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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

「現在」を時間ではなく場所ととらえる

2023.5.30(火)

マイスタージンガー、さまよえるオランダ人、ローエングリン。
ワーグナーの歌劇の前奏曲、序曲で癒される。意外。高揚することはあっても癒されるってありえなかったのに。
ワルキューレの騎行でも癒されるのかなぁ。試してみようかしら。
駆け上がり駆け下り疾走する弦楽器、鳴り響き、歌う管楽器、空に呪文を刻む打楽器。
私の宇宙の芯、本質はこれだと感じる。
視点が芯から逸れると頭のなかでつくりだされ、ともすると膨張していく、日常劇場のゴタゴタではなく。

近況はけっこうゴタゴタしている。ていうかハゲしくなった。
つまり、五感の向こうに何か(物質)があって、これ(物質)が全現象を決定すると想定した3次元の視角から見ると、
私の視界には石がごろごろある曲がりくねった上り坂の道とか、湿地帯とか、霧とかが見える。
ややキツめに設定された登山道みたいな感じ。
でも3次元の視角をとらなければ快活、爽やか、軽やかで、すっきりしている。
3次元の視覚から見たほうの景色にはリアリティがない。ぼんやり憶えている一週間前の夢のよう。

どっちを選ぶか?
息を切らし、汗をかいて、堂々巡りや仕切り直しもある険しい道を進む?
それとも、いきなり山頂、どこに居ようと常に山頂みたいなほう?
どっちを選んでもいいので、私はいきなり山頂コースにした。新鮮だから。
頭のなかでつくりあげたんだけどそうとは気づいていない「現実」に直面してそれと格闘して、努力してがんばって、
というのが常道だったので、ちがう登攀ルートを試してみたい。
といっても、私が百パーセント宇宙人返りしてしまえばいきなり山頂コースが常道で、努力コースが新鮮なんだけどね。

ゴロゴロした険しい道とエア(air)な道、こうもはっきり軽重が分かれる、ということは、
頭のなか(マインド)が現在からはみ出て三十分前や三年後に彷徨い出ていれば、すぐ気づけるということだ。
たとえば、あるテーマについてネットで検索したり、図書館でそのテーマに特化した雑誌を探すとする。
これが非3次元の、波動(感覚)の調ったエアな道にいるときの行為、直感に促されての行為なら、
やっていることもタイミングも最適だから、まったく労せずすんでしまう。どころか「おもしろかった」となる。
しかし、ああだこうだと悩んだり、前のめりに準備をはじめたり、複雑な3次元の方向に踏み出しかけていて、
行動強迫に駆られてやっていることだと、情報の精度に確信が持てず不安になったり、
マインドも五感も重たくなって消耗したり、なのに疲れるわりに捗らなかったりする。
同じことをやってるかに見えても、同じではないんです。
なので、思い(思覚)、感情(情覚)、気分(気覚)といったマインドの感覚がワヤワヤ複雑になりかけたら、
それは五感の向こうに想定した物質が過去から未来へと生成変化していく3次元ワールドに踏み出しかけた証拠、
つまりあと(過去)先(未来)を前提に複雑な思念工作をやりだしている証拠。
それに気づくと、フッと「現在」(非3次元の立ち位置)に戻れるので、
その立ち位置からサッとワヤワヤ感を手放します。
非3次元には「現在」しかありません。

で、つい先だってヒラめいたんですが、「現在」って、
 ゼロポイントフィールド
     ↓
 「自分(私)」という一人称の認識装置ができる
     ↓
 「自分(私)」を使って開く世界α(心を超えた高次の世界)
     ↓
 αが具体的になった世界a(マインド、心の世界)
     ↓
 aがさらに具体的になった世界A(五感の世界)
というふうに全感覚(波動)が調っているときの、いちばん下の五感の世界の別名
なんですよ。
関野あやこさん用語でいうところの「ニコちゃんの場所」ってやつ。
「現在」って、一般的には時間をさす言葉なんですが、場所のイメージでとらえたほうがわかりやすい。
場所といっても、時間とセットになった空間、ここからあそこへと連続的に広がっている空間ではなくて、
どこかにポッとそういう場所がある、
すべてが心地よく流れている場所があって、フッとジャンプするとそこに行ける、「どこでもドア」の向こう側、みたいな。

精神世界ではよく「今ここに居る」この大切さが説かれるので、
むかし私は「現在」はいつなのか、とか、
ここで起きていることはそれを意識した時点で過去(直近の過去、現在完了)だとすると、
そこからどうやって記憶が生成されるのか、とか、
レポート用紙十四、五枚分くらいのメモを作成して考え抜いたり、
いろんな作業の動作を意識的にゆっくりにし、丁寧に行うと心がけたり、
作業中に丹田に軽く注意を向けたり、
いろいろと思索、実験しました。
結果、「今」も「ここ」も捕まえられず、「今ここ」がどうのこうのといった類の教説も腑に落ちず、
ウヤムヤなまま、思索も実験も中断してしまいました。

今にして思えば、あのときの、どうも「今ここ」なんてものはないんじゃないか、という予感は、
それなりに当たりでした。
五感の向こうに実体(物質)を想定し、
五感を物質(身体)の物質(環境)に対する反応(知覚)だと定義したときに立ち上がってくる3次元世界では、
物質がここからあそこへと徐々に広がっており、だんだん変化していく、ということだけが確実です。
ベルトコンベヤが流れているみたいなもので。
この広がったり変化したりしている物質には時間も空間もなく、したがって「今ここ」もありません。
物質の広がりや奥行きを「空間」、変化を「時間」ととらえる、そしてどちらも連続的だと考えるのは、
物質(身体)の物質(環境)に対する反応に由来する概念、つまり人間の認識の都合からできた概念であって、
物質はそれ固有の原理、法則にしたがってただ存在し、変化していっているだけ。
なので、いくら目を凝らして見ても、「今」も「ここ」も見つかりません。
いわば時間も空間も、人間が(物質の動きを追うために)かけている眼鏡の機能のひとつなので、
最初に実体(物質)を想定するというこの3次元の世界観にとどまる限り、
「今」も「ここ」も眼鏡の機能が働いた結果にすぎず、
昨日、今日、明日と流れていく生活を回していくための、日付や時刻のようなものさしでしかありません。

実際、物があって、物で構成された衣食住環境が究極の現実で、それらを整えるためのお金があって、
生活があって、五年十年単位くらいで漠然とイメージする人生があって、というリアリティのまま
「今ここ集中」をやろうとしてもうまくいかない、というか、
一瞬できた感じがするけど、たちまちグズグズになって元の木阿弥になります。私も何度も経験しました。
あと、力が入りすぎてくたびれたりとか。うまくいかないことで自分を責めだすとそこでまたこじれるし。
「物がある。物でできた世界に対処していく」という実感が強いまま「今ここ」に集中しようとしても、
習慣(潜在意識)は「まず物ありき」の3次元のままだから、そもそも「今ここ」に届かないのですよ。
実践としては、
そのとき取り組んでいる作業に集中して、頭のなかで次の予定などの関係ないことを考えないようにするだけなのですが、
3次元に慣れていると、思い(思覚)や感情(情覚)が過去や未来という思い(思覚)へ彷徨い出ていく癖がついているので、
集中を維持するのは至難です。
思考も感情も気分も、物質の動きを追いかけて散っていくのが当たり前、
散るほうが3次元のデフォルト(既定設定)なので。
時間や空間は、人間が思考や気持ちを過去へ、未来へと散らして、物質の動きを追いかけ、
物質世界にうまく対処していくための尺度です。

でも、統覚視点回帰ワークとか、統合ワークとか、その他いろんなやりかたで、
物質を想定し、物質を全現象の原因と考えて、その物質に対処する、という3次元を出ていく練習、
つまりマインドの癖を180度転換する練習をしていると、
あるとき、不意に「現在」という「場所」が腑に落ちる。
「現在」とは、てっぺんから足元まで波動(感覚)が調ったときの足元のことなんだ、とわかるわけ。
そうすると脱力し、リラックスし、すべてがすごくスムーズになります。
ちょどいいタイミングで考えが湧き、手や足が動き、口が開く。
自分(統覚意識)はそうした感覚模様の変化、流れを見守っているだけ。
3次元でいう「奇蹟」がふつうのこととして自然に起きるのは、「現在」という場所にいるときです。
過去(経緯、経験)や未来(経緯や経験にもとづく予測)で可能性を制限していないので、
制限範囲内だとありえない考えや、ありえない出来事が、ありえない自然さで湧いたり起きたりします。


最後にどうってことない小ネタをひとつ。
ついこないだ、パソコンの前でああだこうだと作文していたとき、
突如、「ホットカーペットをかたづける」という指令が来ました。
3次元時代の私なら「なぜ? 今じゃないでしょう」ととまどう場面ですが、
私の常識ではただのめんどくさい作業なのに、なぜかほんのりワクワク感すらあって、
作文を中断して取りかかったところ、ぱぱぱぱぱーと終わってしまい、休憩もなしに作文に戻りました。
とくにミラクルなことではないけど、個人的には「キツネにつままれた」に近い感じで不思議でした。
3次元視角で「生活」をやっていると、やらなくてはいけない仕事や用事が満載ですが、
タイミングが合っていれは用事感は全消します。場合によっては、やらなくてよくなることも。
「現在」という場所に居ると、その最適のタイミングがわかります。
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  1. 2023/05/30(火) 13:50:59|
  2. フィロソフィア(愛知)
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「誰でも死ぬ」は仮説のひとつ

2023.3.12(日)

昨秋ごろ、意識が途切れたあとは何もなかった、という臨死体験動画を二本見ました。
ひとりは交通事故で救急搬送された男性で、ぐるり四方「まっ白だった」、
もうひとりは突然の心臓発作で重体になった男性で、あたり一面「まっ暗だった」と。
白と黒のちがいはあっても、要するに何もなかった、走馬灯も光のトンネルも花畑もなかったということです。
ただ、まっ白やまっ暗を見ているというか認識している意識はあったとのこと。

おふたりとも生還されているので、どちらの話も、数ある臨死体験談話のひとつということになります。
臨死体験談は、生きて戻った人が自分の記憶にもとづいて臨死中のようすを語ったものなので、
死後の世界の存在やそのありさまを保証してはいません。
まっ白説とまっ暗説は、むしろ死後の世界がないことを裏づけていそうですが、
どちらも生還者によって語られた臨死体験談話ですから、死後の世界がないことを証明してはいません。
が、私には走馬灯や光のトンネルや花畑が出てくる話よりも本当らしく感じられました。
というかむしろ、まっ白ないしまっ暗のほうに今の(生前の)生活との地つづき感を感じます。

また記憶とは、再現前感をともなって想起されるイメージ情景などであり、
「かつてあった事実である」というリアリティは思考であって事実ではありません。
五感の景色は、そうした記憶情景と一致していないし、記憶情景を含んでもいませんから。
「かつてあった事実」は、五感の景色が過去から未来へと連続的に推移するとか、
前後の因果関係を前提条件として仮定したときだけ導き出せる見解です。
つまり、五感の向こうに五感のもとになる実体(物質)があって、その実体が連続的に広がり推移する、
と想定したときだけ、再現前感をともなうイメージ情景などが「事実」として再現前感なしのイメージ情景などとは区別され、
事物や他の談話などと照合される証拠構成もできるようになる。
五感の向こうに実体を想定した世界を私は3次元と呼んでいるので、
ある記憶が「事実」にもとづくか否かは、世界が3次元であるときだけ問題になるということです。
臨死体験の記憶が「事実」にもとづいているか? という疑問は、3次元でだけ成立する問いの立てかたです。
3次元の枠をはずしたときには、その談話にリアリティを感じるか? という問いかたになります。

死とは、活動していた他人や動物が動かなくなったり、植物が枯れたといった外観をさす言葉です。
活動停止は不可逆で、そのままにしておくと硬くなり、それから崩れて(腐敗して)いきます。
なので、人や伴侶動物の場合は埋めたり燃やしたりします。
いずれも他者を観察してわかるようすであり、
自分の動かなくなった姿、埋められたり燃やされたりするところなどは、自分で観察できません。
なので、他者の死に自分を重ね、「自分もやがてああなるのだな」と想像して、
自分も死ぬのだとか、人みな死ぬのだと思うわけです。
五感の向こうに実体(物質)を想定して3次元世界を立ち上げていると、
我も誰彼もみな物質(身体)で物理法則にしたがう、ということになるので、
上述のような他者との重ね合わせ想像が可能になります。
他者に起きたことに自分の未来を重ねようが重ねまいが、ともかく、死は他者の描写です。
自分が不可逆に動かなくなったところは、想像することはできても、観察はできません。
それどころか、私が人から聞いた限りでは、不可逆に動かなくなるはるか手前で観察できなくなるようです。
クルマがぶつかってきて、自分が空中に飛び、そこから先は憶えておらず、気がついたら病院のベッドに寝ていた、とか。
私の同居人の豹専務は、2021年夏、コロナワクチン接種後にくも膜下出血で入院しましたが、
彼女も、救急車に乗っていたときや(会話はできる状態だった)、手術の前後は憶えていないと言っていました。
手術の翌日には私にスマホで電話しているのですが、それも憶えていないとのこと。
手術後の記憶は病院のベッドで重湯を飲んでいるところからはじまっています。

他者が不可逆に動かなくなった状態(死)に自分やその他者以外の他者を重ねて想像することによって
「人は誰でも死ぬ」と一般化せず、
自分の観察視点から観察できるありさまだけが確実に把握できることだとして、そこに踏みとどまれば、
観察視点である自分は死にません。というか死ねません。
死が他者の状態を観察した結果であり、
自分が不可逆に動けなくなったところ(死)を観察できない以上、
自分は自分の死を体験できないことになるからです。
五感の向こうに実体(物質)を想定し、我も誰彼もみな物質(身体)で物理法則にしたがうことを大前提にして
情報を集めたり考えたりするのは、いちいち自覚しないくらい当たり前になっており、癖になっているので、
「自分は死なない」なんてアキレスと亀風味の詭弁と思えるかもしれませんが、
大前提をはずして、自分をただの視点に戻せば、実際そうです。
実際に起きていることは、観察できる五感の景色や思いがあれこれ去来している、それだけ。

死後の世界は存在するか? という問いを、
霊魂や、霊魂が行きつく別世界は存在するのか? という存在論ではなく、
死と呼ばれる状態に至ったあとも意識は保たれるのか? という認識論的な問いにすれば、
それほど荒唐無稽ではありません。
保たれるとすればどんな感じなのか。何かが見えたり聞こえたり、何かをさわったりするのか。
しかし死は不可逆に動かなくなった他者の外観を表す言葉ないし概念なので、
外に表れない意識が残るのかどうかはわかりません。
どころか、他者に意識があるのかどうかすら、本当はわかりません。
他者にも自分と同じような意識があると想像することはできますが。
この想像は、自分も他者も物質の法則にしたがう身体であり、同じ構造としくみをもった別々の個体である、
という3次元構想を前提に描かれます。
では自分の意識を問題にする場合はどうか。
3次元構想によらない自分は「死なない」ので、「死後」もありえません。
が、この意識が不可逆にぱったり途絶えることはあるか? と問うことはできるでしょう。
再現前感をともなって想起されるイメージ情景すなわち記憶によると、
①夢を見ないで眠っているときと、②もの心つく前は、意識がないときと考えられます。
この①②の記憶は、意識が不可逆にぱったり途絶えた状態がどんなものかを推測する材料になるかと思います。
しかし、①は目覚めとともに意識がはじまるので不可逆ではないし、
②については、もの心ついて以来ずっと意識がつづいているので、再体験することはありません。
しかも①も②も記憶情景なので、ぱったり途絶えた状態が①②のようなものなのかはわかりません。
そもそも「不可逆にぱったり途絶える」という場面設定自体が①②からの連想です。

結論。
他者の意識の有無はわからない。
仮にあるとしても、他者の死後(不可逆に動かなくなったあと)も意識が残るかどうかはわからない。
残るとすると、残った意識がどんな経験をするのかはわからないし、
残らないとすれば、それは自分の意識が不可逆に途絶えた状態と同じなのかどうか、それもわからない。
自分の意識があるときぱったりと不可逆に途絶えるかどうかはわからない。
途絶えることがないとすると、この意識がどうつづいていくのか、どこかで跳躍的な変化があるのかどうか、わからないし、
どこかで途絶えるとすると、それが記憶にある睡眠中やもの心つく以前の状態と似ているかそうでないかもわからない。

ただし、五感の向こうに実体(物質)を想定する3次元構想にしたがって「意識は物質(身体器官)から生じる」と考えれば、
他者についても自分についても、仮想した物質(身体)の身体としての不可逆的機能停止が死であり、
死を境に意識はなくなる(生体反応の停止イコール意識の消失)とすることができます。
つまり「誰しも死ぬ」「死んだら無感覚になる」と。
これは広く一般的に受け入れられている常識的な考えかたですが、
実体(物質)の想定にはじまって、実体(物質)固有の法則の想定、意識が実体(物質)に由来するという想定、と、
いくつもの「もし~なら」という想定で構築した仮説です。

「誰しも死ぬ」「死んだら無感覚になる」というあのおなじみの常識が仮説なら、
これ以外の答もすべて仮説です。

正解はわからないので。
この「わからない」は、自然科学が進歩していけばいずれわかるけど今はまだ未知というのではなく、
「五感の向こうに実体(物質)があるか、ないか」というのと同じように原理的にわからないのです。
実体(物質)の有無が原理的にわからないのは、
観測機器なども含め五感を介さずに実体(物質)の有無をたしかめることは誰にもできないからです。
死後の世界の有無すなわち死後の意識の継続の有無については、
死とは他者の様態をさすのであり、その他者の意識がたしかめられないこと、
自分の意識の推移もたしかめられないことにより、原理的に確認できません。

原理的にわからなくても、
「五感の向こうに実体(物質)がある」とか「意識は物質(身体器官)から生じる」といった想定はできる、
するとその想定にもとづいた世界が開いてくる、
だとすると、「実体(物質)はない」と想定することもできるし、
「誰しも死ぬ」「死んだら無感覚になる」以外の仮説も立てられることになります。

他者の活動の不可逆的停止(死)についても、
他者を統一体として観察することを可能にしていた何らかのしくみの統合が解けた状態で、
何かが消滅するわけではないのだから、「死」ではなく「解体」「解散」のような表現をしたほうがいい、
と考えることもできるでしょう。
「何らかのしくみ」はチャクラやスシュムナー管でも、経絡や経穴でも、
タンパク質などの有機化学成分や細菌やウイルスでもいい。
いずれも五感の世界ではなく、マインドの世界でつくられる概念です。
あるいは、他者に「誰々さん」という統一的意味を与えていたのは自分であり、
というか自分のマインドにあるキャラ像(さまざまなイメージの束)を誰々さんの外観に被せていたのであり、
誰々さんの活動の不可逆的停止を、そのキャラ像と外観との重なりが解けた状態とすることもできます。
または、単純に「私の世界像が変化した」とすることもできるでしょう。

あるとき、四方がまっ白になっていても、まっ暗になっていても、光のトンネルや花畑が見えても、
どれもありです。
一般常識でいう生死にかかわることに限らず、どんなことであれ、起きることはすべて自作自演で、
心で前提にしている想定図が、それに沿った五感世界として具体化します。

では、私の想定図はどうなっているのか。
私の宇宙では、自分の意識が不可逆に途絶える(死ぬ)ことはなく、したがって反対に生じる(生まれる)こともなく、
ホワイトアウトまたはブラックアウトをはさみながら、ずっとつづいていきます。

 ・・・自分(A) ―まっ白かまっ暗→ 自分(B) ―まっ白かまっ暗→ 自分(C)・・・という具合。

ただし、まっ白かまっ暗のあと、記憶という形をとるAのリアリティを整理するトランジット期間が入る場合もあります。
カッコ内のABCは、それぞれ別世界です。
たとえばBで教わる歴史は、AやCで教わる歴史とはちがいます。
Bで教わる徳川幕府は、Aでは織田幕府、Cでは幕府は存在せずスペインの植民地かもしれません。
物理学や数学、言語、生物のしくみ、人間以外の生物の種類なども、全然ちがうかもしれません。
しかし自分というこの意識は一貫して変わらず、何もしなければ周波数(感じかた)はそのままです。
「五感の向こうに実体(物質)がある」「意識は物質(身体)から生じる」「全現象は実体(物質)の法則で決まる」
「自分という意識は物質(身体)から生じるから、自分の運命を決定するのは究極には物質の法則である」
といった3次元の世界観のリアリティ、本当らしさが受け継がれていれば、
ABCそれぞれの世界で「私は、生まれて、成長して、老いて、死ぬ」と思い込んで「人生」を歩んでいきます。
人物の見た目や性別、境遇などは変わりますが、周波数(感じかた)が変わらなければ、
フェイドインした世界でも似たようなキャラクターを形成します。
コンテンツが変わっても同じプログラムで動いているという感じ。
一般的な輪廻転生説とちがうのは、
生まれた赤ん坊に魂が入るとか、個体(乳児)と自分(意識)が一対一で対応するのではなく、
自分という意識を中心とする世界ごと様変わりするという点です。
なので、私は「転生」ではなく「(3次元への)再接地」とか「(3次元への)再接続」と呼んでいます。
Bにフェイドインするとき、3次元でいうところのAの「事実」は記憶という形で引き継がれませんが、
それは3次元をつくる思考にはAの「人生」とBの「人生」がリンクするという発想がないためです。
しかし周波数(感じかた)というプログラムは引き継がれるので、これが変わらなければ、
Aで抱えている問題がAをやっている間にAの終わりだと思っている「死」で解消することはありません。
覚醒とか悟り、もしくはセルフアセンションと呼ばれているのは、
3次元世界を延々繰り返し開いていくというこのループを止めることです。

五感の向こうに実体(物質)はなく、五感も思いも感じること(認識)によってつくられる波紋絵なのだとわかり、
全現象を高次、マインド、五感の多層波紋絵(感覚模様)としてとらえる、
このとらえかたに実感がもてるようになって、実体(物質)を想定したほうにむしろ違和感を覚えるようになると、
ループは終わります。
すると、自分が認識し創造している多層世界(多次元あるいは汎次元宇宙)は、
次のような構成になります。

 ゼロポイントフィールド
     ↓
 「自分(私)」という一人称の認識装置ができる
     ↓
 「自分(私)」を使って開く世界α(心を超えた高次の世界)
     ↓
 αが具体的になった世界a(マインド、心の世界)
     ↓
 aがさらに具体的になった世界A(五感の世界)


ちなみにホワイトアウトまたはブラックアウトというのは、二番目の「自分という認識装置ができる」段階の意識状態です。
個別の宇宙がはじまるのはαからで、α、a、Aと下るにつれ、感覚がはっきりし、感覚像が具体的になっていきます。
α、a、Aの感覚像は波紋なので、αの波動はaに、aの波動はAに伝播する、つまり「引き寄せ」が働きます。
具体的な像に収束するとき、それ以外の他の選択可能性はなくなるので、創造のポテンシャルは下がります。
いちばん創造のポテンシャルが高いのはαで、このネタの泉は枯れることがありません。
なぜなら、Aが終わるとゼロポに還って、素材としてリサイクルされるからです。
億年、億光年単位の時空事業が終わっても、空中に次の企画書が出現します。
このように次元下降して全現象を感じるとともに創りだしていく「自分」は、全現象の認識者であり創造者です。

「自分」を軸とするこの宇宙で、Aやaの世界に現れて去っていく他者とは、
「自分」を軸とするこの宇宙にもともとある感覚(波動、周波数)の束を、形象化して表現した波紋像です。
つまり親しい人も嫌いな人も、伴侶動物も苦手な生き物も、現れる前から、そして去ったあとも、ずっとスピリットです。

「自分」がループする水平セルフ(「→」)から垂直セルフ(「↓」)になると、
部屋の景色だとか町のようすなどの表層は一見変わりませんが、
aの心の世界が劇的に変化します。
充溢しているとともに無窮に広大で、常に無限の選択肢が開かれており、根拠なくしあわせだったりワクワクしたりして、
ループ時代の自分には想像のつかない自由さがあります。
ループ時代のA、B、Cの鉄則だった「本当の現実は環境(物質)で決まる」とか「生まれて、成長して、老いて、死ぬ」
というのが、じつは手の込んだ、職人仕事的にクリテイティブな虚構だったということもわかります。
この虚構はaの心の世界でつくられるので、これがはずれることにより、aが一変するのです。
もっともループ時代には奇蹟とか不思議と感じられたことも、自然とか成り行きと感じられるようになるので、
「超」常現象とか「超」能力とか気に留めなくなります。

さて、これを書いている2023年現在、世の中にはさまざまな問題が湧出していますが、
今の「自分」がABCの「人生」のどれであれ、上手くサヴァイヴァルすることを目的にしていると、
ループから出ることはできません。といってべつに出なくてもいいのですが。
しかし何かの問題をきっかけにして、問題をaの心の世界で自作していることに気づけば、そこが出口になります。
  1. 2023/03/12(日) 14:54:36|
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それぞれの幸福について

2023.2.8(水)

約一年半遅れで、新型コロナワクチンのリスクについて書かれた本や記事をあれこれ読んだ。
このテーマの投稿が削除されないニコニコ動画もいくつか見た。
著者や投稿者は一部の医師、研究者、医療分野の仕事に携わっている人たちである。
リスクとは、致死率の低い感染症のワクチンを打って致死率の高い病気になってしまったら本末転倒といった類のリスク、
たとえば、体内に入ったmRNAがつくるスパイクタンパクが血管内を傷つけて血栓ができることから起きる脳卒中や心筋梗塞、
自分の免疫が自分の末梢神経を攻撃することで起きるギラン・バレー症候群などなどをさす。

2021年7月、同居人の豹専務がワクチン初回接種の8日後にくも膜下出血を起こして入院、手術に至った。
この出来事から、私個人にとっては、新型コロナワクチンが危険であることはあきらかだった。
私は、もとから新型コロナウイルス感染症は大騒ぎするような病気ではないと思っていたので接種しなかったのだが、
そのうえこのくも膜事件が起きたので、自分的にワクチンはハイリスク確定、接種する理由がまったくなくなった。
元気になった豹専務も、2回目は受けていない。

8日という日数は、当時としては関連性は「なし」に近い不明とされてもしかたない空気だったし、
当時の職場や身内への連絡など、さまざまな手つづきの流れ上、私からこの話を聞いた人たちは、
「それは気の毒でしたね」といった反応だった。
ワクチンでくも膜下出血のような病気が起きるリスクについて否定した人はおらず、
そういうこともあるかもしれないですね、怖いね、と言いつつ、その人たちは2回、3回と接種しているんだけど、
それは「自分にはそんなことは起きない」と信じられているからだと思う。
仮に、千人にひとりあるかないかのリスクだったら、危険性は0.1%、公衆衛生的な視点で見たら、たしかにリスクは低い。
だが、千人にひとりだろうと一万人にひとりだろうと、そのひとりに当たった人にとっては100%である。
逆に当たらなければ0%。
自分ごとといってよい範囲でリスクが実現した私としては、ワクチンは当然ハイリスクだった。
でもリスクのとらえかたは人それぞれであり、接種する、しないは個々人が決めることだと思っていた。
「集団免疫づくりに貢献するために接種しましょう」というのも、そのような協力態勢に誘導するのもおかしい。
この考えは、もっと致死率の高い感染症が流行していたとしても変わらない。
協力したい人はすればいいけど、私はしない。
もしワクチンを接種するとしても、それは自分の健康を考えてのことであり、集団免疫づくりのためではない。
ただ、豹専務に起きたような副作用について、マスメディアでの報道はほとんどなく、
政府筋も、ワクチン接種後に起きた脳血管系や循環器系の病気とワクチンとの関連性は「不明」なのだから、
気にすることはありません、打ちましょう、という論調なのは奇妙だと感じていた。
情報統制? なぜ?
ワクチンの重大リスク情報について、テレビやラジオでは報道されず、動画でもサイトによっては削除されてしまう、
ということは、何か引っかかりを感じて自分から文字情報を探したり、削除されないサイトで検索する人でないと、
受け身でいると安全ですだいじょうぶですという情報しか入ってこないということだ。

2021年の後半以降、時系列を追っていくと、
総じて資料の論調は、いくつかの重大なリスクが「考えられる」から「ある」に変わっていっている。
なかには「そもそも効果がない」「リスクがあるどころか有害」という意見もある。
これはワクチンが使用されて以後の学術研究や、衛生学系の調査が進んだからである。
それらの研究や調査の結果が、学問の世界に閉じられず、一般向けの解説に落とし込まれて公開されているのは、
自分が、もしくは家族や友人や同僚などが病気になった、という実例が数多くあるからである。
うわさではなく、身近で起きた実際の出来事として。
ワクチンを打ったあとで、実際に自分や、目の前にいる人の具合が悪くなって救急車で運ばれた、とか、
救急救命士や医師や看護師としてそういう患者さんの診療やケアに当たった、とか。
医療関係者自身がワクチン接種後に血管系や免疫系の病気になった、とか。
ともかく、重大な副作用というか有害事象の実例が相当数あって、豹専務に起きたことは特殊な例ではなかったのである。

このような現状で、私が総理大臣だったら、
遺伝子を使って体内で抗原をつくるタイプのワクチンは明確な安全性が確立するまで使用を止める。
次の選挙で大敗しようが、政治家として終わろうが、最悪どこぞの組織に消されたとしても、
歴史的薬害になるかもしれない薬害を放置するより断然賢明である。
しかし政府筋にワクチン政策を改める気配はない。謎。
思うに、そうしたくてもできない事情があるのだろう。
でなければ、情報統制といい、変更も後始末もなしのワクチン政策といい、不自然なまでの現状固守路線は不可解である。
推測できるいちばん単純な事情は、今回のように何千万とか億という人数に実施した政策のまちがいを認めると、
今後起きるかもしれない有害事象も含めて医療費等の補償や対策にかける費用が支払不能だということ、
さらに太平洋戦争の敗戦かそれを超える未曾有の国政不信を招きかねないということであろう。
大勢の人が、すでにワクチンを何回も接種したあとで
製薬会社の治験が続行中の状態で実施されたことや、深刻な病気を引き起こしかねないワクチンであったこと、
将来に起きる有害事象のリスクも不明であること、などを知らされるのだから。
私個人としては、信頼を回復するには事実にもとづいてできる限りの手を尽くすしかないと思うのだけど、
政府筋は「国民の大半のメンタルはそのような告知に耐えられるほど強くない」と思っているのかもしれない。
もし、これまでの政策を撤回してやり直したくてもできない事情がこれならば、
政府筋は、ワクチン関連の疑惑の一切が新型コロナ感染症自体のウヤムヤな終息とともに話題に上らなくなるように、
話題になるとしても有害事象を被った一部の(?)人たちの問題にとどまるように、
有り体に言えばできるだけ早く忘れて無関心になってくれるように、
という方向でメディアを誘導するだろう。
23年5月以降、年に1回接種できるようにするというワクチンも、成分をプラセボにすり替えて無害で無効なものとし、
これ以上有害事象が出ないようにして自らの安全説を正当化するとともに、
過去のワクチン後遺症患者を有志の医師や看護師に丸投げして、有害事象などなかったことにするかもしれない。
このように推測するのは、そんな細工でもしなければ、ワクチンを継続しながら有害事象が生じないようにすることは
できないからである。

もちろん、ワクチンを接種した人に健康被害などないほうがよい。
人体の広大な未知の部分が回収してくれたり、発症しないよう不活性にしてくれたりして、
医学や生化学などの学術分野で懸念されるほど大ごとにはならなかった、となるほうがよい。

次にそう単純でもない事情がある場合について。
その事情とは、仮に、人流の抑制もワクチンもなしの感染症対策をとっていたら、
製薬資本や、それを支えるグローバル資本が資金を引き上げてしまい、
財政が破綻し信用経済も崩壊しライフラインは途切れ、全国規模で戦後の焼け跡時代ふたたびとなって、
餓死者が続出する、というような事態に至る怖れがある場合である。
兵糧攻めに遭った城内のような惨状を呈するわけである。
だとすると、ワクチン推進策をとったほうが相対的にましという判断をしてもおかしくはない。
つまり、歴史的薬害になるかもしれない薬害を超えるリスクを抱えている場合である。
製薬資本やグローバル資本が云々というのはいわゆる陰謀論めいているけれど、
そのくらい突拍子もない前提でもないと、政府筋の政策の不自然さは理解できないということである。

その陰謀論の典型として、
ワクチンを製造している企業に資金供与したりして接種を推進しているビル&メリンダ・ゲイツ財団が、
人口削減計画のひとつとして新型コロナワクチンを推しているという説がある(注)。
あるいは、特定の個人や団体ではなく、グローバル企業や研究機関や国際機関を支えている巨大富豪、旧い王族などが
連合体を形成していて、彼らが人口削減計画や遺伝子改変実験を指図しているという説もある。
新型コロナ感染症自体が、そうした連合体のお手盛りだったという説もある。
注)『新型コロナワクチン 誰も言えなかった「真実」』鳥集徹(とりだまり・とおる)/宝島社新書/2021年11月24日発行から。
これは、医師、大学研究者にワクチンへの疑問についてインタビュー取材し、終章でこの時点での著者自身の見解を述べた本。
陰謀論の本ではないが、120~122ページではビル・ゲイツ氏を中心に据えた陰謀論について概説している。
ビル&メリンダ・ゲイツ財団とは、ビル・ゲイツ氏とその元妻のメリンダ氏が設立し、
WHOやさまざまな製薬会社に資金提供するなど、新型コロナ流行前から種々の感染症に対するワクチン開発、普及を支援してきた慈善団体。

そのような連合体が実在するかどうかはさておき、
地球とか人類といった規模に及ぶ計画なり事業なりが存在してもおかしくはないと、私は考える。
曾孫の代でも使い切れない、どころか複利計算で増えていくような財産をもっている人が、
次に夢想しそうなことは、その富を人類の幸福に活かすことだと思われるので。
貧困、戦争、災害、犯罪、病気、ブラックな労働、環境破壊、百年に満たない寿命といった破滅要因を一掃し、
健全で聡明な種となるべく、設計図(遺伝子)レベルから計画し、
国や企業のリーダーたち、さまざまな分野で傑出した才能をもつ人たちに働きかけ、教導すること。
人口削減計画があるとすれば、そのネオヒューマン創造計画のプロセスに含まれているものと思う。
実際80億人という数は地球に負担をかけすぎており、
他の惑星や宇宙空間に居住できるようになる前に環境がダウンしてしまう。
ネオヒューマンは、心身ともに健康で長命で賢明であるために、
脳はもちろん、体内の分子レベルに至るまで適切に管理、調整されなければならない。
これは古代帝国のような専制社会ではなく、20世紀のディストピアSF小説に描かれたようなハードな管理社会でもなく、
至れり尽くせりの福祉と、地球各地域の文化のちがいを活かすことも織り込んで創造性を育めるようにする、
といった、優しいホワイトマネジメントで実行される。
『サピエンス全史』(河出書房新社/2016年)を書いたユヴァル・ノア・ハラリ氏は、次作の『ホモ・デウス』で、
ビッグデータを管理統御するごく一部の神のごとき人と、管理される大多数の家畜のごとき人とに人類が二分される
未来図を提示した。
こういう構図が実現する流れにあるとすれば、デウス族の資力や手腕が超人的だからというよりは、
大多数の人が彼らの目論見に「同意する」とクリックしたりタップしたりしているからだろう。
力でグイグイ押したり脅したりする支配はそう長くはもたず、ときに暴動や反乱などの混乱も起きてコスパも悪い、
そんなことはとうに研究ずみのはず。
それに、そんなやりかたでは大切な家畜たちがストレスホルモンまみれになって、スキルが落ちてしまう。
最も優れた管理のありかたは、管理される側がそれに全然気づかず生活を楽しんでいられるようにすることである。

私は、「同意する」にクリックしたりタップしたりすることをまちがっているとか愚かだとかは思わない。
その人がそれで満足ならそうすればよいと思う。
ネオヒューマン創造計画のような構想を悪だとか怖ろしいとかも感じない。
もともとホモ・サピエンスは、神々の一員だった祖霊につながるわが一族とか、おらが村の長は半神人だとか、
ハラリ氏の言うところのそうした虚構、岸田秀氏や栗本慎一郎氏のワードなら共同幻想をインストールして結束し、
サヴァイヴに成功してきた。「人類」とか「地球」とかの概念は、その風呂敷が極大化しただけだ。
つまり少数のリーダーと多数のフォロワーという図式はホモ・サピの黎明期からあった。
遺伝子を改変するとか生命現象にテクノロジーを導入するとかいうのも、
スターシード(笑)の私には既視感ばりばりで、その類のことに倫理的抵抗はまったくない。
しかし「人類」とか「地球」とか群れ的な概念の枠に入ることには違和感があるので、ぼっちで行く。
  1. 2023/02/08(水) 16:02:25|
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闇が消える話

2022.10.10(月)

今年の秋分の日、指導教官(と私が呼んでいる人)と電話で話したあと、数分後くらいだったか、
私は、磁場というか縛りが消えてすっきりしたという体感的イメージを持ちました。
数秒後、「闇は消える」というやけに確信的な思念が言葉になって浮かんできました。
なぜ消えるのかというと、ちっともワクワクしないから。
それはそれとして、闇って何? この時点ではまだ茫漠としていてよくわかりませんでした。
よくわからないものが、よくわからないけど消えるらしい。
闇夜に闇雲に歩いて闇市に行き、買った材料で闇鍋。はて?

そういえば、夏から初秋にかけて、コンビニやスーパーや食品メーカーなど飲食関連業界の「闇」動画をよく見ていた。
内容云々よりも、動画に出てくるキャラクターがおもしろかったので。
容器をカサ増して容量を減らす、お客に見える部分だけたっぷりめに盛りつけておく、仕上げのさいに隙間をつくるなど、
あれこれセコいコスト節減の手口を紹介したもので、「闇」というほど大げさではない。
それとは別に、なりゆきから、大がかりな非合法活動がらみの「闇」について言及した本を図書館で借りて読んでいた。
ロシアや東アジア地域の地下組織、国内の反社組織、実態不明の宗教団体、元警察官、元政府関係者などなど、
こちらは国際的に大規模に展開するけれども、著者の人脈によって収集された談話が主な情報源であり、
ネタとして疑惑を広げようとすればどこまでも広がっていくが、真偽ははっきりしない。
取材する側される側、それぞれの思惑から、話が盛られたり憶測が混じったりしている部分もあるかと思う。
どちらにせよ、小さくても大きくても、闇は闇である。大小の闇に共通する特徴は、
法の主旨に背いても、
他人や他集団を出し抜いたり排除したりして、物資や物資を得る権利を手中にせんとすることだろう。
法の主旨に背くことは、あからさまな違法行為だけでなく、法の抜け穴をくぐる脱法行為も含んでいる。
そうまでして利益獲得に走る動機は、
ひとつには、有限なパイ(総利益)から自分の生存に役立てる分を少しでも多く獲得しようという生存欲求、
もうひとつには、獲得能力にすぐれていることを自他に示して評価を高めようとする自己承認欲求である。
ふたつをひとまとめにして自己保存欲求といってもいい。
ところで法の主旨に背かなければ、つまり公正な試験や競争によるのであれば、
他人や他集団を出し抜いたり排除することは認められている。闇ではなく光であるとされる。
ルールを設けて、むきだしの欲求充足行為に歯止めをかけ、可能な限りセーフティーネットを用意し、
できる限り共存をはかろうとするのが光の世界である。
光でも闇でも、資源が有限で人類全員には行き渡らないという見かたは共通しており、
生存欲求も承認欲求も、ふたつを併せた自己保存欲求は、それ自体は健全だと肯定されている。
闇というのは、過剰な欲求もしくは制御しきれない欲求に応えようとしてタガがはずれてしまった人や集団を
ひとくくりにした概念である。
つまり正直ありのままに奪えるものは奪うのが闇であり、全体の福利を考えて調整を加えるのが光である。

では、闇と光に共通する「資源は有限である」という前提が、絶対覆らない現実ではなく想定だったらどうなるのか。
空気、水、熱、食糧その他、諸々の資源がたしかに有限だとたしかめた人はいない。
有限だという前提で競争をはじめているから、考える暇もなく競争に投げ込まれているから、
その結果、獲得できる人とできない人が生じるのであり、両者の格差は資源が有限だと証明しているわけではない。
とすると、実際、想定なのである。有限なのか、あり余っているのか、事実は不明。
とすると、逆に「資源はあり余っている」と想定して、まったく別の脚本を書くこともできるということだ。

さらに、資源は有限と想定した世界で人を資源の獲得競争へと駆り立てる自己保存欲求が、
欲求するまでもなく与えられていると想定したらどうなるだろう。
すでに使い切れないほどのお金を持っている人が「お金が欲しい」とは思わないように、
すでにかなえられている自己保存を求めることはなくなる。
仮にあらゆる資源があり余っているとしても、生命が有限なら、自己保存欲求はなくならないと思える、が、
資源有限説と同様、寿命の終わりが自分の終わりだとたしかめた人もいないのだ。
ただ、他人や動物の身体が機能停止したのを見て、さらに火葬のあと残った骨を見たりして、
その人や動物が「いなくなった」、「自分もいずれそうなるのだ」と考えているだけである。
自分の世界にその人や動物の五感像がなく、その人や動物がいたという記憶が載っているのはたしかだが、
五感的な姿形がなくなるとともにその人や動物の意識も消えた、
ここに自分が居て、世界を感覚像として認識しているという「これ」も身体の機能停止とともに停止する、
などということは確認していない。
停止するのかしないのかは、そうなってみなければわからない。
とすれば、資源有限説と同様、
ここに自分が居て、世界を感覚像として認識しているという「これ」は不滅だという想定もできる。

資源を有限と考えるか、あり余っているとするか、
寿命が尽きたら自分は終わりと考えるか、終わらないとするか、
どちらを想定するかは個人の自由。
そんなことを言ったって、自分は資源があり余っているとか身体がなくなっても居つづけるとか想定したとしても、
世のなかの大勢の人が有限説支持だったら、やっぱりそっちが正しいし、世界は有限説に沿って動くと思える、
というのなら、
世のなかの大勢の人の想定が有効で、大勢の人の想定にしたがうと、自分が想定しているのである。

「あなたはUFO(の存在)を信じるか?」という類の質問があるが、
「私はUFOを信じていない」という人は、UFOが存在しないということを信じているのである。


ここで冒頭の闇の話に戻しますが、私が、
資源はあり余っていて、必要なとき必要なところに十分行き渡る、
常に自分は居て、自在である(資源あり余りを想定すると、自在であるために他者を害する必要はない)、
と想定すれば、
戦って他者を潰したり、ときに自己犠牲を演出して生存ゲームで負けるかわりに承認ゲームで勝つ、
というような闇の脚本ないしゲームは私にとってまったく魅力的でなくなる、ということです。
それをほどほどに抑えた光の脚本も。
もっともここでいう光は、自身が光であるために闇を必要とするような相対的な光ですけども。

闇も、闇とペアになった相対光も、私の個人的な実感世界で具体化する「感じ(波動)」なので、
何億何兆というお金が動いたり、
どこかのすごい地位の人のシークレットアカウントにひみつの通信を暗号化して送信する、というようなことはない。
集合住宅の理事会の派閥をどう解釈し、両派の中心人物とどのような距離感を保つべきか、とか、
自分の目論見を通すために、目論見実現の権限を握っている会社の意向に沿うか、それとも独力で実現させるか、
それぞれのメリットとデメリットを挙げて思案する、とか、
せいぜいその程度である。
個人的な闇が消えるとは、そうした個人的な案件において、裏を読んだり裏の裏を読んだりする必要がなくなり、
すっきりすることを意味する。
さらに個人的案件を倍数化したアストラル案件(メディア情報などにもとづいて想像上で膨らんでいく案件)においても、
闇と相対光の周波数と無縁になることによって、そうした案件とかかわらなくなることを意味する。
つまり、個人的な闇と相対光が消えることによって、あらゆる規模の闇と相対光が消失します。
そしてすっきりするというのは、直感が降りる通路を開けておく、直感とつながりやすくなるということです。

自分というこの一人称意識、世界を感覚像として認識しているという「これ」が、
ボヤボヤしていると衰滅するか潰されてしまうと仮定し、
自分の保存をはかることを前提とした闇と相対光の脚本から降りることは、
清く正しい善の世界に入るということではありません。それは闇とペアになっている相対的な光の世界。
闇と相対光のペアの脚本から降りるのはテレビのチャンネルを切り替えるようなもので、
いずれもチャンネル(想定)であることに変わりはないのですが、
闇と相対光との相克とはちがう別の番組、別の世界を開くということです。
  1. 2022/10/10(月) 14:11:37|
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星の光

2022.5.28(土)

私の住んでいるところは都会ではない、とはいえいくらかは東京都23区圏に近いせいか、自分の近眼のせいか、
五感空の星数が少ないな。満天の星なぞというものは、プラネタリウムやスライドでしか見たことないぞ。
プラネタリウムやスライドは、それなりに意義はあるのだろうけど、
星の光がリアルじゃないので、振動数が、響きが全然ちがうのだよ。
満天からはほど遠い、ひとつふたつの星でも、その光はわが琴線を震わせる ビィィィィンィィィン。

さて光が真空中を1年間に進む距離を光年という。
その距離、およそ9兆4600億km。
たとえば、シリウスから地球までの距離は8.6光年、つまり9.46兆km×8.6年=81兆3560億kmで、
光がこの距離を進むのに8.6年かかるから、
地球で見えているシリウス光は8.6年前の光である、という理屈である。
2022年元旦のシリウスの光は、2014年の7月くらいに放たれたもの、
2023年元旦に放たれたシリウス光が地球に届くのは、2031年の夏となる。

この伝でいくと、星がひとつふたつでも満天でも、
私が見ている星の光は、すべて過去に放たれた光ということになる。
億光年の彼方にある星の光なら、はるか億年のむかしの、
日中の太陽光でも、8分19秒前の光なんだそうだ。
空に瞬く星々の光が、惑星史、恒星史級の過去から届いたものであることや、
その奥深い過去の数々を現在の自分の眼差しが一覧にしてまとめていることに、
クラッとするようなロマンを感じる人もいるみたい。
というのは、『ソフィーの世界(上下)』(ヨースタイン・ゴルデル著)下巻の終盤「ビッグバン」の章にそういう記述があって、
お父さんからそのような話を聞かされた少女ヒルデはクラッ、ときているみたいだし、
人は夜空に過去の光を見ているという話に感動した的なエピソードをあちこちで聞いたり読んだりしているので。
しかし私は、ずいぶんむかしにはじめて聞かされたか読んだかしたときも、
この科学話に、たいして心動かされなかった。というか一抹の違和感を覚えた。
その違和感は、そのときは言葉にならなかったが、いま言葉にしてみるとこうなる。

恒星と自分との間には何億kmだか何兆kmだかの距離があって、
恒星の光を自分が知覚したときにはすでにx年たっている、という事実は、
知覚した光の向こうに実体として恒星があって、
核融合反応とかで放たれる光線が一定速度(光速。真空中で毎秒約30万km)で連続的に進むことを前提としている。
恒星は、ある時点に発せられた光が進んでいるうちに白色矮星とかブラックホールとかに変質するかもしれないが、
ともかく、スタート地点では核融合実行中の恒星として実在したのである。
しかし、光の向こうに実体として恒星があるか、またはあったかどうか、などということは、誰にも確認できない。
誰であれ、確認できるのは目でとらえた光とか、観測機器を使って測定した数値や軌跡であって、
それらは実体の存在を証明しているわけではない。
無根拠に実体があると想定して、実体があることを前提に、観測結果はこうこうだ、と報告されているにすぎない。

つまり、以前から私が書いているように、
見えたりさわれたりする感覚の向こうに実体があるのかどうかは、
誰しも自分の感覚や観測機器などを扱う自分の感覚を介さずに確認することはできない、
だから実体があるというのは想定であり、
想定である以上、逆に実体はないと想定することもできる。
それと同じ理屈で、何光年という星話も、星が実体として実在すると想定したうえでのフィクションといえる。

また、仮に実体の恒星があるとしても、空間の性質は一様ではなく、たとえば折り畳まれたり引き伸ばされたり
していたり、部分的に現在の知見では説明のつかない変質が起きているかもしれず、
その影響を受けて光の速度や方向も変わるかもしれず、
連続時空間前提の何光年とはいかないかもしれない。
光の直進を徒競走とすると、ただトラックを走るんじゃなく障害物競走かもしれないということである。
走者(光)の志気や体調も一定ではなく、突然スピードが変わるかもしれない。

むろん、実体があると考えて、観測結果を左右する要素(方向や速度等)をできる限り精密に測れば、
すごい数学やすごい理論を導き出すことができ、
高度な情報通信や、大きなエネルギーを動かすことを可能にする。
それを快適と感じ、進歩と思えるのは、
もう二十年くらい日本語を使っている人が日本語をいちばん使いやすい言語だと感じるのと同じように、
実体があると想定されて回っている世界にすでにいる人の感性であり、
実体ありにもとづく科学がなければわれわれは原始生活をつづけていただろう式の推考も、
そういう感性から発せられる思考である。
トイレが水洗で、乾燥機付洗濯機で洗濯できて、エアコンが使えて、インターネットも使える、あーよかった、
みたいなことではなく、そうした利器の類に依存しない素朴な生活に着地しようというのでもない。
実体はない、したがって実体の法則を調査探究する必要もない、
自分の感じたり想像したり直感したりすることがそのまま現実である、とする世界に居た場合、
たとえば、呼気と汗によって排泄されるのでトイレがいらない、一年じゅう半袖のTシャツと短パンですごせる、
したがって洗濯量もすごく少ない、テレパシー通信やアストラル検索が使える、といったように、
実体を統御する科学に向かうのではなく、実体と折り合いをつける方向を探るのでもない、
全然別角度の展開になっていたかもしれないのである。
むろん、トイレがどうのTシャツがどうのという例は、
気がついたら実体あり前提の世界にフェイドインしていた私の想像から出たものだから、
科学がなかったら原始生活だった説と似たような制約を被っているはずで、
可能性の広がりはそんな程度ではないだろう。
存在とか生命とか、根本的な定義から変わってくるのだから。

実体がないとする想定は、
当事者の意識(自分)に感じられる五感、浮かべられる思いや想像、直感される閃きが、
そのまま直感域、想像域、五感域の現実である、という世界に導く。この世界はアートである。
実体があるとする想定は、
その当事者の意識の発生源を実体に帰し、実体の性質や法則が現実を決定すると仮定して、
実体の性質や法則を探究、解明し、
意識の制約にかかわっている実体(身体)の維持や、
制約される実体(身体)の集まり(集団)の維持に役立てようとする。
解明された成果を個人や集団の維持に応用しようとするのは、
放っておくと、個人や集団は実体の推移に呑み込まれて衰滅してしまうからである。
だから、実体を想定することは、
ともに実体に制約される個人や集団が、実体からなる環境に対抗することを内包している。
この世界もまたアートである。
実体を想定することは、感じるままに創られるアートから、実体の絶対法則探究に乗り出すサイエンスに
切り替えることだけど、これも課題つきのアートといっていいと思う。
自然科学からロマンのかほりを払拭するのはむずかしい。
壁を押すと、壁が同じ力で押し返してくるとか、じっとしている物体にも位置エネルギーがあるとかさ、
なんか詭弁ぽくないですか。
こういう何々の法則みたいなのを全部クリアしているからこその水洗トイレであり洗濯機なんだろうけど。

話を星に戻す。
夜空に瞬く星々が、遠くに見える森や山のように小さいサイズで見えているのではなく、
過去に発せられた光だと聞かされたか読んだかしたとき、
「あそこに存在しているかに見える星は、じつは存在していない」という形で、
見えたりさわれたりするものは実体として存在するという私の既成概念は崩れ、一瞬、解放感を覚えた。
でも、自分の目に届くまでに何年もの時間がかかっているにせよ、
その光の彼方に遠近さまざまに燃える球体があるのだというオチで、かなりテンションが下がってしまった。
この伝でいくのなら、むしろ、
すぐ近くに見えるテーブルやら椅子やら壁やらだって、可視光線が作用して自分の目に届くまでに、
さらには脳で情報処理して認識されるまでに、ごくわずかであっても時間がかかっているのであり、
自分が見ているテーブルは過去のテーブルだということ、
光波や音波によらない触覚、嗅覚、味覚にしても、脳での情報処理時間をカウントすると、すべて過去情報であり、
世界(この場合、私が「3次元」と呼んでいる「実体あり」の世界)は過去像としてしか認識できない、ということのほうが、
個人的には戦慄である。
もっとも、ウロ覚えだけど、数年前に読んだ「意識」に関する本によると、
感覚器から情報が到達するよりほんのちょっと前に、なぜか脳は情報処理をはじめている、という話もあった。
これは3次元(実体ありの世界)のルールから逸脱しているという意味で謎。
オカルトを導入すると「クラウンチャクラがキャッチしてんじゃないの」みたいなことで終わっちゃうけど。

あと、想定した実体の状態は、ヒトの感覚器や脳を通した姿でしかない。
まなこ複眼で脳がない昆虫群(※)がとらえた実体像は、ヒトのそれとは全然ちがっているかもしれず、
ヒトは実体の重要な要素を多々とりこぼしているかもしれないのだ。
※佐伯健三・作詞、上野耕路・作曲「昆虫軍」より。ボーカルは戸川純。

いまここで見えている星はx年前の光だ、というのは、私にとって、
いま見ている動画がx年前にアップロードされたものだ、というのに似ている。
私にとっては、今まさに、このタイミングで遭遇したというのが重要で、
そこが千載一遇ポイントなんである。
でも、その星を燃える光球としてとらえる角度があるとしても、それはそれでOKと思う。
「角度がある」というのは、星の光の向こうに実体の星があるという3次元の考えかたを採用せず、
「光として見える世界」とは別に「燃える光球として見えるか感じられるかする世界」があるという、
非3次元(実体なし)を前提とした表現。
  1. 2022/05/28(土) 15:07:21|
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プロフィール

みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、イタリアの美少年のような豹専務(♀)が同居人。
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いただいたコメントはすべて拝読しておりますが、原則としてレスはつけません。

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