼロポイントフィールドに還る。あるいは手動で還すことができる。
そして復調したマインドと連動する、本来の濃い感覚帯域に跳び、
本来の物理像が感じられ創られる。
困っている人に接したり、人から相談されたりした場合も、反射的に対処態勢をとるのではなく、
自身のマインドに心配や責任感を生じさせている「感じ(周波数)」に気づき、
ゼロポに還す。
何か手助けするという形でかかわることが最適なら、自動的な感覚で行為や助言が出てくる。
リアクションしないですむことも多い。
実感的にいうと、違和感に気づいてゼロポに還したら、あとは「連れて行かれる」感じ。

とはいえ、全感覚帯(全周波数帯)が連動し、ゼロポからゼロポに循環する、
コヒーレントな(一貫し整った)宇宙がどんなものかを体験していないと、
なかなかマインドの変調に気づくことができない。
マインドにヘンな動きがあっても、
「ふつうに考えたらそうだ」とか「自然な(!)気持ち」とかって思えてしまう。
どころか中程度の「感覚」であるという自覚すらもたれず、
とことん味わい尽くしたり、それにもとづいて行動するというところまで行きかねない。
チューニングするには、音程の合っている音が感覚としてわからなければならない。
そのむかし、私は吹奏楽部にいたのですが、
最初のうちは、「音程が合ってない!」と言われても、ズレてることがわかんないわけです。
自分が演奏しているフレーズの相対的な音程しかわからない。
音程を合わせられるようになるには、音程が合っている演奏をたくさん聴き、
全体のなかで音程が合っている状態の響きを音のブレンド感や振動感として知るしかない。
スピリチュアルな知識、情報、技法などが活きるのはその部分で、
その人の「私」の宇宙がどういうものであるか、感覚でわかるためのものではないだろうか。
だから、言葉とか図とか行為とかの形になればなったでいいし、
形にならなくても、波動感覚でわかっていればいい。
  1. 2019/05/21(火) 19:37:30|
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違和感と不快感のちがい

2019.5.13(月)

マインドで生じる違和感をゼロポイントフィールドへ還そう、
それが制限のない宇宙に戻るコツだよ、ということを、何度か書いてきました。
高次像-マインド像-物理像、この連動する具体化の流れが途切れるのは、
中間のマインドに仕掛けられた客体‐空間‐時間思考システムによって、
微妙な感覚で現れる高次の信号が伝言ゲームのように変形してしまうからです。
すると、客体‐空間‐時間思考というシステムに沿って組まれた一般常識ソフトウェアが動き、
物理像の周波数帯は、一般常識思考と相似形の場面に飛びます(量子跳躍する)。
一般常識思考と連動する物理像が現れるわけです。
このとき、もし一般常識思考に「クルマ」という言葉が含まれているとすると、
言葉どおりクルマが現れるのではなく、
「クルマ」という言葉やイメージを含むこのときの思考の「感じ(周波数)」に合う物理像に飛びます。
その結果、一般常識思考の妥当性が証明されたかのように見えるので、
一般常識思考は経験則として強化されます。
経験則化した一般常識思考は、常識だとか思考だとか、自覚されることすらなく、
習慣的に、反射反応的に繰り出されています。その多くは言語化されていません。

原初の宇宙の自在な創造力をとり戻すには、
マインドでブロックを構築している一般常識思考<客体‐空間‐時間思考から出る必要がある。
マインドにあるヘンな工作物を解体すれば、高次-マインド-物理像の流れはスムーズになります。
それには、一般常識思考<客体‐空間‐時間思考がアウトプットしてくるさまざまなお題に対し、
おかしいという違和感が出てこなければなりません。
最近、私が体験した例を挙げます。

お題:プリンタを使おうとしたら、作動はしているけれども、印刷されず、白紙しか出てこない。
サポートデスクに電話して、ノズルチェックやクリーニング等をしてみたが直らない。

こういうとき、違和感として感じられるはずの感覚とは、
白紙しか出てこないという物理像状況への焦りや苛立ち、ではありません。
「修理に出すより新しいプリンタを買ったほうが安い、でも、もしインクに問題があるだけだったら、
インクだけ買えば純正品でも数千円の出費ですむ、けど、インク買ったあげく直らなかったら
ヤだなー。あるいはとりあえず印刷だけ外注するか。さてどうしよう」といった迷いでもない。
この状況を「解決を必要とする問題」に仕立てている思考です。
ある状況を問題視している思考に「あれ、おかしいぞ?」と引っかからないと、
焦りや苛立ちや迷いをゼロポに還したところで、冷静に対処できるようになるだけです。
「プリンタを買う」「インクを買う」「外注する」という選択カードも変わりません。

このあとどうなったかというと、
これが問題だという見かた自体に違和感を覚えたとたん、この「感じ(周波数)」はゼロポに還り、
ガイドスピリッツのひとりから「夜になるまで待て」という謎の指示があった。
で、夜21時すぎごろ、歯を磨いていたときに、
フタの開いたプリンタのイメージが出てきて、
そういえば押入れの奥にダンボールに入れて置いてある古いプリンタにまだインクがあるかも
しれないと思いつき、調べてみたら、ちょうど必要なカートリッジだけが残っていた。
このカートリッジと取り替えてみたら、プリンタは正常に印刷されました。
なおゼロポイントフィールドに還す方法は
19.1.13「問題を解決したければ、問題がないことに気づくのが最善最速」カテゴリ:仮想集合システム
の最後の付録部分に書いていますが(http://solopub.blog103.fc2.com/blog-entry-830.html
慣れてくると、違和感に気づいただけで、その波動がゼロポに還るようになります。

問題視への違和感をゼロポに還した結果、物理像状況がどう変化するかはケースにより、
上述のような出来事でも、
場合によってはもっと高性能で高価なプリンタを買うことで決着するかもしれないし、
印刷という作業をしなくてよくなるかもしれない。
どうなるにせよ物理像状況は最適の場面に飛躍します。
トラブル、問題という、どちらかというとネガティブな型だけでなく、
好機が到来したけどすぐに動けないというような場合には、
「好機」というとらえかたに違和感を覚えるかもしれません。

こうした違和感に気づくということが、
宇宙のコヒーレンス(一貫性、整序)とスムーズな循環を回復させるうえでのヤマ場です。
でも一般常識思考<客体‐空間‐時間思考に制御されていると、
「これはまずい」とか「これは好機」といった見立てをまったく疑わないので、
ピンチとかチャンスといった視角が、なんかズレてる、ミスマッチだという違和感にならない。

不快な場面というものは存在しません。
①まず不快感を感じさせるしくみ(思考)があって、
②このしくみが、ある場面をきっかけに望ましくない展開をつくり(これも思考)、
③不快感という「感覚(周波数)」を感じさせて(周波数を合わせるようにさせる)、
「対処せよ」「備えよ」という警告を発する。
ある場面というのは物理像からなる状況で、これは五感的な濃い感覚の集まりにすぎず、
よくもわるくもありません。中立です。
したがって、①②③は、「ある場面が出現している」こと以外は、全部マインドで起きています。
なので、①の「しくみ」に気づいてはじめて、全体の流れが変わります。


このとき、「しくみ」を「こういう損得計算をしている」とか「十年前の経験記憶にもとづいている」
といったように、言葉や情景イメージまで落とし込む必要はありません。
「おかしい」「引っかかる」という違和感、異物感があれば、それが気づきです。
「やばい!って、あれ? なんでやばいの?」
と、不快感の背後に何か(思考による)操作感を感じるということ。

ゼロポに還すべきは①の「しくみ」であって、③の不快感ではありません。
「しくみ」に気づくには、①②③の全体が見える統覚視点の「私」まで後退している必要があります。
私が上述の過去記事で紹介している方法や、何らかのほかのやりかた、
あるいはRTLFのようなグッズを使ったりして(カテゴリ:RTLF参照)、
年がら年じゅう統覚視点「私」に後退しまくり、
「私」が感じて創っているコヒーレントな宇宙を体験、体感して知っていると、
非コヒーレントな「しくみ」に気づくのが早くなります。

特定の場面(物理像状況)に「しくみ」が反応しやすいのは、以下のような理由によります。
客体‐空間‐時間思考システムにもとづく一般常識思考にもとづいている「しくみ」は、
マインド帯域のデータ(中程度の感覚でできた情景イメージなど。記憶)を使って、
「しくみ」に沿った標準処理モデル(という思考)をつくっていて、
この標準処理モデルにしたがえばこのような五感的感覚(物理像)が現れるはずだと予測し、
待ち構えています。
なので、予期していない場面(五感的感覚からなる物理像)が現れるとイレギュラーと判断し、
不快感という中程度の感覚(感情、気分)を動員したり、
「しくみ」の範囲内で提供できる選択肢を想起させたりして(奇蹟や偶然に頼るのはだめ)、
「いろいろあったけど無事でした」というストーリーに差し替えて、
標準処理モデルの流れを維持しようとします。
ところが、「しくみ」は根本的には客体‐空間‐時間思考にもとづいていますから、
「“私”の感覚の向こう側に客体(物体)が実在する」
「客体(物体)は“私”の感覚とは関係なく、客体固有の法則で動く」
という客体思考を前提にしている以上、
客体側が標準処理モデルを裏切る可能性はいつでもあるわけで、
イレギュラーな場面の発生を抑えることはできません。
しかし、そもそもレギュラーもイレギュラーも「しくみ」という思考から生じている思考です。

逆に、ある場面から愉快な感情、気分が起きるとすれば、
標準処理モデルを「やや」上回る結果が出たというポジティブなイレギュラーである、と、
「しくみ」<一般常識思考<客体‐空間‐時間思考に牛耳られたマインドが判断しています。
でも不快感が起きる場合とちがって、処理の流れを止めたり変えたりはしないので、
ああしろこうしろという対処方法は提示しません。
ただ、標準処理を大きく上回る結果はネガ転して、不安や恐怖といった不快感を呼び起こします。

もし「しくみ」に違和感を覚えて、「しくみ」がゼロポへ還る、あるいは手動で還したとすると、
標準処理モデルもチャラになるので、
特定の場面(物理像状況)はレギュラーでもイレギュラーでもなくなり、
これで完了です。
物理像は「私」による認識と創造の最終局面で、
濃厚な五感的感覚で感じられ切り、現れ切っていますから、
これ以上操作したり変えたりすることはできません。あとはゼロポに還るだけです。
次に現れる場面は、「しくみ」がなくなったマインドと連動する、最適の物理像になるでしょう。
  1. 2019/05/13(月) 19:59:33|
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みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
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