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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

認識と磁力②(チャネ談の余談)

2021.1.13(水)

ソフィア@シリウスとのチャネ談のつづきです。

みけ 引き寄せみたいなことは、祈りの力とか、潜在意識を使うとか、むかしから言われていたけど、
「引き寄せの法則(The low of attraction)」として体系的に紹介したのはエイブラハムっていうチーム存在
なんだよね。3次元でいうとNPO法人的な?
ずっと前、バシャールの情報が私の宇宙でいう土星評議会を無視して降りたので、
事後にちょっと揉めたというようなネタを記事に書いたとき、
それを読んだ方からエイブラハムの情報は土星評議会の審査を通ったのですか? みたいなことを
訊かれた憶えがあるんだけど、
私、エイブラハムのことはあまりよく知らなくて、本も1冊しか読んでないから、よくわからなくて、
自分で調べてみてください的な回答しかしなかったんだ。
それが、2020年末にそのあたりのことがわかってきたんだけど、
エイブラハムのほうはとくに問題になっていませんね。
ふつうに企画が提出されて、形式的な審議をへて承認されて、どうぞ、って感じ。
ソフィア チームのなかに土星評議会と懇意のアセンデッドマスターがいるしね(黒笑)。
みけ あーそういう方向の根回しが。
ソフィア 引き寄せという方法自体、あなたが言うように3次元史で古くから知られていたことだし。
つまり、古くから知られているにもかかわらず普及していない、
だから、その流れを汲んだエイブラハムの情報がもたらされてもさしたる影響はないだろう、と踏んだわけ。
3次元にいてはこの方法は使いこなせないだろう、と。
みけ 高を括ってたんだ。
ソフィア さっき言ったように、引き寄せたいことを思いつく時点で「ほとんどありえない(奇蹟)」ことが前提に
なってて、たちまち確率拡散するケースが非常に多いから。
想定した客体Xの法則に引っ張られるというのは3次元の傾向、つまりそういう磁場だということ。
みけ 土星評議会は決してアセンション、覚醒に反対ではなくて、むしろ推進しているんだよね。
ただ、そのルート設計というか、方法にうるさい。
客体X(物質)でできた環境を上手に操作したいという、身体と心に制限された「私」の欲求、
そういう我欲を手放すと客体X(物質)がそもそも想定だと気づく、という方向で誘導してる。
「何もしなければ、なんでもできる」「何も求めなければ、すべてが手に入る」みたいな。
一方、バシャールにしてもエイブラハムにしても、最初から「なんでもできる」「すべてが手に入る」に
照準を当てるんだよね。「できる」とか「手に入る」という結果が目的ではなくて、
そういうゴールを設定しておくと、結果がどうであれ、そのプロセスで波動が上がる。
そっちが楽しいと、客体X(物質)を想定した3次元の動向は興味の圏外になるんです。
野球に興味のない人は野球の試合結果をチェックしないみたいに。
これは、まだ3次元人間のときに抱く我欲をテコにするやりかたで、土星評議会のアプローチとは逆です。
部屋をすっかりかたづけると作り付けの家具が全部出てきますよ、というのが土星評議会方式で、
かたづけと入れ替えを同時にどんどん進めていって、最終的に作り付けの家具だけで整うのが新方式。
ソフィア バシャール、エイブラハムがそういう別角度からの情報を伝えたのは、自身が楽しいからです。 
こういう方法もあるよ、と、発想し発案すること自体が楽しい。
その長所は、土星評議会が推奨する伝統的なアセンデッドマスターのやりかたよりも、
多くの角度に作用し(多数の人を惹きつける)、
輪廻とか転生といった概念を使わなくても(相対的に短期間で)覚醒できること。
訴求力があるんだよ。
短所は、ある程度うまくいくと満足して、3次元を出る前に止めてしまうケースが少なくないこと。
そうすると別の課題が出てきて、それへの対処に追われるという形で3次元の磁場に嵌り、
いったん開いた非3次元への扉を閉ざしてしまう。
ひとつつけ加えておくと、オーセンティック(正統的)な方式に訴求力がないのは、
3次元をやっている人たちが我欲まみれだったり悟りセンスがないからではなく、
反射神経的、習慣的に外側(客体Xである物質)に反応するかまえができていて、
3次元世界の運営に追われているからです。
みけ そうだね。3次元にいると、今日じゅうにこの作業を終わらせて、とか、明日の準備とか、
12時前に寝なくちゃ、とか、預金残高がいくらで出費がいくらとか、
そういう習慣的な思考の流れに載せてまた別のことを考えてて、それに全然違和感がないんです。
近年、知られてきた統合メソッドっていうのは、その習慣を解(ほど)いていくことを視野に入れた、
オーセンティックな方式と新方式の折衷と考えていいのかな。
私がやってるメソッドもほぼそれですけど。
といっても、自分でもアレンジしてるし、ブログに書いてない方法もいろいろ使ってますけど。
ソフィア そう。でも、とにかく方式とか流派とかにはこだわらなくてよく、
やってみたいと感じたことはなんでもやっていいんです。
あと、本やメディアの情報に接したとき、部分的に違和感を覚える箇所があれば、
そこは気にしなくてけっこう。いわゆるいいとこ取りをしてもかまいません。
失敗してもいい。失敗というのは、まったく新たな発想が湧いたり、別の軌道に飛ぶチャンスの
ネガティブな表現にすぎず、本質的に失敗はないのだから。
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  1. 2021/01/13(水) 16:21:50|
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認識と磁力①(シリウス@ソフィアとのチャネ談)

2021.1.13(水)

ソフィア@シリウスとのチャネ談です。長いので2つの記事に分けて掲載します。

みけ 願望を抱くとか、引き寄せるとかって、そのこと自体にわくわくしたり、それ自体が楽しかったりすると、
波動が上がるから叶いやすくなるって、こないだ気がついたんですけど。
波動が上がるって、マインドがより自由になり、広々、のびのびとして、活性化するってことです(※)。
イメージングとかヴィジュアライゼーションとかの、いろんなテクニックを使うことも、
テクニックを使うこと自体が楽しければ、やっぱり波動が上がって、効果が現れやすくなると思う。
ソフィア そうですよ。ご明察。
引き寄せでなくても、昨今では古いやりかただとされている修行でも、他者に貢献する活動でも、
スポーツとかアートとか自分の好きなことに打ち込むのでも、何でもいいんです。
わくわくする、楽しい、喜びを感じられる、清々しい、というように、波動が上がれば何でも。
行っていることの内容ではなく、波動(そのときのマインドの状態)に注目してください。
やっているうちに問題にぶつかったり、楽しくなくなってきてストレスが生じたら、
自分に合わない周波数(感覚)をゼロポイントフィールドに還して、手放せばいい。
そうするとまったく新たな発想が生まれてアプローチが変わります。
あるいは、それまでやっていたことに興味がなくなって、別のことをはじめたくなるかもしれない。
休息や充電も含めてね。休んでいるうちに不安や焦りが生じたら、それを手放せばいい。
みけ それって、仕事とか、家事とか、趣味とか、それまでやっていたようないろんな活動をつづけつつ、
全体が非3次元にシフトしていくって考えていいのかな?
「仕事」とか「家事」とか「趣味」とかって分けるのは3次元の思考だけど、とりあえず。
ソフィア そうです。
マインドで想定した物質世界の動向を常時モニタリングするという習慣が終わって、
光の磁場に立ち、身体や心といった限界範囲のない一人称意識で閃きを、思考や感情を、五感を
感じる、感じることが同時に創造である、という状態が定着するまで、
つまり非3次元が新たな習慣になるまで待たなくてはいけない、
すばらしいことがはじまるのはそれからだ、ということではありません。
みけ たとえば、製品Aに替わって新規に製品Bを製造しはじめたとするでしょ。
Aを製造するラインを止めても、まだ在庫があったり、市場ではまだAが流通してるわけです。
で、知名度のないBよりAのほうが売れているし、まだ注文もある。
となると、またAを製造する機械を動かし人を配置し、再稼動させちゃいたくなるけど、
ここはBの販売が伸びてくるまでこらえないといけない、
みたいなことが、アセンションにもあるのかな、という気がしてました、なんとなく。
けど、このままBが売れなかったらどうしよう、とか。
Aが3次元、Bが非3次元のことです。
ソフィア じゃなくて、Aを出荷しながらでも、人も資源も全部Bに投入しちゃっていいんだよ。
こう考えてください。製品Aと製品Bでは顧客層が全然ちがう。
Aを買うお客さんはBを買わない、だからそれまでの得意客のデータだけを見ていると、
Bは思ったより売れていなくて、失敗だったように見える、
しかしBはそれまでまったく想定していなかった人たちに売れていっている、
というか、年齢、性別、収入、居住地など、従来の要素からは測れない、想像できない、
新しい顧客層を創造しつつあると。
つまりね、非3次元はよりよく改善された3次元ではなくて、まったく別発想の世界なわけ。
Bに注目していないと、それは見えてきません。
それが、閃き、直感、ゾーン感覚、わくわく、喜び、といった感覚を使うということです。
まだ非3次元に慣れていなければ、
直感やわくわくにしたがうことを自分に「許可する」と言ったほうがいいかもしれない。
3次元と非3次元を往来している、移行の途上であっても、
制限のない自由なマインドの感覚はどんどん入ってきます。
みけ 読者さんからの感想などでときどき見かけるのは、
「光の磁場に立つ」とか「統覚視点まで後退する(身体や心といった限界範囲のない一人称意識に戻る)」
といったイメージワークがちゃんとできているのかどうかわからない、と。
じつは私自身は、できている、できていないを全然気にしてないんですが。
そしたら、その「できているかどうか」っていうモヤモヤをゼロポに還して手放せばいいんじゃないかな。
ソフィア そうそう。
みけ たとえば「光の磁場」の実感が弱いんだったら、暗い場所でスタンドをフットライトにして、
光が広がってる感じをつかむとか、それっぽい動画や写真でイメージをつくるとか、
3次元世界でそれに近い景色をつくってみればいいと思うんだよね。
あと、イメージに動作をつけてみるとか、呼吸をプラスするとか。
3次元が本物で非3次元はニセモノとか、逆に3次元はニセモノで非3次元は本物とか、
そういう、どっちが正しいとか真偽とかじゃなくって、どっちも想定なんだから、
リアリティが変わるだけなんだから。
非3次元だと、「直感も、考えてることも、五感も、それぞれ別の周波数帯の現実なんだ」
っていう感じになる(これは全部「像」「夢」ととらえているのと同じ)。
ソフィア そう。五感的な感覚の向こう側に物(客体Xを物質とした場合)があるのかどうかは証明できません。
物がある、ない、というのは、どちらにせよ想定だから。
ということは非3次元、3次元、どちらの世界も想定にもとづいているわけで、
どちらが正しい、まちがっていると決めることはできない。
自分の意思決定(コミットメント)でどちらかに帰着します。
みけ 「どっちの演奏が好きか」「どっちの絵が好きか」というのといっしょで、
正解がどっちっていう話じゃないんだよね。
非3次元に移ると決めているにもかかわらず、どうも3次元のリアリティが強いと感じたら、
まずそのリアルさ、たしかさ、固さ、当たり前感をゼロポに還せばいいと思う。
それから、居心地がわるいとか気が晴れないとか曇ってる、翳ってる、摩擦、反発、抵抗、
そういうネガティブ、サゲ気味、沈んだり重かったりするフィーリングを、そのつど手放せばいいと思う。
心のなかでつぶやいたり言葉にしたりしてなくても、フィーリングに着目してるとそれはわかります。
信号が赤から青になったとか、青から黄色になった、みたいにわかる。
3次元人間だったときにイメージや想像が頼りない、現実を変える力なんかないと感じられたように、
3次元から非3次元に比重が移ると、今度は逆に、
物があるとか、物の集まりが環境、現実社会をつくってるとか、物の法則とか社会のしくみとか、
そっちの「作り話っぽさ」が強くなってきます。
何かを妄想して「なんだこれ。疲れてるのかな」と判断してたその人が非3次元転すると、
3次元の常識思考をしてるときに「あれ、疲れてるのかな」ってなる。
※自分の認識とは関係なく、物質、霊、エネルギーなど何らかの客体Xが実在し、
客体Xはそれ自体の法則(Xが物質なら自然科学)で動いている、
認識と存在は別である(認識≠存在)という想定はマインドでなされていることで、高次や五感はこの想定に関与していない。
したがってマインドの「認識≠存在」という想定をはずす、あるいは「認識=存在または創造」という想定に切り換えることが
非3次元化、覚醒、アセンション等々と呼ばれているシフトの要である。
「認識=存在または創造」とは、「私」という一人称意識の感じたことがそのまま実現しているということで、
「私」の感覚の向こうに物質、霊、エネルギーなどの客体Xは存在していない。
なお、マインドから客体Xという制限がはずれた状態は「中立」であるが、制限がある状態(3次元)に比べると相対的にポジティブである。
 
みけ 引き寄せに話を戻しますけど、引き寄せって、うまくいくと、成功体験が自信につながって、
どんどんできるようになっていくでしょ。
ほんとは「過去に事実としてあった成功体験」じゃなくて、マインドで既知感が開いて波動が上がってる
だけなんだけど、とにかくよい循環ができるよね。
でも反対に失敗すると、がっかり感とか反省とか疑いとか、そっちが既知感になって開いて、
波動が下がり、やればやるほどハズレるっていうわるい循環ができるわけ。
これはわくわくすることをやってみるのでも同じで、結果の成否がマインドの波動に影響します。
だからまず、実力がないとか運がないとか3年前に同じテーマにトライしてだめだったとか、
理由に関係なく、その不可能感、壁感をゼロポに還したほうがいいと思うんだけど。
ソフィア うん。引き寄せの難点は、そもそも、
これがほしい、こうしたい、こうなりたいと思いつく時点で壁をつくってしまうケースが多いことです。
奇蹟とか幸運といった想念がまとわりついていたり、
切羽詰まっているという想念から一縷の望みに賭けたり。
それでも、その確率の低さにゾクゾクするのなら逆に確率は上がるんだけど、
いくらか時間がたつと壁感に負けて波動が落ちて墜落してしまう。
3次元の常識や個人史を引きずりつつ願いごとや引き寄せを思いつく、
そこでもう「できないvs.できる」という確率の拮抗が生じてしまいます。
だから、叶えたいことを思いついた時点で、イメージしたりノートに書いたりといったことをする前に、
不可能感、壁感を手放したほうがいいというのは、たしかにそのとおり。
しかし、非3次元化して(「アセンションする」「覚醒する」と同じ意味)波動を上げ、
自由なマインドの感覚を使うことによってさらに波動を上げていけば、
引き寄せは自ずと起きるんですよ。認識には磁力があるから。わかるかな?
みけ ・・・そうか。いいですね、認識には磁力がある、ってすごくゾクゾクするよ。
「“私”の感じたことがそのまま現れる(認識=存在または創造)」って、
五感的な感覚の層だと鏡的っていうか、「私」の感じたことが色とか音とか味になってそこで終わりだけど、
マインドで実現したことは、まだ五感でもっと具体化する余力(ポテンシャル)があるし、
さらに高次で実現したことは、まだマインドでも、その先の五感でも具体化する余力があるよね?
てことは、統覚視点「私」、もしくは高次の感覚層の軸であるハイヤーセルフでもいいんだけど、
この起点の「私」の認識(感じること)そのものに、具体化への志向があるってことでしょ。
種のなかに、根や茎や葉っぱや花や実になる設計素子というか、志向があるように。
ソフィア ゼロポイントフィールドを対象化して(認識して)「私」という一人称意識をつくった0/1帯域に、
すでにその具体化への志向、磁力が生じているんだよ。
だからこの「私」に無数の角度、入射角が生まれ、個々の「私」宇宙として具体化していく。
それが五感的な感覚まで降りたらゼロポに還る、というように循環している。
でもだからといって、意図的な引き寄せをやってはいけないとか、勧めないとかいうのではありません。
最初に言ったように、それが楽しい、わくわくする、喜びを感じられることならばむしろお勧めします。
ただ、結果という観点からいうと、非3次元の比重が増すにつれ、
自宅に届く荷物をわざわざ配送所まで取りに行く、というようなことが増えるかもしれない。
  1. 2021/01/13(水) 16:13:35|
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統合された自分

2020.11.8(日)

統覚視点というのは、「私」という一人称の意識で世界像をつくっている、そのパースペクティブの
中心点のことです。
パースペクティブとは透視図法で絵を描いたときの遠近の開始点のこと。
あの点に相当するのが、一人称世界を認識している「私」です。
このパースは色形、音、柔らかさなどの五感的な感覚だけでなく、
思考や感情や気分といったマインドの感覚、
閃きとかハッと気づいた感じとかの、マインドの感覚より淡い高次の感覚も含んでいます。
パースの源つまり統覚視点に近ければ近いほど、こうしたさまざまな感覚は微妙で淡く、
統覚視点から遠ざかるほど濃くなりはっきりしていきます。
でも淡いとか微妙というのは「弱い」わけではなくて、
感覚を波(波動)だとすると、高次、マインド、五感は、それぞれの波を起こす媒質が異なり、
高次の波の媒質は非常にキメが細かいので、高次の感覚は精妙で繊細だというだけです。
慣れてくると、インパクトの大小ではなく質のちがいとしてとらえられるようになります。
自分の身体というのは、五感的な感覚として感じる肌色とか曲線とか圧力などを
ひとつのセットとして考えたマインドの感覚、つまり概念で、
この概念はパースに含まれている像のひとつであり、統覚視点ではありません。
自分の身体像も、主として視覚像と音声像と記憶と呼ばれるイメージ情景からなる他者の像も、
どんな像であれ、パースに含まれる像はパースの開始点である統覚視点なしには存在しえないので、
統覚視点が何らかの感覚からなる像を感じる、認識するということは、
同時に像を創造するということでもあります。
「“私”(統覚視点)の感じたことが出現している」ということです。
逆に「出現していること(感覚像)にはパースの開始点(統覚視点)がある」ともいえます。

以上は3次元ではない(非3次元)宇宙の話で、
3次元というのは、上述のパースのマインドの感覚の帯域で、「私」の感覚の有無とは関係なく
それ自体の法則で存在する「客体」を想定して、
「“私”(統覚視点)の感じたこと」(認識)と「出現」(創造または存在)を切り離し、
さらには「私(統覚視点)」という一人称意識は身体(客体)から生じると定義して、
どんな現象も客体固有の法則にしたがうというルールにした世界です。
客体は一般的には物質ですが、霊とかエネルギーだと想定しても、
認識と創造が切り離されている、分離しているという点は同じです。
ここだけ「“私”(統覚視点)の感じたことが出現している」という非3次元の原理が通用せず、
独自の劇中劇みたいなことをやっているわけです。
ただ厳密にいえば、「認識と創造を切り離す」ことを想定し、想定どおりの世界になっているのだから、
広義には、やはり「“私”の感じたことが出現している」ことになります。
なお「“私”(統覚視点)の感じたことが出現している」というのは、
バシャールの言う「自分の与えたものが返ってくる」と同じ意味です。
「自分で設定したことが実現している」でも同じです。

3次元の劇中劇の世界を出ると、それはもう3次元ではない、非3次元なので、
自分というのは想定した物質世界の一部を占める身体のことでも、
その身体にもとづいて生じるとされる自意識、自己像のことでもなく、
独自の角度で一人称宇宙のパースペクティブを描いている統覚視点のことになります。
この一人称意識「私」は、パースの中心点もしくは高次、マインド、五感の各感覚帯域の中心軸なので、
パース宇宙のなかに直轄領のような体積を占めてはいません。
何かを見たり、聞いたり、思ったり、感じたり、閃いたり、気がついたりするときに、
それらの感覚を感じて創りだしている一人称意識である、ということです。

こういう「私」意識のときは、
実感的にいうと、ピントがぴたっと合っていて、とてもすっきりした、見晴らしのいい状態です。
ピントが合っているという感じがあるのは、
高次、マインド、五感、それぞれの中心軸(高次、マインド、五感それぞれの感覚の感じ手であり
創り手である「私」)がブレておらず一貫している、コヒーレントだから。
周りで何が起きているか、どんな考え、気持ちでいるかはわかっていますが、
それらに気をとられておらず、いろんな感覚からなる感覚模様を感じている状態。
たとえば、人の話を先入観を抱いて聞いているとすると、
①その人が話している言葉の意味、そこに自分が被せている先入観や判断の内容を理解していて、
②かつ、その人の発している言葉が音声の連なり、先入観や判断がモヤモヤやイガイガの織物
であることも自覚している、見えているということです。
3次元に入り込んで、「私」が身体とか心とかパース宇宙の一部分になって体積を占めていると、
すぐに①から「現実(想定した客体)」への対処をはじめるので、②が自覚できません。
それどころか先入観や判断にも無自覚で、「私の意見は~」と主張しはじめるかもしれません。
というのは、3次元に入って3次元化した「私」になっていると、
「自分にこういう考え、判断が生じたのは、この人の話が発端だ」となって、
<客体(物質)-1次反応→物理感覚-2次反応→思考、感情、気分>という、
「あらゆる感覚は究極には客体(物質)への反応である」とみる構図に入り、
2次反応レベルの対処(我慢して聞き流す、相手の言動を分析する、など)、
1次反応レベルの対処(相手の言動が変わるように働きかける、対話を中断する、など)でしか
この場面を扱えないからです。
この<反応フローチャート>は非3次元だと川を逆行しているみたいでヘンなんですが、
3次元をやっていると、いちいち考えないくらい習慣化していて、違和感を感じません。
②は全部を「感覚という波」に還元してとらえた感覚(波動)力学図で、
これは「私」がただの一人称意識、統覚視点になっていないと認識できません。
これがわかると、イレギュラーな感覚であるモヤモヤやイガイガをゼロポイントフィールドに還して、
よりすっきりした状態に整えることができます。
その結果、相手の言動が変わったり、タイミングよく対話が終わったりするのですが、
主目的は感覚波動の復調であり、特定の結果の招来ではありません。

周りで起きている出来事とは関係なく、
わくわくする感覚があり、おもしろいという感覚や、驚きの感覚がある。
しあわせなのはしあわせになれることがあったからではなく、ただしあわせだから。
イレギュラーな感覚があれば、すぐに気づく。
これは3次元特有の思考回路である<反応フローチャート>に拠っておらず、
反応ととらえる癖が抜けている
ということです。
直感、直知も思考やイメージも五感の光景も感覚という波である、
というように、全部を感覚模様としてとらえられるとき、
象徴的にいえば「感覚模様が見える」とき、それらを感じている一人称意識が統覚視点です。
ただ、感覚模様はコース料理が運ばれてくるみたいに徐々に開くわけではなく、
全部重なっていて一瞬だし、言葉やイメージになるのはごくわずかなので、
実感的にいえば「ピントが合っていてすっきりしている」ということになるのでした。

本来の、本当の自分に戻るというのは、
使命や天職が見つかることではないし、
自在に幽体離脱できるとか、自在に他人や動植物や石の意識と入れ替わるとか、
その種の超常能力が開くということでもないし、
過去世や来世を知って悠久の自分サーガを描けることでもなければ、
封印してきたキャラクターが開花することでもないし、
平穏無事に暮らせるありがたさに気づくことでもありません。
認識が根本からまるごと全部変わってすっきりするということです。
3次元をやっていると、このすごさ、凄まじさはわかりません。
なぁんだそれだけかよがっかり、
結局気休めみたいなもんで、「現実」は変えられないんじゃん、みたいな。
3次元の「現実」とは物質(客体)であり、それは想定で、
しかも固有の法則があって突飛なことは起きないよ、めったなことじゃ変わらないよ、
と想定しているのだから、そのとおりになるわけで。

全感覚のピントが合ってすっきりしているのが通常になることを、
便宜上「ハイヤーセルフとして生きる」と言ってもいいと思います。
ただ、「生きる」は「感じて創造する(認識即創造)」の3次元訳だし、
「ハイヤーセルフ」は3次元に入って定着するときの角度、すなわちディセンション期の見かたです。
ハイヤーセルフとは高次の感覚の中心軸のことで、
高次、マインド、五感の中心軸が一貫している非3次元なら要は全部「セルフ」「自分」なので、
高次の中心軸だけを区別して別扱いにする必要はありません。
が、3次元に入って定着するときには、
マインドの感覚帯域に客体(物質)を想定し、
その物質でできた身体、身体にもとづく心という直轄領的なドメイン(生存領域)セルフを想定する
必要がありました。
そうしないと「現実(想定した物質)に阻まれる」「現実(同)に挑戦する」という
3次元の制限世界を体験できないからです。
脚本・演出家が俳優として舞台に出ているのに似ていますが、演劇とちがうのは、
この場合、俳優として舞台に出た「私」は、自分が脚本を書いて演出していることも、芝居であることも、
まったく忘れているという点です。
この状態のとき、「身体や心をもつ自分」とは別に「高次の自分」が存在するという観点になります。
さらに、3次元に慣れてドメインセルフがしっかりしてくると、
ハイヤーセルフは人格化したイメージでとらえられるようになります。
自分の分断、高次の自分の切り離し、人格化は、
3次元に軟着陸するさいの管制塔をつくるようなものでした。
それと、今度は3次元を出て行くとき、統覚視点へのナビゲーターとして、ハイヤーセルフ氏は再登場します。
視点によっては(人によっては)キリストとかブッダとかが中継者になることもあります。
「ハイヤーセルフ」という観点は便利なので私も使っていますが、
本来は、五感の感じ手、マインドの感じ手も同一軸の一人称意識なので、区別はいりません。

ガイドスピリッツなどの何々存在(英語だとentity)というのも、ハイヤーセルフと同様、
3次元に入っていくときと出ていくとき、つまり移行期の観点です。
「分離した自分」から見ると人格を帯びているっぽい形をとって、
安全に着陸、離陸できるように誘導してくれるのですが、
じつは自作自演であり自己対話です。
「分離した自分」の輪郭がだんだん濃くなっていくディセンション期には、
言語などに象徴化されていない生の感覚を使って降りていく、
言い換えると高い波動を使って制限世界に入り、適応させていくので、
チャネリングしているという自覚は希薄です(憶えていないことが多い)。
3次元に入ってからでも、その何々存在という形にした高次感覚は消えてしまうわけではなく、
通信しなくなっただけなので、ときどき3次元の外に出て(意識を変性させて)通信を保てば、
3次元をプレイするのに役立つ情報をもらうことができます。
ただその場合、3次元をプレイしつづけることが前提なので、
一時的には奇蹟が起きても、客体(物質)による制限を超えることはできません。
3次元を出るときには、情報の内容は脱3次元を促す方向に変わります。
何にせよ本当は自分でやっていることですから、
チャネリングなどの「分離の時代のテクニック」を使わなくても支障はありません。
私の場合は、感覚のちがいが音色のちがいみたいにおもしろいので、
アルクトゥルス系、シリウス系の何々存在とか、名前を付けてフォルダ分けみたいなことを
していますが、本来は「私はこう感じた」というだけでOKなので、
こういうオカルトめいた仕掛けをまったく使わず、
非3次元化みたいな言葉すら使わず非3次元化するのもありと思います。
  1. 2020/11/08(日) 14:37:16|
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3次元に入る(ディセンション)「向き」だと3次元返りする

2020.10.18(日)

セルジィ@金星とのチャネリング対談の記事です。
前半は「自己批判が発動するとき、その矛先はじつは自分ではない」という話、
後半は「関心の“向き”に着目すると、3次元に戻るという癖は抜けていく」という話です。
セルジィというentityは、私の宇宙では「3次元(地球)を経験し、4次元(エーテル媒質の
五感的感覚)」をへずに5次元(アストラル媒質の五感的感覚)に上がった存在」、
一般的な表現をすると「故人」です。
金星とは、私の宇宙では「数学的秩序(延いては調和、美)の創造」を象徴する感覚(周波数)
のことです。

みけ 温かいとか柔らかいとかの物理感覚は直覚だけど、この感覚の向こうに「毛糸」と呼ばれている
物質があるのか、ないのか、自分の物理感覚を介さずにたしかめられる人はいないから、
物質が「ある」にしても「ない」にしても、どちらも思考上の想定だ、
で、「ある」と想定したのが3次元世界で、「ない」と想定すると非3次元世界、
「ある」という想定でこれだけリアルな世界が感じられるんだったら、
「ない」と想定すれば今度は「ない」なりの、「ある」とは別のリアルな世界が感じられるはず、
というわけで、私は「ない」を選んだ(コミットメント)んだけど、
じつは物質というのは、「何らかの感覚には、その原因となる客体Xがある」と想定したときの
客体Xの一種だから、Xは神でも霊でもエネルギーでも同じなんだよね。
私にとっては物質がフィクションとしていちばんリアリティがあるから「X=物質」だけど。
セルジィ そうね。何かヤなことがあったとき、
物質でできた環境のせいだと考えても、霊の仕業とか神様の罰だと考えても、構造は同じ。
客体Xが動いて、その動きに反応して物理感覚が起き(一次反応)、物理感覚に反応して
思考や感情とかのマインドが動く(二次反応)っていう。
3次元って、ざっくり要約すると「自分ではどうにもならないことがある」っていう世界なのね。
そのどうにもならないことってのが客体固有の法則。物理法則とか、神や霊に関する法則とか。
自分の意思とは別に、独立したルールがある。
客体側のルールは変えられないから、こっちでルールを探って、適応していくしかないの。
みけ 客体Xを想定するってことは、「認識=創造あるいは存在」を「認識≠創造あるいは存在」
に分断する、感じていることと、感じている対象を別ものとして分離することでしょ。
で、対象は感じ手とは関係ない、それ固有の原理や法則で動いていることにする。
だから「どうにもならない、変えられない」ってなるんだよね。
でも、客体Xを想定しなければ、客体固有の法則もないわけだから、
自分の感じかたを変えれば変えられることになる。
セルジィ そこなんですけどね。
それを「全部、自分の責任なんだ」ってとらえる人っているでしょ。
みけ 物質はマインドで想定した客体Xだから、いわば「心の産物」だけど、
客体を想定するってことは「客観的に実在します」と規定するわけだから、
いったん想定すると、物質は物理感覚の向こうにしっかり存在することになって、
それがすごくリアルになるんだよね。
物理感覚の向こうにあることになっているから、それは「外側」と言われてます。
で、何か嫌なことが起きたときに、物質に原因があるんじゃない、「外側のせいにしない」
ってことは、「すべて自分のせいだ」ってこと?
それってなんか、おかしくない?
「誰それの、何々のせい」っていう責任追及発想がおかしい気がするんだけど。
便宜上「外側のせいにしない」と考えたとしても、
そこから「誰のせいでも何のせいでもない」に飛ぶのが非3次元じゃない?
セルジィ うん。
責任追及しているってことは原因を追究しているってことで、
「何らかの感覚の向こうに、その原因となる客体Xがある」ことが前提の発想だから、
もうその時点で客体Xが想定されていて、3次元にいるわけよ。
だから、そのときの「自分」は、身体という物質(客体)であり、
身体にもとづく心であり、っていう3次元の「自分」なんだよね。
要は、人のせいにしても物のせいにしても社会のせいにしても自分のせいにしても、
全部それ外側なのよ。
どれも最後には想定した物質(客体)にたどりつくんだから。
自分のせいにするのは人や物や社会のせいにするのといっしょ。
あたしがそこにこだわるのは、3次元をやってたとき(地球人だったとき)、
すごく自己否定的で、自分へのダメ出しが多かったからなんですけど。

みけ 自分というのは、身体(物質)のことでも、身体にもとづく心のことでもなく、
心でつくったドメイン(外との境界線)としての自意識のことでもなく、
感覚を感じている一人称意識のことなんだよね。
五感にしても、思考や感情や気分にしても、高次の感覚にしても、どんな感覚であれ、
そういういろんな感覚を感じ創りだして、五感模様とか心模様とかの像にまとめている視点。
その統覚視点っていう立ち位置というか、点感あるいは軸感がわかって、慣れてくると、
嫌な出来事、ネガティブな感覚は、模様の異変、ただのヘンな模様だとわかるようになる。
セルジィ そう。たとえば絵だったら、赤を塗るはずのところに青が混じってるとか、
筆致がちがう箇所があって、自分の描いた絵じゃないみたいになってるとか。
みけ ヘンになるのは、物質(客体)というヨソ者の視点を使って、そっちにブレてるからで、
このときすでに自分の視点じゃない別の視点が混入してるけど、
自分の視点はキープされていて、物質(客体)の視点に乗り換えてはいない。
セルジィ 3次元ゲームの画面は立ち上がったけど、
プレイする気がないから入り込んでないんだよね。リアリティがない。
ヘンな模様に違和感を感じられるのは、統覚視点がキープされてるからです。
みけ けど、そのヘンな模様を「つらい」「しんどい」って感じたときには、
もう注意のアンテナの向きが、つらい原因を探して対処する方向に向いている。
これは、統覚視点が物質製の自分と入れ替わったってことで、
五感もマインドも物質(客体)への反応に差し替わってます、瞬時に。
そんな一瞬で3次元返りできるのは、3次元の実体が思考だからで、
物質が実在してたら、そんな瞬速で変われない。
で、自分が「身体と身体にもとづく心」っていうハコになると、
ハコの素材である物質(客体)にすごい実在感、リアリティがあって、
絶対こっち(物質)で何か起きたからつらい状況になってるんだ、っていう、
物質(原因)→物理感覚(一次反応)→マインドの感覚(思考や感情などの二次反応)、
この矢印の「向き」になる。
原因を特定しようとしているつもりはなくても、習慣的に「向き」が変わってます。
逆に、この感覚はヘンだっていう違和感は消えるんだよね。
つらさ、しんどさは、まさに物質製の自分の感覚で、この意味で自分とズレてないから。
だから、つらさ、しんどさをゼロポイントフィールドに還すんだったら、
いったん統覚視点まで下がって、ヘンな模様に戻す必要がある。
セルジィ 自分はゲームの登場人物じゃなく画面の前にいるって、我に返らないと。
ゲームの登場人物に「閉じる」ボタンは押せないんだから。
「つらい」「しんどい」って感じた時点で何かポジティブに切り換える工夫をしても、
それは3次元をつくってるシステムのなかで動かしてるだけだから、
そのときの対処が上手くなるだけで、
ヨソ者(客体)のルールに左右されるっていう問題作出パタンは残っちゃう。
「自分の感じかたを変える」って、3次元の自分を動かしたり訓練したりすることじゃなく、
3次元の自分定義も含めてマインドから3次元をはずすことです。
そうすると、マインドの感覚(周波数)に合った五感が感じられる、実現するっていう、
ゾーンとかフロー(マイルドなゾーン)みたいな状態が当たり前になる。

みけ 物質は「感覚の向こうに、それ自身の法則で動く客体がある」という考えかたをしたときの
思考上の想定で、物質が連続的に広がるとか変化するってのも想定だけど、
そういう3次元世界を出力している思考のフレームがわかっても、
このフレームを使っていろんなことを思ったり感じたりするのって癖になってるから、
はっと気がついたときには3次元ゲームの登場人物になって一喜一憂している、
ということが起きがちなんだけど。
ヘンな模様だっていう感覚の違和感が反応に、
統覚視点が物質製の自分に、
瞬時に3次元返りしちゃうってのはそういうことで。
物質が想定だとわかっていても、物質を気にかける、関心がそっち方向に向くっていう、
この「向き」が癖になってる。
なので私は、しばらく前から、しょっちゅう統覚視点に下がるようにしてます。
前は、一日二回くらい統覚視点に下がるワークをして、
3次元をやってると気がついたらゼロポに還し、みたいな感じだったけど、
最近は数倍速で下がれるようになったから、
頻々と立ち位置をチェックして、ズレてたら即、下がる。
セルジィ スポーツのフォームを直すとか、姿勢を直すとか、そういうのと同じ、
そこだけは練習の世界だね。
っていっても、統覚視点でいたほうが断然心地いいはずなんだけど。
みけ それはもう全然ちがう。リラックス度合がハンパないよ。
3次元にズレた自分から統覚視点に下がると、
寒い外から暖かい自宅に帰ったときみたいにユルむ。「ただいま~」みたいな。
セルジィ 3次元をつくるフレームを使うのが習慣になる、癖になるのって、
3次元に入るときは理屈を使ってないからなのよ。
母語を覚えるときに、文法とか習わないし、意識しないじゃん、それといっしょで、
風向きとか気温の変化みたいなのを読みつつ、ああする、こうするって習得していくわけ。
思考のフレームがどうとかってのも考えてない。以心伝心、テレバシーの世界。
で、いつのまにか五感的な感覚は物質を想定した物理感覚になり、
「私」という一人称意識には身体と身体にもとづく心という輪郭ができている。
3次元をつくってるフレームが言葉やイメージになるような形で浮上してきて、
しくみが見えるのって、3次元から出て行くときなの。
別の言語(非3次元の喩え)と比較対照すると母語の特徴や文法がわかるみたいに。
みけ でも母語で考える癖はなかなか抜けないから、そこんとこで練習が必要だと。
セルジィ しょっちゅう統覚視点に下がって、そこで感じられる感覚模様を使っていくのは、
新たに学習した言語をどんどん使って慣れていくようなものだよね。
ただ、本当は「新たに学習」じゃなくて、母語以前に知ってた感覚言語を使うってことだけど。
3次元から出るときは、3次元に入るときとは逆に、
3次元の言葉やイメージを手がかりにしながら、既成概念に固まる前の感覚に戻していくの。
既成概念っていうのは、想定した物質(客体)に帰着する「向き」だから、
そっちを向かないで、反対に統覚視点までバックしてヘンな模様に戻して手放していく、
と、既成概念に固まる前の、「生活」や「人生」でガチガチになる前の感覚が戻ってくる。
たとえば「重たい」「軽い」「速い」「上がる」「回る」っていうような、
言葉や絵に収めきれないようなマインドの感覚を使えるようになる。
言葉や絵にする必要があれば、それにふさわしい音や形と結びつくし。
3次元で超常現象だ超能力だっていわれてることって、
自由なマインド感覚が五感を呼び起こして、3次元のルールからはずれた結果が出たときのことで、
そんなの別に超じゃないって。
  1. 2020/10/18(日) 16:08:36|
  2. 次元上昇
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3次元を感じさせる「模様」をフルスルーする

2020.9.17(木)

今回はソフィア@シリウスとのチャネリング対話です。

みけ 私の周りには、言葉になった3次元の考えが、あれこれと飛び交っているんですが。
ソフィア どんな?
みけ 「誰それがこういうことをしたからフォローがたいへんで疲れた(ネガティブ)」とか、
「自分がこういうミスをしてしまって焦った(ネガティブ)」とか
「お金が振り込まれたから、いついつの支払いに間に合う(ポジティブ)」とか、
ネガティブな話にせよポジティブな話にせよ、
「これこれの原因のせいで、またはそのおかげでこうなった」っていうパタンの言葉。
諸々の原因は「いろんな物理感覚の向こうに物質がある」という想定を前提にしているから、
あきらかに3次元の発想です。
「(外側すなわち想定された物質世界に)こういう原因があってこうなった」式の考えは、
3次元をやってないと出てこないんだよね。
ソフィア そうだね。それで?
みけ リアルな環境にしてもネットとかのメディアにしても、
私がそういう3次元発想のフレーズをキャッチしているのは、私もまだ3次元をやってるからでしょうか?
ソフィア あなたの受けとめかたによる。 
摩擦も葛藤も起こさず、ただBGMのように通過させられるのであれば、あなたは非3次元にいる。
宇宙には、さまざまな感覚(周波数)があって、
そのなかには思いや音といった形になっているものもあるから、
3次元の構造を感じさせるような感覚(周波数)をとらえても、まったくおかしくありません。
風景をよぎる模様のようなものです。
みけ 壁の柄とか、乗り物の音のようなもの?
ソフィア そう。奇妙な模様だな、と感じても、「模様」程度の具体化で終わり、
その模様はゼロポイントフィールドに還ります。
しかし、反発とか、抵抗とか、何か応答しないといけないという義務感などが生じたら、
それはBGMや模様を嫌な音、嫌な柄として、
「自分に合わない感覚(周波数)」としてとらえたということで、
そこで統覚視点とズレて3次元をクローズアップしはじめています。
それに気がついて統覚視点まで後退し、合わない感覚(周波数)をゼロポに還せば、
とくにどうということはありません。
でも、反発や抵抗にしたがってマインドのおしゃべりをはじめたり、
義務感にしたがって言葉を発したり何かの行為をしたりしたら、3次元に着地します。
順を追って説明しようか。
①3次元を感じさせる感覚(周波数)がBGMや模様のように通過していく。
これは3次元ではない、すなわち非3次元の感覚(周波数)です。
②反発や抵抗や義務感などとして「自分に合わない感覚(周波数)」を感じる。
これは①の感覚が背景から突出して、
自分の宇宙にそぐわない感覚(周波数)によって全体がアンコヒーレントになった
(整っていない)状態ですが、
3次元世界はまだラフな概観としてとらえており、
異国の風俗習慣を画像や動画で見ているようなものなので、
3次元を立ち上げる客体‐空間‐時間思考システムは、まだ起動していません。
「原因、理由はよくわからないけど、何かイヤな感じがする」という段階。
③②にしたがって心のなかで、もしくは実際に言葉を発したり、行動したり、敢えて無視したりする。
このときは、発信源の言動の向こうに相手の身体や主観や個人史があると想定しており、
「自分に合わない感覚(周波数)」に実体をもたせていることになりますから、
客体‐空間‐時間思考システムを起動させて、完全に3次元世界に入っています。
何か言ったり行ったり無視したりしたときはすでに3次元をやっていますから、
一連の自分の言動は実体(物質をベースとする現実)への反応ととらえられ、
「私はこれこれの出来事に対してこのように反応した」という状況ができあがっています。
みけ 要は「自分に合わない感覚(周波数)」の先に踏み込んだら3次元に入るということね。
想定した客体(物質)とのキャッチボールがはじまってるから。
ソフィア そう。もちろん反応してしまったらもうおしまいということではなくて、
3次元をやっていると気がついた時点で、そこから「私」を統覚視点まで引いて、
非3次元に戻ることができます。
みけ 心のなかでキャッチボールをやってる場合、
相手は実際に会って知っている人だけじゃなく、面識はなくメディアでだけ見聞きしている人、
憶えてはいるけどたぶん会うことはない誰か、過去の自分など、いろいろです。
私は、退屈を紛らすためにキャッチボールをやってるのかもしれない、
マインドのおしゃべりが止まないのはエネルギーを持て余しているからで、
やることがいっぱいあって忙しければそんなヒマはないんじゃないか、
と思ったこともあるけど、関係ないですね。
忙しくてもマインドのおしゃべりは止まらないし、
それすらできないくらい疲れていると、何か癒しや休息が必要になってしまう。
ソフィア マインドのおしゃべりすらできないほど疲れていても、
気力、体力が回復したら再開するんだから、何も変わらないんじゃないの?
マインドで想定した客体(物質)に反応する、応答するというのは、
外側(想定した客体)に働きかけて、
これを客体化(身体化)した「私」に都合のいいように変えていこうとする方向の動きであり、
この方向、向きが不要なんですよ。わかりますか?
みけ 風車に向かっていくドン・キホーテみたいに、
外側(想定した客体)に原因を求めて解決しようとする。
そうするのは「客体(物質)が本当の現実。すべては客体(物質)固有の法則で決まる」
という形で、外側(想定した客体)に創造権を委ねているからで、
創造権が統覚視点の「私」にあるんだったら、外側(客体)に対するという向きはいらないと。
ソフィア 退屈というのは、外側(想定された客体)に働きかけ先、反応先を探している状態です。
働きかけ先、反応先があれば、外側(想定された客体)を改善できる、
あるいは外側(想定された客体)に改善を要求できる、
もしくは外側(想定された客体)とやりとりするというゲームを続行できる、という希望が持てる。
忙しくするというのは、対処の矛先が、心のなかで展開する出来事、心のなかに登場する人物から
物理感覚(用事、作業)に入れ替わるだけで、
外側(想定された客体)に働きかけるという構造自体は同じです。
そして外側(想定された客体)が圧倒的に優位と見え、
客体化(身体化)した「私」がむしろ外側(想定された客体)に振り回されているときには、
五分五分になるまで休息したり、何か手当が必要になるわけです。
いずれにしても外側(想定された客体)に向かうという向きは同じ。
客体(物質)が想定であると気づいて、そこへ向かうという習慣が終わって、
はじめてマインドのおしゃべりという乱反射は止まる。
反応先が存在しなければ反応も起きないのだから。
ところで、自分に創造権がある非3次元は退屈ですか?
みけ 全然。むしろ、けっこう忙しいかも(笑)。
非3次元の(客体‐空間‐時間思考から自由になった)マインドってすごくって、
封印されてた高次の感覚がばんばんマインドの感覚に変換、翻訳されてくるんです。
翻訳といっても、言葉にはならず、色彩みたいな感じや響きだけのものが多いです。
それが、古代の文献をいっぱい翻訳してたルネッサンスさながらって感じで。
むろんその一部は五感的な感覚に連動するんですが、
五感的な感覚って、いわば一流の奏者の集団だから、
「私」を指揮者だとすると、あれこれ口を出さなくても、ちょちょっと合図をするだけでいいんですよ。
むしろ手取り足取り、細かいことをつべこべ言うと、
ヘタヘタ奏者の物理感覚になっちゃう(3次元に戻ってしまう)。
いちばん具体的だという意味で五感的感覚を「現実」と呼ぶとすると、
「現実はどうでもいい」という感覚は、
無関心ということではなく、何が起きても従容として受け入れられるということでもなく、
「どうにでもなるからどうでもいい」んです。
指揮者なんていなくてもいいんじゃないの、っていうくらい、一流なんだから。
それか、金のエンゼルが出ると確定してるチョコボールを買うとか、
当たると知ってて宝クジを買うみたいなものだから。
  1. 2020/09/17(木) 18:31:31|
  2. 次元上昇
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プロフィール

みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、
イタリアの美少年のような豹専務(♀)が同居人。
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