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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

「行動」という思考について(追記あり)

2021.4.19(月)

オカルト界が「スピリチュアル」ではなく「ニューエイジ」とか「精神世界」と呼ばれていたころには、
現状よりポジティブな状況への変化を呼び込む決め手は「行動」だとされていたように思う。
前世紀のニューエイジ、精神世界ブームは、一瞬マスメディアに注目されたけれども、
ネットが普及し、生活全般に浸透していくという目に見える変化の波に押されて、
社会現象にならずに萎み、もとのオタクなジャンルに返った。
バシャールの訪日にゾクゾクしていた自分も、使っていたワープロ専用機をパソコンに切り換えたあたりから
関心を失っていった。
ネットにはそんなにときめいてはいなかったし、ネットを介して世界中とつながっているという実感はなかったが、
とにかく使えるようにしないと仕事ができないという実用的事情があり、そっちに目が向いていた。
これは個人的な印象だけれども、当時のニューエイジや精神世界は「行動」を超えられなかったと思う。
つまり「最終的な決め手は行動である」という点では、世の常識と何ら変わらないのである。
どちらも、五感的な感覚の向こうに物質(客体X)がある、と想定していて、これが究極の現実、
だから物質に働きかけないと(行動しないと)いけないという見解をとっている。
自分の感覚(認識)以外の、それ固有の法則(客体Xが物質なら物理法則)で動く客体Xが現実を決定すると
みなされる想定世界を私は3次元と呼んでいるのだけれども、この3次元の枠組内にとどまるとしても、
ニューエイジ思想には、高次からのサジェスチョンによって、
・行動の選択肢が絞られる。理想的には1つに絞られる。
・モチベーションが上がる。
というメリットがあった。
でも、行動を思いついたときに、これは本当に高次からのサジェスチョンなのか、そうではないのか、
ということは、自分で判断しなければならない。
その判断能力を上げるために修練したり情報収集したり、その道の先生からアドバイスしてもらったり、
したとしても、当たるも八卦的な、確率のぼやけた部分は残る。
それでも行動しないと何も変わらないのである。
そこで一般常識とクロスするので、私的には醒めるというかテンションが落ちるわけ。
ロングトーンなしで上達できるという触込みの管楽器教室に行って、
「音を伸ばしてみようか。ちょっとだけ、2拍、ただ伸ばすだけだよ。ハイ、さん、しっ!」と言われ、
2拍伸ばす。と、それが次回に4拍になり、その次には8拍になり・・・みたいな。ロングトーンじゃんそれ、みたいな。

今年の3月くらいだったか、「行動」はマインドで起きる思考、
それも外部(物質世界)に働きかけることを前提とした3次元の思考であって、
五感的な感覚像としての行為でないということに気づいた。
つまり「~しよう」「~しなくちゃ」と考えているそれが「行動」であって、
実際にやっていることではない。
実際にやっているときには、もう行動のイメージ図はないし、行動について考えてもいない。
「あー排水溝の掃除。いやだいやだめんどくさい」と考えているうちは大儀だが、
とりかかってしまえばとくにどうということなく終わる。
この前半の思考が「行動」なのである。
自分の感覚(認識)とは関係ない、それ自身の法則をもつ世界(物質世界)、
すなわち他人軸世界に働きかけてそれを操作することを前提とした思考だから、
それはかなり重い。パフォーマンスが大きくて、決意もいる。「せーの!」みたいなタメがある。
というわけで私は、頭のなかで「行動」をやっていたら、これをゼロポに還して手放すことにしました。
ただ作文の都合上、何らかの行為を表すのに「行動」という言葉を使うことはあると思います。
3次元的ではない手順のフローチャートが浮かぶこともあるけど、
こっちは目の前の空中に「かんたん操作ガイド」が広がっている感じで、全然軽い。
両者のちがいは重量感の有無。
ストレスのあるなしといってもいい。
私のガイドentitiesのひとり、モナ@アルクトゥルスは、もっと簡潔で露骨な言いかたをしていて、
「外出する前にトイレに行っとかなくちゃ、ってのが行動、尿意を覚えてトイレに行ったらそれは行為」だと。

高次、マインド、五感がコヒーレントになって(一貫、整合して)、
高次がマインドを喚起し、マインドが五感を喚起し、と、磁力(引き寄せ力)が働くとき、
五感的な感覚の統覚像としての行為は、
高次、マインド、五感からなる宇宙全体の構図の一部として、全体の構図にかなうように隆起してくる。
「行動」思考する余地なく、歩いているそこが道になる。
高次、マインド、五感、いずれの現実でも、何かを実現させるコツがあるとすれば、
あるタイミングで起きてくることに逆らわない、尿意を我慢しない、ということだけなのでした。


時代は変わったのじゃ。すごいぞ。
私は、こないだまで、図書館で借りた『「感謝」で思考は現実になる』(パム・グラウト・著/桜田直美・訳/
サンマーク出版/2017年3月刊行)という本を読んでいたのですが、
この本、感謝がどうとかよりイカレた事例が多くておもろかった。
著者はもとからオカルト畑の人ではなく、旅行作家なので、文章にも「引き」がある。
とくに出色なのは100ページ目に出てくるキャサリン・ビーハンという女性の例。
この方は恋愛系アプリとか相談とかを仕事にしていて、お兄さんから、
「いつまでそんなチャラいことやっとんねん! まともな仕事せい!」と言われどおしだったらしい。
が、「宇宙がわしを好いとって、幸せになってほしいと願っとるゆうんがもし本当やったら、
わしはただ幸せでおればよく、細かいことは全部宇宙に丸投げでだいじょうぶなはずや」
という仮説を立てて、犬といっしょにビーチに行ったり、海を眺めたり、
そういう好きなことしかしない生活をやってみたという。
「こうなったら素敵」的なことを書いた日記もつけていた。
最初のうちは、「破産するで」とか「働くのは大人の義務やで」といった3次元マインドのツッコミが
うるさかったが、「美しいものだけに集中し、やりたいことしかやらないようにした」結果、
頭のなかの声が止んだ。
すると、気球に乗るイベントや無料クルーズに招待されるとか、遺産でまとまったお金が入るとか、
ワークショップに参加するためのメキシコ行きとか、チャンスが向こうから来るようになった。
日記に書いていたことが、薄気味わるいくらいそのとおりに実現していったそうな。

これ、海なし県に住んでいても、インドア大好き引きこもり派でもできると思う。
ただ、頭のなかの「行動」思考に針(ラジオや計器の針のイメージ)を合わせていたら、
こうはならないだろうな。
むかし、似たようなことをやってスッテンテンになってしまった人の話を本で読んだことがあるし、
オカルトセミナーに何百万円もつぎ込んで得るところなく貧乏になった人の実話も知っている。
この人たちの場合、頭のなかが幸せではなかった。
幸せというのはマインドの状態であり、五感的な感覚ではない。
環境を変えたらとか仕事を辞めたらとか、関係ないのだ。

同日の追記

セミナーに何百万もつぎ込んだ人の件は、
ご本人的に武勇伝になってる観ありで、深刻なエピソードではない。
最短ルートをエクスプレスで行ってもいいし、寄り道も乙。
自分で決めればよろし。
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引き寄せや波動アゲのテクニックとしての感謝について

2021.4.13(火)

いわゆる引き寄せの法則というのは、
高次の世界→マインドの世界→五感の世界と、感覚の質と濃さが異なる世界を貫いて、
垂直に磁力(引き寄せ力)が利くということです。
たとえば、高次の「涼感」がマインドで「アイスクリームのイメージ」として具体化し、
さらにそれが「ハーゲンダッツ」とか「爽」とかの五感像として具体化する、など、
非五感的な認識(感覚)が、それに似た、より具体的な認識(感覚)を喚起すること。
この似た感覚を喚起する力が磁力、引き寄せ力です。
実現の場が「マインドの現実」であれ「五感的な現実」であれ、
喚起することは、実現している場に飛ぶことでもあります。
無数のパラレルワールドのなかを、場から場へ、磁力にしたがって移っていっているといってもいいでしょう。

最も具体的ではっきりしている「五感的な現実」は、
自分を感じ手(認識者であり同時に創造者である統覚視点、宇宙の軸としての自分)とする創造が完結する
最終局面です。
これが、色とか触感とか、自分の感じているいろんな感覚をまとめた統覚“像”であれば、
磁力が作用しますが、
感覚の向こうに、感覚の対象として「物質」があると考えていると、磁力は利きません。
磁力は感覚(認識)が帯びている喚起力、波及力ですが、
物質はエネルギー保存の法則とかアボガドロの法則とか、それ自身の法則で動いていて、
自分の感じかたによって物質のふるまいを左右することはできないからです。
自分の認識(感じかた)とは関係なく物質が存在する(認識≠存在)と考えると、
想定したとおりに自分の感じかたと物質は別々に切り離され、磁力の利かない世界になります。
なので、「物質は物理法則で動くから“引き寄せ”などない」と想定することによって、
そのとおりに引き寄せのない世界が出力されているわけですが、
ともかく、物質が究極の現実で、考えも感情も物質(身体)に帰着させられると想定していると、
磁力は停止し、引き寄せは起きません。

そんな想定をした覚えがなくても、
外側に物でできた世界が広がっている、これが本当の現実だ、という感じがリアルであれば、
習慣的に「感覚の向こうに物質がある」という想定が刷り込まれているということです。
「外側」というのは、自分の感覚(認識)と感覚の対象(存在)が分断されているときの感じかたで、
自分の感じかたとは別の規準(物理法則)をもつ何かがそこにあるということ。
習慣になっているとは、「(想定である)物の世界からの刺激に反応して物の世界に対処する」
行動パタンを幾度も反復して、
理屈ではなくオンザジョブトレーニング的に、考えなくても反射的に動けるくらいに、
「物がある」想定世界でのふるまいかたを習得しているということ。
意識しなくても物イコール現実として考え、動ける状態が、筆者のいう3次元です。
「感覚の向こうに物質がある」という想定がはずれて、
自分の感じかたをそのまま高次やマインドや五感の現実としてとらえるようになる、
そっちが習慣になると、3次元ではなくなる、つまり非3次元です。

物イコール現実という感覚が生々しい3次元意識だと、
自分の認識とは関係なく、物はそれ固有の法則で動いているので、
物の法則に合わせていかない限り現実は変えられず、思考や感情が帯びている磁力は利きません。
しかし、認識とその対象(存在)の関係など考えてみたこともなく、習慣的に3次元意識のままでも、
何かかなえたいお願いごとがあったりする場合、
磁力をアクティベートする裏技はあります。
それは、磁力が利かない世界(3次元)を実行中にもかかわらず、
目の前に広がるものごと、起こっている出来事を、物の法則ではなく磁力の結果だと認めてしまうこと。
物の法則をベースとする過去の経緯とか世の中の情勢とかではなく、
自分の考えや感情(マインド)が引き寄せ力(磁力)を発揮したからこうなった、と認めてしまうこと。
つまり、磁力はある、引き寄せは起きている、と、いきなり肯定してしまう。
これから起きること(願いをかなえる)によって証明し納得するのじゃなく、
すでに起きたこと(そのとき体験していること)をその証拠だとしてしまう。
なら証拠はすでに挙がっているのだから、これから起きることにだって磁力は作用する、
引き寄せは起きる、当然、願いもかなう。
そうやって、何度も何度も磁力を確認していると、もう物の法則とか過去とか世の中とかは意識しなくなり、
逆オンザジョブトレーニングによって非3次元に移行してしまいます。

まず現状を磁力のせいだと決めつける、このやりかたは、
引き寄せ本などでは、「すでに得ているものに感謝する」として紹介されています。
住んでいる家、飲食物、衣服、家具、家電、財布とそこに入っているお金、
身近にいる人、職場の人、宅配の人、コンビニやスーパーのレジの人、ペット、植物、などなどに、
「ありがとう」と言ったり、感謝の念を送る、飛ばす。
その程度ではありません。
朝、起きて目に入る天井、目覚まし時計、床、自分の手足、空気、水道、鏡、歯ブラシ、歯磨き剤、タオル。
その程度ではありません。
広告メール、開けないファイル、税金の納付書、なんか記入して提出しろという紙、人から聞かされる愚痴、
あてこすり、低評価ボタン、挨拶を返してこない近所の人、窓際を横走りしながら自分に吠えかかる小型犬、
頭痛に感謝しながらバファリンにも「ありがとう」って矛盾してないか? とツッコミつつ「ありがとう」。
・・・と、ことの大小を区別せず、ポジネガの差別なく、見境なく、バカのひとつ覚えみたく、感謝せよ、と。
すでに磁力はある、作用していると認める、
つまり(外側に想定した物の法則じゃなく)自分のマインドの磁力がこれらのことを起こした、
と全面肯定するなら、これは些細なことだとか、これは嫌なことだとか、差別していてはだめなのです。
このオールシーズン大感謝祭りは、たしかに効果があります。
しばらくつづけていると、頭のなかの雑音や、雑念の雲がなくなる。
澄み晴れ渡った、オカルト語でいう「高波動」マインドになります。
と、ネガティブなことが少なくなり、ポジティブなことが増えていくし、
トラブルが起きても、なぜか自然に解決してしまう。
そして「感謝している(磁力を認めている)」心理状態が恒常的になると、
3冊の引き寄せ本の著者、パム・グラウト氏が言うところの「感謝の周波数に乗った」状態になり、
これは磁力全開状態、
できる、わかるが当たり前の「通常ポジティブ」なマインド、じつはもう非3次元です。

ただ、このやりかたには、無理をすると、ダブルバインド(矛盾した指令を受けることによる二重拘束)に
陥って、表向き否定された3次元思考の圧力が増すという難点があります。
本音は「チッ」「全然ありがたくねえわ」「めんどくせーわ」と“感じて”いるのに、
口先だけで「ありがとう」とやっていると、
表層的には善い人になった感、向上した感がありますが、
いずれ恨みが爆発します。
なので、実際嫌なものは嫌なんだからポジネガ無差別ってのはむり、とか、
ありがとう教なー、バカっぽいわ、やっとるやつおるけど貧乏やで、というのが本音なら、
まず自分に合わない(ネガティブな)感覚を3次元の想定ごと手放すことからはじめたほうがよいと思います。

感謝の表現が日本語でも外国語でも、
3次元地球語の感謝って、じつはかなり重いです。
「感覚の向こうに、それ固有の法則をもつ客体X(ふつうは物質)がある」ことを想定した3次元ワールドでは、
自分の認識イコール創造次第で資源を無尽蔵にできるわけではないので、
あらゆる資源、機会が有限です。
人や自然界から何か受け取るとすると、偶然にせよ必然にせよ、文字どおりそれは「有り難い」わけで、
これがアストラル波動(マインドの感覚)的にズシッ、と重たいのです。
3次元実行中の人から発せられる心からの感謝も、
合意現実が形成する集団道徳や社交マナーとして奨励される感謝も、
この「有り難い」前提の重量が常識です。
この重たさのまま「有り難う」を連発、大盤振る舞いしていたら、そりゃめんどくさいし疲れるし、
10個もの添付ファイル中5個を開けない形式で送ってくるやつに感謝なんかできないに決まっとる。
磁力の利く世界、非3次元の感謝の周波数はもっと軽く、速く、いうなればチャラチャラしておって、
会社の同僚の出張土産が自分のフェイバリットスイーツだったときの「うぽっ☆あざす」みたいなのが、
バスケットボールのパスとかクリックくらいの速度で回ってる感じ。
だからといって決して機械的ではないし、社交辞令もありません。
ポジが通常設定の世界なんで、感謝という認印、受け取りサインにも、必ずうれしいという気持ちが乗っています。
地球語で近い表現はフレンドリー、明治大正ふうの日本語だと「きみぼく」っていう感じかな。
手放しがある程度進んでいると、このへんの塩梅が直覚でわかると思います。
  1. 2021/04/13(火) 16:38:04|
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喩え話

2021.3.22(月)

近所にある飲み物の自動販売機を見て、ふと思いついた喩え話。

認識の向こうに物質とそれ固有の法則(物理法則など)を想定していない非3次元の宇宙では、
硬貨を入れ、欲しい飲み物のボタンを押すと、その飲み物が出てきます。

一方、認識の向こうに認識の対象として物質があり、物質はそれ固有の法則で動いている、
と想定している3次元の宇宙では、
硬貨を入れ、欲しい飲み物のボタンを押すと、3回に2回は押したボタンとは別の飲み物が出てきます。
無糖の缶コーヒーを買おうとしたのにカフェオレが、とか、
それならまだしもドクターペッパーが、とか。
メニューにない飲み物が出てくるとか。
さらに10回に1回くらいは、どんな飲み物も出てこず、お金も戻ってこないことがあります。

どうしてこういうことになるかというと、
自分の認識とその対象(存在)が分離していて、対象(存在)はそれ固有の法則をもっている、
と想定しているからです。
つまり自販機はそれ独自のしくみで動いていて、買う人の意思は関係ない、
何回かに1回、思ったとおりの飲み物が出てくることがあっても、
それは自販機のしくみと買う人の意思が合致したからで、買う人の意思が通じたわけじゃない、
あくまでも自販機は自販機のしくみにしたがって作動しているだけ、と、そういう想定です。
そのように、買う人の意思と自販機のしくみが分離して、二重基準で回っているのが3次元世界です。
自販機で飲み物を買う人は、自販機のしくみ(存在固有の法則)を探って、
自分の買いたい飲み物を出すにはどうしたらいいか研究しなければなりません。
で、ボタンを早押しで3回連打すればいいとか、でも4回だと何も出てこず大スカだとか、
いや目当ての飲み物の隣りの飲み物のボタンを半押しして、3秒待って目当てのボタンを押せとか、
平日の午後3時から4時までの間だと何を押してもドクターペッパーになるとか、
いろんな情報が出回っているのですが、
それらの情報にしたがってうまくいくこともあるし、いかないこともある。
紅茶系を押すと必ずスポーツドリンクになるとか、温かい飲み物は温かい同士で入れ替わるとか、
法則が単純ならまだ対策も立てやすいのですが、
そのときの天候、気温、時刻、一定期間の実際の販売数なども反映され、
日時によってメニューも替わり、
また絶対に欲しい飲み物が出てこないというわけでもなく、結果はランダムなので、
法則は複雑であり、追究しだすとキリがありません。

もし、買いたい飲み物が必ず買える自販機を使いたければ、
買う人の意思と自販機のしくみは関係ない(認識≠存在)という上述の二重基準をはずせば、
押したボタンの飲み物が出てくる、シンプルな、ふつうの自販機に戻ります。
外からは見えない自販機の内側というのは考え、感情、気分など非五感的なマインドの象徴で、
「買う人の意思(認識)と自販機(存在)のしくみは関係ない(認識≠存在)」
「自分の買いたい飲み物のボタンを押せば、その飲み物が出てくる(認識=存在または創造)」
というのは、とちらもマインドで組まれたプログラムであり想定なので、
マインドのプログラムすなわち想定を入れ替えればいいのです。
ちなみに自販機独自のしくみ(存在固有の法則)というのはいわゆる「他人軸」のこと、
買う人の意思が通るとは限らないという状態は「制限」があることを意味しています。
もちろん、結果のランダムな自販機をおもしろいと感じ気に入っているなら、そのままでOKです。

何かネガティブなこと(欲しくない飲み物が出る、何も出てこない)があるつど、
あるいはとくに問題がなくても「どうせ世の中(自販機)なんてそんなもの」といった気分になるつど、
そのネガティブなこと、気分を、それとセットになっている「存在固有の法則(自販機独自のしくみ)」ごと手放し、
分離(≠)を統合する(=)のが手放し方式です。
統合が進むと、自分の感じたこと(認識)がそのまま創造され存在する自分軸オンリーの世界になり、
高次の閃きがマインドを、マインドが五感を喚起する磁力(引き寄せ力)が回復するので、
自分の欲しい飲み物が買えるようになる、というか、
自販機には自分の欲しい飲み物しか並ばなくなります。
なので、一発必中でもそうでなくても、常にベストチョイスになります。

一方、自販機のしくみなぞ知ったことか、わしの押したボタンの飲み物が出て当たり前じゃ、と決めてかかり、
または、量子力学によると、わしの意思がブレなんだら自販機はわしの意思にしたがうらしいわ、知らんけど、
ということにして、意図したとおりの飲み物を入手するのが磁力(引き寄せ力)アクティベート方式。
このやりかたで何回も成功し、押すボタンと出てくる飲料の一致が当たり前になれば、
自販機独自のしくみはないも同然となり無効になるので、
結果的に、買いたい飲み物が買えるふつうの自販機に戻ります。

どちらにしても、共通するのは、二重基準が解消すること、
自販機を動かす原理が「買う人の意思」に一元化されること、自分軸オンリーになることです。
二重基準を「自販機独自のしくみ(存在固有の法則)」のほうで一元化することはできません。
なぜなら、「自販機独自のしくみ(存在固有の法則)」というのは買う人の想定だから。
本当は存在しない主人を想定して、自分は召使いになり、
自分の周囲に主人の指図を読み取って戦々恐々とする、というプレイをやっているようなもので、
自作自演であることを思い出してプレイをやめることはできますが、
存在していない主人を召喚することはできません。
「一休さん」の頓知話に出てくる屏風に描かれた虎みたいなものです。
とはいえ、「“自販機独自のしくみ(存在固有の法則)”がある」のは当たり前、と考えていると、
その想定は「当たり前(許容)」いう思いに相当する強烈な磁力(引き寄せ力)を放つので、
自販機は想定したとおり、ランダムに飲み物を出すようになります。

ところで、どなたかが紹介されている方法を参考にしたり、
自分で閃いた方法にもとづいて、覚醒とかアセンションとかいうことをやっていると、
ミネラルウォーターはよいけどドクターペッパーなんてバカみたい的なジャッジが入ることがあります。
許せるのは無糖の缶コーヒーまでだとか。
こういうジャッジは、自分がダメ出しした側(ドクペ)の実在性をむしろ強化し、
あっという間に他人軸ベースの世界に舞い戻らせてしまうので、
気づき次第、手放すのがよいと思います。
自分が飲みたくなければそのボタンを押さなければいいだけ。
気にしなければ、いずれその飲料はラインナップからはずれます。
もちろん、全部炭酸飲料でそろえて、自分は炭酸飲料で生きていく、という人がいても全然OKです。

つい先日、私は、金運に特化した占いのネット広告で、
それぞれちがうイブニングドレスを着て、髪型もメイクも異なる、けれどもいずれも弦楽器体型の
ラグジュアリアスなおねいさんが三人、「キャッツアイ」(漫画、アニメ)の来生三姉妹みたく並んでいるのを見、
草が生育しまくってwwwwwwwwしばらく壊れたように笑っておりました。
年齢性別を問わず、こういう豊かさをめざす人がいても全然よいと思います。
どうぞがんがん実現してください。遠隔応援します。
88LDKオーシャンヴューの自宅からオカルトセミナー会場へ、
運転手つきのリムジンで現れるなり、ご自身でフェラーリを運転するなり、どうぞ。
もし私の宇宙にこの種の五感化に向かう富裕ヴァイブスがあるなら、
そのポテンシャルは残らずその方たちにさしあげてよ。

~業務連絡~
108さんの「ザ・チケット」動画等をご紹介くださった読者さん、ありがとうございます。
さらっと拝見、オカルト界ウィトゲンシュタイン派って感じ?
ちょっぴりイデアな香りもしますけども、
私からすると、オカルト界でプラトニスト波のない人なんて(自分も含め)いませんしね。
  1. 2021/03/22(月) 16:07:00|
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ポジティブなのが当たり前な世界

2021.3.9(火)

何度か書いたことですが、
色とか形、触感などの感覚の向こうに物があるのか、ないのか、ということはわかりません。
直覚できるのは色、形、触感などを感じているということだけで、
自分の感覚を介さずに物があるとたしかめられる人はいないからです。
厳密にいうと、
たとえば隣りにいる人がその人視点の感覚世界を体験しているのかどうかもわからないのですが、
もしそういう別視点の感覚世界があるとしても、
その別視点で直覚できるのはやっぱり感覚だけであって、物があるかどうかは不明です。
なので、物は「ある」と考えることも、「ない」と考えることもできる、どちらも想定です。
想定だということは、考えかた次第で「ある」「ない」のどちらかに決まるということ、
物質はマインドでつくられる、もしくはつくられないということです。
物質が「ある」とすると、物の広がり(空間)と変化(時間)でできた3次元世界が出力され、
物質が「ない」とすると、自分という統覚意識の感じたこと(認識)がそのまま現れる(存在)、
考えや感情、直感や閃きといった非五感的な感覚も、自分が感じることによって現れる、
そういう感覚模様からなる非3次元世界が出力されます。
どちらを体験するかは考えかた次第です。
正確には、物が「ある」ベースで過ごしているか、「ない」ベースで過ごしているか、
どっちが習慣になっているかで決まります。
統合などの「手放し」系のメソッドというのは、ふだん自覚なしに「ある」ベースで過ごしているという
習慣を手放して、「ない」ベースにもっていく方法です。
イメージワークや言葉で誘導するアファメーションとかが主体になるのは、
「ある」「ない」が考えかた次第であり、マインドで決まるからです。

物が「ある」と想定した3次元世界では、
物は自分が感じているかいないか、どう感じるか、といった自分の感じかたとは無関係に存在し、
それ固有の法則(物理法則やそれにもとづく常識)をもっています。
「自分」という一人称意識も、物の一部である身体の生理反応に由来しており、
自分が何かを感じるのは物からの刺激にやはり物である身体が反応した結果であり、
自分が考えや感情を抱くのは、その身体反応に反応した結果だ、ということになります。
自分も、自分の知覚や考えや感情も、遡れば全部、物からきているわけで、
物の世界は、物の状態や動きの結果である自分の自由にはなりません。
自分にできるのは、物固有の法則に適う範囲で、(想定している)物に直に働きかけることだけです。
 物-1次反応→物理感覚-2次反応→頭のなか、心のなか(マインド)
この<反応>形式を何度も何度も使ってそれが習慣として定着すると、
3次元世界は、それが観念だなどともはや発想できないくらいリアルに、強固になります。
感覚の向こうに想定された「物」は、それ固有の法則をもってしっかり実在する対象(外側)で、
外ではない側、すなわち頭や心の「なか」という言葉で象徴される内側の思考や感情は、
外側に対する反応にすぎず、内側に外側を変える力などありません。
本来、マインドがもっている磁力(マインドではまだあいまいな図を、より具体的な五感的感覚で
表出しようとする力)は働きません。
というか、「全部を物の法則が回している」という想定を当然のこととして許容しているので、
その想定が磁力を発揮して、想定どおりの世界を出力させています。
「どんな出来事もまず外側(物の世界)で起きる。快不快の原因は外側にある」、
職場の人に注意された、その人のもの言いも不愉快だけど、自分の無能が嫌になる、
体調がわるいのは免疫力が落ちたからで、その原因はふだんの食事や運動不足が云々、
好きなことで食べていけるのは才能や条件に恵まれた一部の人たちだけだ、
ネットのニュースを見て不快になった、この“みけ”とかいう人の記事でさらに気分がわるくなった、
けど推しのスピ先生の動画で癒された、やっぱり本物はちがう・・・等々、
自分の幸不幸を外のせいにして、元気があれば外に対処、なければ心のなかで愚痴対話、
という、3次元の当たり前マインドが<反応>の反復習得でできあがります。
物が「ある」と想定するということは、
自分の感覚世界のなかに、自分の感じかた(認識)ではどうにもならない領域を立ち上げ、
自分自身もそのどうにもならない領域に基礎づけてしまって、
自分ではコントロールできない世界を創造するということです。
これ、非3次元からするとウルトラクリエイティブ。
どうにもならないことがある、すなわち制限がある、なので「ネガティブ」、
3次元世界は、通常設定が「ネガティブ」です。

強い怒り、悲しみ、妬けるような焦燥、嫉妬、といった振幅の大きい感覚が稀になると、
平穏な心境で過ごせるようになります。
しかし、手放しが進んでくると見えてきますが、
じつはこの平穏無事なときに、ものすごくたくさんの対物対人対社会対処思考をしていて、
習慣的に考えたとおりに習慣的に対処しています。ダルい、めんどくさい、などと感じながら。
3次元では外側にある(と想定された)物の世界が本物の現実で、こちらを注視しているので、
外側ではない側の考えや感情などは、よほどの大波にならない限り二の次です。
ときどき思うんだけど、3次元社会って(想定された)物ファーストなので、
考えや感情を観察したりコントロールすることはほんと軽視されてますね。
先ごろ、アンガーマネジメント(怒りのコントロール)についての情報番組をテレビで見ましたが、
私の場合、そんなこと家庭でも学校でも職場でも教わりませんでした。
怒りのコントロールだけでも、職場、学校、そして自分へのブラック度合をずいぶん下げられると
思うのですが。
そんなわけで、平穏無事(通常設定)がネガティブだということにはなかなか気づけません。
3次元のままプラス思考をしようとしてもなかなかうまくいかないのは、
習慣に埋め込まれて隠れているマイナス思考のほうがずっと優勢だから。
手放しが進んで非3次元のウエイトが上がると、
考えや感情が非五感的な「現実」で、ここが重要だとわかってくるので、
マインドにもっと注目できるようになり、マインドがもっとよく見えるようになります。

物は「ない」、色や形や触感などからなる五感像は感じ手の自分が感じた感覚模様、
それは考えや感情などからなるマインドの感覚模様の磁力が喚起したもので、
それはもっと瞬速の直感とか閃きなどからなる高次の感覚模様の磁力が喚起したもの、
という、連動メカニズムで動く非3次元ワールドは、
制限の大元である、それ固有の法則をもつ物質を想定していないので、
制限がなく、ポジティブです。
しかし、どんだけばりばりにポジティブでも、
そのポジ感覚はゼロポイントフィールドとつながっているので、
自動的にバランスがとれて、結果的には中立になります。
それはこういうしくみ。
感覚の感じ手(自分)という一人称の認識主体意識は、
全感覚と無感覚が渾然一体となったゼロポイントフィールドから、
ゼロポではない側(ゼロポを認識する側)として立ち上がるのですが、
その「~ではない」という分離コマンドが自身にも働き、
「“ゼロポではない”ではない」となって、結局ゼロポに還ります。
これは「自分でありつつ自分でない(ゼロポでないと同時にセロポである)」ということで、
喩えると右手で自分、左手でゼロポをやっているような感じで、両方とも同時に起きています。
何らかの感覚を感じること(認識)と感覚が生じること(存在)は表裏一体なので、
感じ手(自分)が自分でありつつゼロポに還っているとすれば、
感覚もそれが生じるとともにゼロポに還っているわけです。

通常設定が「ポジティブ(制限なし)」になっている世界。
それは、「できる」「そうなる」「イケる」「手に入る」が通常設定になっている世界です。

何かわからないけどピッ、という閃きに、想像図へと具体化する磁力が働き、
想像図が五感的な感覚像へと具体化する磁力が働いているからです。
その磁力にしたがって、わくわくする、惹かれるほうに向かっていくと、
最終的に五感的な感覚として実現する。
ピッ、も想像図も五感像も、どれも「現実」です。
3次元だとアクシデント、ピンチに思えるようなことは単にチェンジの合図。
服のファスナーが壊れて着られなくなると、その日のうちに誰かから「これ買ったんだけど着ないわ。
いらない?」となって、もっとよさげな服をもらえるとかの流れになる。
やりたいことがあるけど苦手な作業がある、知識もないし、となれば、
それに適任の人が手伝ってくれるとか。
こんなのはまだ序の口で、物があるという想定に制約されていないマインドはもっと広大で自由なので、
常識はずれの突拍子もないオチがつく余地はたくさんあります。
通常設定がポジなので、たまに気分がわるくなるなどの変調があると速攻気づいて、
五感化まで行く前に手放してリセットすることができます。
不快になるとか調子がわるいとか、3次元ではよくあること、しかもいつ起きてもおかしくありませんが、
通常設定ポジの非3次元では異常事態です。
3次元では運がいいとかツイてるというのは特異なことですが、
ツイてるのがふつうの非3次元だと、一回でもはずしたらそっちが異常です。
白い碁石のなかに一個だけ黒い碁石が交じっているみたいな感じなので、すぐ気がつきます。
非3次元の人は、「(外で)これこれの出来事があったから追い込まれた。(外に)対処しなくては」
という<反応>発想をしません。
不快な感覚を感じたら、ズームを引いて(高次、マインド、五感の感覚を感じている「“点”の自分」
に戻って)変調感覚をその土台の観念ごと手放します。
外に出ていくのではなく、うしろに下がるのです。
土台になっている観念は、自分の認識に先立って「(  )がある」という想定です。
カッコのなかは、物質でも、エネルギーでも、霊でも何でも同じ、要するに「客体X」であり、
要するに「自分の感覚ではない感覚(違和感のある感覚)」です。
というわけで、通常ポジの世界は、徹底的に自分軸で回る世界でもあります。
そうなってこそ磁力(引き寄せ力)も全開。
他人軸というのは、客体Xの中身が何であれ、制限をつくります。
実感的にいって、3次元をやめるとすごく脱力、リラックスしていられるのですが、
それは何にせよ自分の都合、自分のペースで決められるからだと思います。

覚醒する、統合すると決めて(コミットメントして)「手放し」をやっているということは、
裏ではこの通常設定ポジティブの世界自体の「引き寄せ」を設定しています。
手放していくと、もとの磁力(引き寄せ力)の利く世界に戻っていく、
引き寄せターゲットを設定すると、手放したほうがいい余計な考えや感情がはっきりする、
両者は表裏一体なので。
要は3次元を出れば非3次元に入る(手放しアプローチ)、
非3次元に入るのなら3次元は出ることになる(引き寄せアプローチ)、そういう表裏関係。
  1. 2021/03/09(火) 15:26:14|
  2. 実現のメタフィジクス
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引き寄せ詳説~垂直方向の磁力について

2021.2.20(土)

何であれ、「それ自身に似たものを引き寄せる」というのがthe law of attraction、
一般に普及した日本語訳にすると引き寄せの法則です。
attraction、誘引力、引力、磁力だと? そんなものが本当にあるのか?
というところで引っかかりを覚える、眉唾くさい、ということはあると思います。

引き寄せの法則、それは簡単にいえば、
ポジティブなことを考えているとポジティブな出来事が起き、
ネガティブなことを考えているとネガティブな出来事が起きる、ということなんですが、
なんだそれ、「考え」と「出来事」はまるで別範疇ではないか、
嫌なことを考えているのにいいことが起きることはあるし、
楽しいことを考えているのに災難に巻き込まれることだってあるぞ、と。

だから、「“考え”と“出来事”はまるで別で、連動するとは限らない」と考えていると、
まさにそう考えているとおりになるわけで、
attractionはちゃんと働いているのですが、それはさておき。

ネガティブな考えからネガティブな連想を、ポジティブな考えからポジティブな連想をしやすい。
これなら、一般常識的、経験則的にいって、ほぼほぼ異論はないのではないでしょうか。
財布にあと二千円あると思っていたのに、財布を開いてみたら千円しかなかった、げっ!
と、そこから最近の無駄遣いを悔いたり、来月の税金の支払いやローンの引き落としのことを考えて
暗くなったり、急に公共料金や通信料金が高く思えたり、と、
ほんの数秒くらいの間に、とりあえずその場に関係ない件まで思考の触手が伸びて、どよ~ん、とか。
でも財布にあと五百円しかないと思い込んでいたら、なんと千円あった札があった、となると、
シャー! と心のなかでガッツポーズ、卵と野菜とパンを買ってもまだ余る、ポテチもイケる、と高揚し、
そういえば今日はすばらしくいい天気ではないか、と深呼吸してみたり。
この程度のことなら数分で雲散霧消してしまうかもしれませんが、
仕事のミスが家に帰っても忘れられないとか、人から投げつけられた嫌な言動を何度も反芻するなど、
ネガティブな考えを「引きずる」状態になると、
固定されてしまったその気分と同調する不快なニュースを拾ってしまったり、
陽気にしていたり大笑いしている人がいると気に障ったり、
食事がおいしく感じられないとか眠りが浅いとか、五感領域まで及ぶこともあります。
逆に、仕事や勉強がはかどって、調子がいい、うまく回っていると感じられると、
将来への明るい見通しが立ったり、やりたいことが出てきたりと、前向きな方向に考えが動きます。

考えが考えを呼ぶ。
ある考えや感情は、別の考えや感情を結びついて、同一フォルダに入る的なまとまりをつくる。
その考えや感情への関心(注目度)が強いと、
マインド全体がその考え、感情の色に染まり、広範囲に影響する。生活にも影響する。
これは、ある考えが、それと関連する考えを連想させて強くなったり膨張したりする、という、
水平方向の作用です。
では、この連動作用が水平方向だけでなく垂直方向にも働くとしたら?
その考えないし感情は、それと関連する色、形、音、味などの五感的感覚を喚起することになります。

マインドに連動して、それと似た五感的な感覚が呼び起こされる。
マインドでつくった「現実」が五感的な「現実」を引き寄せる。

いや、それはないでしょう、とストップがかかるとすれば、
垂直方向には、考えや感情には影響されない何かが存在している(と考えている)からです。
この何か(客体X)は、一般的には物、物質です。
物質があって、それが考えや感情の及ばないそれ固有の原理、法則(自然科学)で動いている、
とすれば、当然、物質は考えや感情には影響されず、垂直方向の連動作用は起きません。

何度か書いてきたように、五感的な感覚の向こうにたしかに物があるかどうか、
緑色で四角いという視覚、触覚の向こうに緑色の箱が存在しているかどうかは、わかりません。
たしかなのは緑色で四角いという感覚を感じているということだけで、
自分の感覚を離れて物のあるなしを確認できる人はひとりもいないので
(観測機器を使っても、機器を操作する人や結果を検証する人の感覚を介することになる)、
物が「ある」とすることもできるし、「ない」とすることもできる。どちらにしても想定です。

物が「ある」と想定し、
物は物理学とか化学とか物固有の法則で動いているとすると、
物は人間の考えだの感情だのとは関係なく存在していることになります(認識≠存在)。
のみならず、むしろ人間の考えとか感情とかは物固有の法則にしたがって生じる、
身体という物が、物でできた外界からの刺激に「反応」するという生理作用から考えや感情が生じる、
ということにもなります。
とすれば、物(身体)から派生する考えや感情に、それ自身の基盤である物を動かす力はありません。
ハードウェア(身体を含めた物質一般)はソフトウェア(考えや感情)を作動させることができても、
ソフトウェアではハードウェアを動かせないように。
これは、五感的な感覚の向こうに「本物の現実(物質)」が存在し、
「本物の現実(物質)」固有の法則(自然科学)が一切の出来事を決定する、
考えや感情はそれに制約され、
法則(自然科学)を研究したり、法則に沿った情報を集めたり、
「本物の現実(物質)」を解釈して一喜一憂したりはできるけれども、
「本物の現実(物質)」を変える力(垂直方向の連動作用)はない、と考えることです。
筆者が書いている「3次元の世界」とは、そのように、物が「ある」と想定したときの世界です。

引き寄せの法則などはインチキだ、本当の現実を直視できない弱い心がでっちあげた思い込みだ、
本当の現実の基礎は自然科学である、と考えれば、その考えどおりに、
物質があり、物質の法則(自然科学)が現実を左右する、引き寄せのない世界を出力します。
認識が、存在がどうのこうの、と深く考えなくても、即座にアヤしい、インチキくさいと感じられるのは、
考えや感情と物でできた現実は別だ、という観念が、
何度も反復して習得し、習慣になった行動、思考の前提になっていて、
いちいち意識しないくらい当たり前になっているからです。
だから、考えや感情と物でできた現実は別ということが暗黙の前提になっていると、
理屈より先にアラームが鳴る。

しかし色や形、触感などの向こうに物が「ない」と想定すると、
考えや感情の連想として水平方向に働いていた連動作用が、
垂直方向の作用を止める(というか「停止」指令として作用する)
物質とか物質固有の法則とかの想定に阻まれないので、ストレートに下に向かい、
考えが考えを呼ぶのと同じメカニズムで、
色や形、触感といった五感的感覚を喚起します。

物が存在していなければ、
五感的な感覚は、物(外界)からの刺激に物(身体)が「反応」して起きる物理感覚ではないし、
考えや感情は、物に反応した物理感覚への「二次反応」ではありません。
両方とも、自分が感じる(認識する)ことによって現れた感覚であり、その点で本質的には同じです。
ただ、五感的な感覚が濃くて段差(コントラスト)がはっきりしているのに対し、
考えや感情などは相対的に淡く、また相対的に移り変わる速度が速くて軽い、
というちがいがあるだけです。
考えや感情なども、色や形などと同じように、自分が感じた「感じ(感覚)」である。
考えや感情などはマインドの「感覚」といえます。
どちらも本質としては「感覚」なので、考えが考えを呼ぶという水平方向の作用と同じように、
ある考えが色や形などを呼ぶといった垂直方向の作用も起きるのです。
なお、物が存在していなければ、
「自分」というのも身体やその生理作用でできる心理現象のことではなくなります。
物を想定していないときの「自分」とは、
さまざまな感覚をまとめて感じている統覚視点ないし統覚意識のこと、
簡単にいえば感覚の感じ手のことです。
物を想定していなければ、感じ手が感じる(認識する)ことによってその感覚が創造される、
ということになります(認識=存在もしくは創造)。
感じ手なしに感覚だけがあるとか、感覚なしに感じ手だけがいるということは起きえません。

ただし、マインドの感覚(考えや感情など)の全部が連動作用するわけではありません。
考えが考えを呼ぶ水平方向の連想でも、考えという考え全部が連想に至るわけではなく、
パッと思い浮かんで消えてしまうものもたくさんあります。
あれこれ、次々と連想が広がるのは、
最初の考え、または途中で出てきた考えに、ポジネガどちらにせよ関心があって、
湧いてくる考えに注目している場合です。
垂直方向でも同じ。
何回も考える、感情や気分を伴って、ある程度まとまった「コンテンツ」みたいになっている、
というように、関心度合の強いマインドが五感的な感覚の喚起に向かう磁力(attraction)を持ちます。

ただし、マインドの感覚と五感的な感覚は、同じ感覚でもやや性質がちがいます。
マインドで思い描いたことは瞬速で実現します。修正も速攻でできます。
「だいたいこんな感じ」という、ぼやけたファジーな実現もありです。
感覚化(実現)のスピードが高速で、目盛りが細かい(軽い)のです。
対して、五感的な感覚は、考えや感情などのマインドの感覚よりも、濃くてはっきりしています。
相対的にいかついです。
相対的に感応度合が鈍いといってもいいかもしれません。
ここはいわば四捨五入の世界で、マインドの磁力が50%以下だと微動だにしない、
でもちょっとでも50%を超えると100%と同じになって連動が起きる、という感じです。
これが、ある軌道から別の軌道にジャンプするみたいな変化なので、
物理学用語になぞらえて量子変化とかクォンタムジャンプと言っているわけ。
20%や30%では動かないこの感応度合の鈍さが、
3次元の思考(物があると想定し、それが連続的に変化すると考えること)では「時間がかかる」
ととらえらえます。
たとえば、マインドでAのことを考えているとすると、
Aのない場面から別のAのない場面へ、また別のAのない場面へと次々ジャンプしていって、
確率50%を超えたときにポンとAのある場面に移っている、ということなのですが、
過去にはこれこれのことが実際にあった(こういう物環境だった)、それが現在までにこう変化し、
それが未来につづいていく、という連続時間進行を前提にすると「時間がかかる」ことになります。
(オカルト語を使うと、マインドの感覚は気体的なアストラル媒質に起きる波動、
五感的な感覚は液体的なエーテル媒質に起きる波動ということになります。)

考えが考えを呼ぶ、水平方向の引き寄せは、関心さえあればたちまち作用し、広がり、実現しますが、
考えが色や形などを喚起する垂直方向の引き寄せは、関心がある、興味があるくらいでは起きません。
といっても初発は関心や興味であり、
関心や興味によってマインドで感覚化(実現)していないことには垂直の連動も起きないのですが、
関心度合が強く、大きくなってMAX値まで来たとき、
関心は「許容」「受容」「承認」といった感覚に変わります。
感覚を波動だとすると、ここで周波数が変わるのです。
関心よりもずっと確定的で、安定していて、落ち着いた感覚です。
それが当然、当たり前、(奇蹟じゃなく)常識だよね、という感じ。
カドがとれてリリースされた感じ。
ここで、五感的な感覚は実現確率50%を超え、四捨から五入のほうに飛びます。

コーヒーを飲みたいと思っているときは、飲みたいという欲求の感覚がありますが、
目の前にコーヒーがあれば、もう飲めるに決まっているので、コーヒーを飲みたいとは思いません。
コーヒーを飲んでいるときも、コーヒーを飲みたいとは思いません。

関心がある、欲しい、知りたい、というのはマインドで何かが実現するとき、
つまりイメージしたり、リアリティのある感覚(記憶)を呼び起こしたり、
複数のイメージを関係づけたりするときのキー感覚です。
マインドの創造力のソースといってもいいでしょう。
マインドで意図し、その意図と似た五感的な感覚を喚起しようとするなら、関心は不可欠です、が、
それだけでは五感的な感覚を動かせません。
五感的な感覚で実現するときのキー感覚は「許容」です。
「関心」も「許容」も、ともにマインドで、心のなかで起きていることですが、
五感的な感覚が動くのは「関心」ではなく「許容」によってです。

五感的な感覚の世界には、積極的な関心はないのに五感化している感覚が多々あります。
玄関に敷かれた四角いタイルとか、ベランダの茶色い手すりとか、
べつに菱形でもグレーでもいいんだけど、みたいなやつ。
この種の五感的感覚は、意図せずに、つまり関心抜きで「許容」だけで実現している例です。

物が「ある」と想定すると、物質の法則や、それをベースにした常識にしたがう世界がちゃんと出現するのは、
考えと出来事は別だという考えを許容し、
物質の法則にしたがわない非常識なことが実現するのを許容していないからです。
  1. 2021/02/20(土) 16:26:26|
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