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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

沈黙

2020.8.14(金)

だんまりがマイブームです。
人と口をきかないという意味ではなく。
誰かと話していても、テレビやラジオの音声が聴こえていても、
今日は何日、暑いな、とか思っていても、郵便物の文字をざっと見ていても、
こうして文字を入力していても、
そういういろいろな感覚の下は沈黙している、とわかると、深くやすらぐ。
片方で見たり聞いたり動いたりしゃべったり考えたり、しながら、
もう片方では深々と黙っている。そんな感じ。
なお、見えたり聞こえたりしない思考や感情や気分も感覚であり、
それぞれ個性的な質感をもった「感じ」の動きです。
この沈黙がちょっと遠ざかって、感覚のほうにのめり込んでいると、
ひとつ作業が終わったり、考えに区切りがつくごとに、かなりエネルギー消費した感がある。
でも沈黙に気がついていると、そういう高燃費感がない。
自然体で立ったり座ったりしているときのように、重心や支点はしっかりキープされつつ、
適切に脱力できている。

この人の話、つまんないなぁ、興味ない、早く終わらないかな、と思っていても、
こういう感覚の下が黙っていると、
そのつまらなさが全然気にならず、フシギなほどくたびれない。
一方、わくわく、ウズウズした気分の下にも、沈黙はある。
これがわかっていると、完了図やカタルシスに向かって押されることがなく、
わくわく、ウズウズそのものを感覚(周波数)として感じる余裕があるので、
ゴールして虚脱する、ということがない。
全力疾走してまっ白な灰になるのをよしとする3次元(という観念の世界)標準だと、
50回できるスクワットを40回で止めておくみたいでもの足りないかもしれませんが、
高次もマインドも五感も、充溢して瑞々しくあるのが本来で、
実現するとか、結果に到達するというのは、「ついで」みたいな副産物にすぎません。

感覚の下にある沈黙とは何か。
何らかの感覚を感じて創りだすことで対象化したとき、
対象(=感覚)でない側が「私」という統覚視点になります。
これが感じ手、夢見手の「私」です。
あらかじめ「私」という人格が存在するわけではなくて、
何らかの感覚が生じたときに、「感覚ではない側」として、
認識し創造する「私」、感じ手、夢見手がセットで生じているのです。
このとき、「感覚ではない(=私)」という対象化作用は感じ手自身にも及び、
「“感覚ではない(=私)”ではない(≠私)」として、
感覚そのものに還っています。
で、どんな感覚も感じ手(私)なしには存在しえないので、
感じ手(私)が感覚そのものに還ることによっていなくなれば、感覚もなくなります。
このようにして、
①何らかの感覚が「私」が感じて創りだすことによって生じていながら、
②感じ手の「私」が消えることで感覚も消える、
ということが同時に起きているわけ。
①がインスピレーションとか思いとか五感として起きる像あるいは夢、
②が①の下あるいは裏側の沈黙です。

この構造は五感でもマインドでも高次でも同じで、
高次の感覚(周波数)は「私」という一人称の統覚形式の開始点と接しています。
この開始点では、
①「ゼロポでない側=私」としてゼロポを対象化することによってゼロポを認識して創造し、
②「“ゼロポではない(=私)”ではない(≠私)」としてゼロポに還っています。
なので、感覚の下に沈黙を感じるということは、
究極、ゼロポイントフィールドとつながっていて、
「私」という統覚形式が原型のまま正常に作動しているしるし
、と見ていいでしょう。
機械などが正常に作動しているときに点灯するランプみたいなものです。

「感覚に先んじてまず客体(物質)があり、それは固有の法則(物理法則など)で動く」
という観念にもとづいてできている3次元という観念世界でも、
自我ないし自意識というのは、
母子一体的な融合状態に何か違和感のある感覚が生じて外界ないし他者を認識したときに
生まれる、とされています。
つまり最初から自分という人格があるわけではなくて、
親の声とか姿、部屋の壁の触感などが、融合状態を破る異様な感覚としてとらえられたとき、
その感覚が外界ないし他者となり、そうでない側が自分になる。
このメカニズムは上述①と同じです。
ただし3次元では、
感覚に先立って物がある、感覚はそのあらかじめある物からの刺激によって生じる、
というのが前提なので、
いったん自意識が立ち上がると、
自意識という輪郭を生じさせた外界は物質に還元され、
つまり「これこれの物があり、こういう人がいる」という物ありきの見かたに固定され、
二度と渾然一体状態には戻りません。
あとは、親、兄弟姉妹、隣家の誰それ、自宅のどこそこ、道路、向かいの家・・・等々、
認識できる物や他者の数が増えることによって物世界が細分化し、
それらが関係をつくり、
他者の身体にもとづくその人の主観を想像するようになり、
と、複雑化していくだけ。
しかし、「~ではない側が私である」という自意識を成立させた構造は変わらないので
(「~」のところには物、他者、特定の考え、嗜好などが入る)、
3次元という観念世界の「私」は、常時、「~ではない」という差異化によって、
自他に対する自己承認運動をつづけなければなりません。
(外界や他者に問題を見つけて、解決に向けて働きかける、対処する、というアプローチは、
自己承認運動の具体的な発露、表現形です。)
と、自分の性格はこうで、趣味嗜好はこうで、社会的にはこういう立場、
性別は男または女で年齢は幾つで健康状態はこう、などなど、
「私」は中身でぱんぱんになります。
本来、「私」というのは、さまざまな感覚を当事者として感じる感じ手意識、
その視点や角度や軸のことで、中身はない
のですが。

だんまりマイブームのさなか、
「黙祷しましょう」という自治体の放送が聞こえてきて、
朝礼や朝のホームルームでこの黙祷をやらされたことを思い出しました。
広島や長崎に原爆が投下された日、大きな災害があった日、
病気や事故などで先生や生徒が亡くなった場合などに、
担任の先生や校長先生が非常に簡素に事情を述べ、
大声で「黙祷!」と告げられてはじまります。
黙祷とは何か、どういうふうにすればいいか、といった説明も、
私が通っていた学校ではありませんでした。
形式的なやりかたすら説明されないんだから、
まして、祈りの意義などに言及した大人は皆無です。
できねーよ。
時間は1分間なのですが、これがけっこう長く感じられ、
だいたい私は途中で目を開けてしまって、また瞑りなおしていました。

前々回のチャネリ対談記事でも書きましたが、
3次元(という観念世界)では、
「怒りが湧いたらこうしなさい」とか、
「自分にはできないと投げ出さず、何段階かに細分化して、できることから手をつけなさい。
そうするとモチベーションが上がります」とか、
物質(という観念)世界の改変につなげていく対処のしかたは教わることもあるけども
(それすら教わらないこともある)、
マインドの動きそのものを観察するなどということは、まず教われません。
それは、外側をつくることによって内側ができ、
外側を、「感覚に先んじて物がある」という観念にもとづいて本当の現実として固定するので、
本当の現実ではない内側が、
「時間に余裕があれば」とか「衣食住が足りれば」みたいな非必需品扱いになってしまうから。
これは社会のせいとか教育のせいとかいうことではなくて、
3次元(という観念世界)にフェイドインすると、親だろうが先生だろうが、誰しも、
外側から目を逸らせなくなるからです。
まして沈黙なんて、社会も教育界も知らないんだから、
知らないことは教えられない。
沈黙が「ある」ということに、自分で気がつくしかない(!)のです。
そういうのが「3次元を出るプロセスをたどる」醍醐味なんですけどね。
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  1. 2020/08/14(金) 17:34:36|
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心のなか、頭のなかで起きていること

2020.3.15(日)

まずは業務連絡ですが、パソコンのメンテのため、この記事以後、しばらく休載いたします。

さて、私がマインドシステム(客体‐空間‐時間思考システム)と呼んでいるのは、
もともとは表裏一体の認識と存在をまっぷたつに割る考えかたです。

認識=存在。
認識しているものが即ち存在する。
これは、感じている感覚のとおりに世界ができている、ということで、
認識=創造、と書き換えても同じ。
五感的な感覚にしても、思考や感情や気分のような非五感的なマインドの感覚にしても、
直感、インスピレーションのような高次の感覚にしても、
感じた感覚が感じたように出現し、創造される。
それだけです。それ以外には何もありません。
あらかじめ存在している客体(物)もなければ、その客体の広がりかたや変化のしかたとして、
あらかじめ展開が決まっている空間や時間もない。

五感的な感覚、マインドの感覚(思考や感情など)、高次の感覚(直感など)の関係を、
五感的な意識-マインドの意識-高次の意識、
と書き換えてみると、感覚の向こうに物(客体)はない、ということが、
いっそうイメージしやすいかもしれません。

一方、感じる以前に、あるいは感じようと感じまいと関係なく、
最初から物(客体)があるんだ、と考え、
認識≠存在、として、
かつ、感じる視点の「私」は物(身体)である、つまり、認識∈存在、とすると、
認識の原因はすべて存在にある、
そして認識の主体である「私」も身体として存在に含まれるから、
認識は存在固有の法則に制約されることになります。
つまり、身体である「私」は物理学や化学、生物学その他の法則にしたがうので、
これらの法則に制約された枠内のことしかわからない、
他人の視点、虫の視点、石の視点で感じる世界のことはわからないし、
他人や虫や石の視点で感じる世界を含む存在全般世界のことは知ることができません(※)。
※この限界を突破するのに、物(客体)を原子、素粒子まで細分化して、
他人、虫、石などに共通する要素まで還元するという方法がとられるが、
推論のプロセスや観測、実験の方法そのものが人体の知覚能力に制約されているかもしれず、
制約されないと証明する方法は(証明する人も人体である以上)ない。
仮に虫や石が人間にはわからないそれぞれ固有の方法で推論、観測、実験をしたとすると、
人間がつくったそれとはまったく異なる体系ができるかもしれない。


これが精神世界でいうところの「制限」です。
何を制限しているのかというと、
①まず、存在全般世界のことは不可知という形で認識の能力を制限します。
身体である「私」がわかるのは、身体の器質や機能で決まっている世界だけ、
存在全般のごく一部です。
②さらに、物(客体)は認識の有無に関係なく存在しているわけなので、
認識することは存在のありさまやなりゆきを受け身で観察することしかできず、
認識=存在または創造の能力はありません。
①を部分的な制限とすると、②は全面封印です。

①②の制限は、マインドシステム(客体‐空間‐時間思考システム)を使って、
「感じること(認識)」と「在ること(存在)」をまっぷたつに分断しているときに生じます。
そして、「感じること(認識)」と「在ること(存在)」は別だ、と考えているとき、
この考えのとおりに展開していくのが3次元世界です。
物があって、物の相関関係として出来事が起き、ここからあそこへとだんだん広がり、
過去、今、未来とだんだん変化していく、という3次元ゲーム画面がはじまって、
「私」も物の一部(身体)となってゲームをプレイしています。
覚醒するとか、アセンションする、次元上昇するとかいうことは、
マインドシステムという考えかたをやめて①②の制限をはずし、
「感じること(認識)」がそのまま「在ること(存在)」を創造するという
シンプルな一元世界に戻ることです。

これは、記事の日本語の論旨を丁寧にたどっていただければ「へえ、そんなもん」と
理解していただけるかと思います、が、実感的にはそんなにわかりやすくありません。
3次元とそうじゃない世界(非3次元、一元世界)はどこがちがうのか、
制限がはずれて、認識=存在あるいは創造となるとどうなるのか、
ということは、おそらく、とても想像しづらい。
自分が3次元世界実行中のとき、
覚醒したっぽい人に接したり、ぽい人のコンテンツを見聞きしても、
自分やほかの人と何も変わらないように思えるからです。
覚醒した結果、サイキックな能力とか意外な能力が発現したり、若返ったり、
何かの業界で成功したりする人もいるかもしれませんが、
それらは3次元世界の尺で測ったときの差異であって、一元世界とは関係ありません。
3次元尺で見たら「やばいなこいつ。こうはなりたくないぜ」という人もいるかもしれません。
それに、3次元尺で測れば奇蹟みたいなことが起きていても、
一元世界では特別なことではないので、とくに公表しないかもしれません。
一元世界は、覚醒したっぽい人をモデルにしたり、
部活の仮入部的なお試し体験で先取りできることではないのです。
ネット、本など情報はたくさんありますが、
究極には個人的な興味、なりゆき、タイミングで、
「覚醒すると決める(コミットメントする)」かどうかが決まります。
コミットメントとは、「午後から外出する」と決めるのと同じで、方向を一択に絞るということです。
家にいると同時に外出することはできないように、
3次元をつづけながら一元世界に向かうということはできません。
コミットメントって、(まだ3次元にリアイリティがある状態の)自分の意思で舵を切るんですが、
どっこいしょと重い腰を上げる感じじゃなくて、ここぞというタイミングでスイッチが入るんですよ。
なお、他人が覚醒しているかどうかは、3次元をやっているときは「ぽい?」としかわからないし、
自分が覚醒したら他人の覚醒はどうでもよくなります。物化(客体化)した他人はいなくなるので。
一元世界の他人は、ある視覚像、音声像などの感覚として現れる自分自身です。

3次元と一元世界のちがい、制限がはずれるとどうなるのか、
ということがモデル化しにくく、ダイエットのビフォーアフターのように一律的な効果を示しにくく、
わかりづらいのは、全部、心のなか、頭のなかで起きることだからです。
マインドシステムは、あらゆる分野の常識の基礎になっている考えかた、つまりは観念で、
これも心のなか、頭のなかでやっていることです。
一元世界というのは高次の感覚、五感的な感覚も含めた全感覚(周波数)宇宙なのですが、
変化のメインステージはマインドの感覚、心のなかや頭のなかです。
3次元世界では心や頭のなかは「現実」ではないとされていて、
物が主導権を握っているので(その「物」が思考の産物なのですが)、
心や頭のなかの話、となると、3次元にリアリティがあるとかなりガッカリものですが、
3次元実行中の人と覚醒した人のちがいは、
マインドシステムという観念にコントロールされているか、いないかなので、
心のなか、頭のなかに劇的に現れます。
3次元世界の制限は、具体的にはいろんなジャンルの「問題」となって心や頭のなかに現れます。
「ものごとのしくみ、なりゆきをすべて知り尽くすことはできない(上述①)」、
「自分ではどうにもできないことがある(上述②)」
という制限は、3次元の構造上、必ずついてまわるので、
心のなか、頭のなかが3次元自明で動いていれば、
健康でも裕福でも縁に恵まれていても関係なく、どんどん問題が降り更新されていきます。
ぼんやりと霞んでいる「老後」、滝になって落ちているその先まで、問題の連続です。
一方、一元世界には、その制限を課す物(客体)がなく、
物がない以上、物の広がり(空間)とか変化(時間)もなく、
したがって制限はなく、問題をつくるプログラムがないので問題は生じません。
ただ、3次元に嵌った状態で3次元スコープを通して見たら、
覚醒したっぽい人にもかたづけるべき問題が多々ある、努力みたいなこともしてるんじゃないか、
「覚醒とか次元上昇とかいったってなんも変わらんじゃん」と見えると思います。
3次元尺でイメージする制限がはずれた状態って、ヒーリングに予知にテレポーテーション等々、
サイ能ががんがん開花してもはやドラえもんを超えたぜ、とか、
外見でもスキルでも収入でも、こうなりたいと思ったら二、三日中に実現しちゃうとか、
念波を送っていたら一週間で国内外の社会問題が解決したとか、
そんな感じだと思うのですが、
こういう想像図こそ3次元の心と頭(マインドシステム)で描いたもので、
3次元世界の枠から一歩も出てないんですよ。
「現実」が思いどおりになるとかならないとか考えるとき、
その「思い(願望、欲求)」もマインドシステムによってコントロールされ出力されます。
一元世界の住人は「人生」を生きておらず「生活」もしていません。
3次元スコープで努力と見える所作、言動も、本人的にはまったく努力ではありません。
感じて創造しているだけ、感覚像という夢を見ているだけ、プレゼンス(現前)しているだけです。
で、途轍もなくリラックスしています。
けど心のなか、頭のなかは見えないからわかりづらいんだよね。
ほんとにすごいことなんですが、とくに神秘的ではないし、
3次元尺だと一休さんの頓知話みたいに聞こえると思えます。

というわけで、変化のメインステージはマインドであり、
何か特別な思考法を付加していくのではなく、すでにある思考法(マインドシステム)を
はずす、手放すという引き算です。
ここでは方法の詳細は書きませんが、私の場合は、
(1)ゼロポイントフィールドにつながる
(2)自意識の「私」から統覚視点の「私」に後退する
(3)合わないミスマッチな感覚(周波数)をゼロポイントフィールドに還す
というやりかたにしています。
むろん、これじゃないとだめというわけではまったくないし、いろんな方法を参考にしつつ、
自分にジャストフィットするやりかたを組み立てていけばいいと思います。
私自身も、(1)~(3)のメソッドは自分で使い勝手のいいように変更しています。
スイッチの入った方、お互いに帰り途を楽しみましょう☆オルヴォワールアビヤントw
  1. 2020/03/15(日) 16:20:36|
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究極のアート

2020.2.14(金)

「物があって、それが高さや奥行きや内部をつくって、ここからかしこへと広がり、
だんだん形や性質が変化していく、という3次元の世界は、
心や頭のなか、すなわちマインドでこしらえている世界である」
これは、五感的な感覚の向こうに物は存在していない、ということを前提とした説です。
五感的な感覚の向こうに物があるのか、ないのか。
これは絶対にわかりません。
なので、どちらにリアリティがあるかによって決まります。
私は、五感的な感覚の向こうに何かがあるということにもはやリアリティがなく、
リアリティがあるのは感覚だけなので、上述のように、3次元はマインドの産物としています。
感覚の向こうにある「何か」が物ではなく、霊とか神とかエネルギーであっても同じ。
感覚に「向こう」はない。感覚だけである。
だから、「何かがある」という見かたを、感覚を生じさせる客体Xを設定しているという意味で
「客体思考」と呼び、この客体が連続的に広がり変化すると見ることを「客体‐空間‐時間思考」
と呼んでいますが、一般的にはこの客体Xは物、物質です。

五感的な感覚の向こうに物があるかないか、なぜこれが絶対にわからないのかというと、
誰でも、何かが見えたりさわれたり、そうした感覚を感じていることはたしかですが、
その向こうに物があるのか、ないのかはわからないからです。
言い換えると、何らかの感覚を感じることなしに物がある、ないと指摘できる人はいません。
観測機器を使ったとしても、機器を操作したり、検出結果を読んだりするには、
誰かの触覚や視覚などを通さなくてはなりません。
機器を使うという行為全体が、誰かの感覚として感じられていることです。
Aさんに四角い箱が見える。
Bさんにも四角い箱が見える。
このとき、たしかなのはAさん、Bさんそれぞれが「自分に箱(という名前で呼ばれる形や色)が
見えている」と感じているということだけで、
それぞれの感覚の向こうに箱という物があるのかないのかはわからないし、
Aさん、Bさんが同じ感覚を感じているかどうかも、お互いにわかりません。
さらには、Aさんに見えているBさん像、あるいはBさんに見えているAさん像の向こうに、
Bさん、またはAさんという人物が存在するのかどうかも、
Aさんにとって、肌色に見えたり圧力を感じたりしているその感覚の向こうに自分の身体が
あるのかどうかもわかりません。
これは、誰しも自分が何らかの感覚を感じているという以上のことはわからないという、
認識のしかたに由来する証明不可能性なので、
科学の発展によって解明できることではありません。

物はあるかもしれない。ないかもしれない。どちらなのかはわからない。決着はつかない。
どちらにしても、「物はある」を選べば、「ある」を前提とした世界が展開し、
「物はない(感覚だけである)」を選べば、そちらを前提とした世界になります。
これは今日は外出するかしないか、というのと同じ二者択一の選択なので、
両方やることも、両方やらないこともできません。
(↑「コミットメントする」とは、このように、どちらか、あるいはどれかに決めるということです。
私たちは四六時中コミットしており、コミットしていないことは体験できません。)
選ぶという言葉に引っかかりを覚えるとすれば、
「物はあるのか、ないのか」という問いを立てるとき、
すでに「物はある」を前提とする世界にいるからです。
つまり、実際には、感覚の向こうに物がある、というか物を感覚でとらえているのが当たり前で、
物があるかどうかなど考えてみたこともなかったのが、
何かのきっかけで当たり前だったはずのことがぐらぐら揺らいできて、
こういう疑問が湧いてくるのです。
言い換えると、3次元のリアリティが揺らいでくるということです。

①物がある世界(3次元)
感覚の向こうに物がある、とした場合、
その物を認識する(感じる)ことと、その物があるということは、別々の出来事になります。
感じ手が何かを感じたからといって、その感覚は物の実態とズレているかもしれず、
感じかたが物の実態を証明するわけではないからです。
この物は、感覚の感じ手が感じようが感じまいが、またどのように感じようが、
感じ手の都合に関係なく存在しています。
感じ手の都合に左右されない、物固有の原理とか法則で存在しているということです。
物固有の原理や法則とは、一般的には物理学や化学、生物学などの自然科学です。
(客体Xを神や霊などとすると、神学とか何らかの形而上体系が固有の原理、法則となる。)
感じ手は、物を感覚でとらえることによって、そのようすを確認、観察したり、
原理や法則を探究したり、わかったことを応用して役立てることができますが、
物固有の原理や法則を変えることはできません。
原理や法則を知って、それを使うことはできるけれども、
原理や法則という枠を超えることはできません。
さらに、感じ手の感覚も物(身体)から生じるとされるので、
感じ手の感じかたも物固有の原理や法則に制約されます。
このように、「物がある」とすると、
固有の原理や法則をもつ物と感じ手の感覚とが分離し、
感じ手の感覚が物固有の原理や法則に制限されることになります。

②感覚の向こうに物はなく、感覚だけの世界(非3次元)
感覚の向こうに物はなく、感覚しかないのなら、
ある感覚を感じるということは、その感覚が生じるということ、
その感覚を感じなければ、その感覚は生じない、ない、ということなので、
認識(感じる)即創造(生じる)、あるいは認識(感じる)即存在(ある)です。
「感じる」と「ある」が一元になっていて、
感覚の向こうに客体Xは存在しないので、客体固有の原理や法則に制約されません。
ある感覚を感じるときには、その感覚の感じ手がいます。
感じ手とは、ある形や色や固さなどの感覚を感じて生じさせている「側」のことであって、
身体という物ではありません。
身体というのは、肌色とか、柔らかさとか、いろんな感覚のまとまりを、
物があることを前提とした世界の概念に当てはめたときの呼び名だからです。
何かの感覚が生じ感じられるときには、必ず感じる「側」があり、
感じる「側」なしに感覚は生じません。

なお、スピリチュアルの世界でいう「分離」とは、
①の世界で、「感じること(認識)」と、物の存在は別立てでそのしくみやメカニズムを
考えなければならないこと、つまり二元論になること、
「制限」とは、
感じ手が物(身体)であるために物固有の原理や法則に制約されることをいいます。
感じ手の認識と物の存在がズレて分離するのは、物が認識を制約するためで、
顕微鏡を使わないと細胞や分子が見えなかったり、X線を使わないと内部が見えなかったり
するように、真実のカギは常に物が握っていて、
感じ手はその一部しか認識できないことになるからです。
物の実態を知るには、さまざまなアプローチによる認識(観察結果)を重ねなければならず、
それでも物を百%把握するには至りません。
現代の理論物理学は物の物性がぼやけるところまで来ていますが、
客体Xが政権交代するだけだったら、「分離」も「制限」も終わらないでしょう。
「分離」も「制限」も前世紀から言われていたことで、バシャール本などにも出てきますが、
私には茫漠としていまいちよくわからず、近年ようやく得心しました。
「分離」と「制限」は、①の3次元世界で、
物(身体)に閉じ込められて自意識となった感じ手と、物でできた外界との相克として
体験されます。
もし、自意識が外界に働きかけるのを止めるか、最小限に抑えるとしても、
「感じること(認識)」と物の存在の分離、物固有の原理、法則による制限は解けません。
その場合は、物がその固有の原理、法則で変転していくのを受け身で感じつづける
(認識しつづける)ことになります。
これが「自意識化したエゴを手放す」ということですが、これをやっても、
「感じること(認識)」は残る一方で、物はずっとありつづけるし(分離)、
その固有の原理、法則は働きつづけます(制限)。
感覚の向こうに物が存在せず、感覚だけならば、
「感じること(認識)」はそのまま感覚の創造になりますが(認識=創造)、
物の存在を前提にすると、
感じ手の認識は物固有の原理、法則にはタッチできないので(認識≠創造)、
物がその固有の原理、法則によって変転していくのを見つめつづけるだけとなります。
なので、3次元の枠内でエゴを手放す系の練習をすると、
心は静寂になりますが、テンションが下がります。

②とすると、感じるか、感じないか、だけで話がすんでしまうので、とても単純です。
リクツはわかるけど、でもさ、何かを感じるのは身体があるからでしょ、
感覚器官が働いて脳に伝達されてるんでしょ、「感じ手」って身体のことじゃん、と思うとすれば、
それが「3次元(①)にリアリティがある」ということです。
それはべつに遅れていることでもダサいことでもありません。
感覚の向こうに物があるか、ないか(場合によっては神、霊、エネルギーなど客体Xの有無)は、
絶対に決着しないことなので、①②のどちらにリアリティがあってもおかしくありません。
①から②にリアリティが変わることを、覚醒とかアセンションというのですが、
そのためにイメトレとか瞑想とかの練習が必要になるのは、
②の感じがつかめて、②に行くと決めても、①のリアリティがとても強くて、
習慣(ふだんは思い出せない潜在記憶の積み重なり)に浸透しているせいです。
午前中は②だったけど、午後、仕事の打ち合わせに入ったら、
まるで磁場があるかのように①に戻る、ということが頻々とあるので、
いろんなメソッドを使って②に慣れていくわけです。

私は、五感的な感覚だけでなく、思考や感情や気分といったマインドの動き、
直感、閃き、ダンロード感(チャネリング)といったマインドを超える動きも「感覚」と呼び、
これらの感覚を感じる側を「統覚視点(私)」としています。
全部「感覚」にしたのは、どれも水面に生じる波のようなものであり、
ただその波の高さや間隔のちがいがあるだけだと気がつき、
スピリチュアル界でよく使われる「波動」「周波数」といった比喩ともリンクしたからです。
いちばんインパクトが強くて濃いのが五感的な感覚で、
思考や感情や気分は五感ではないけれども、ある程度はっきりした中程度の感覚、
直感とか閃きはそれより淡い微妙な感覚ということです。
マインドや高次の動きには「意識」という言葉を当てたほうが通りがいいのかもしれませんが、
「意識」とすると、対立項として「物」が立ち上がってきやすいので、
私的には採用しなかったのでした。

②の感覚一元世界がリアルだと、
①の連続的広がり変化する物というのは、マインドでつくった概念ということになります。
思考で想定することはできるけど、五感的な感覚ではないからです。
「一瞬前に熱さを感じた」のも、五感的な感覚ではないので、マインドの感覚です。
そして、五感的な感覚の向こうに物を設定していない以上、
「その熱さが本当に生じたのかどうか」という問題は立てられません。
ただマインドの感覚(この場合は記憶)としてあるということは事実です。
①の物がある世界でも、その場にない風景とか、過去や未来は体験できませんが、
こちらでは連続的に広がり変化する物が第一義的な本物の現実なので、
連続的に広がり変化するという物の性質が、離れた場所や過去や未来の実在を裏づけています。

私が感覚(波動、周波数)一元主義に至ったのは、
単に、あるとき、そのほうがリアルに感じられたからですが、
感覚だけしかないとすると、
いわゆる超常現象も、超じゃない現象も、よろず「感じるか、感じないか」だけでかたづくので、
シンプルで楽だという理由もあります。
たとえば、自分がスプーンを力を加えずに曲げたとすると、
固いと感じられた感覚が柔らかくなって、くにゃっと曲がった。それだけです。
自分が誰かのスプーン曲げを見ていて「すごい!」と思ったとすれば、
目の前にいる人がスプーンを曲げたという視覚を感じ、
驚きの気持ちがマインドの感覚で起きたというだけ。
どう考えても1時間はかかる作業が5分で終わってしまったとか、
10分くらいで到着する場所に、同じコースを同じ速度で歩いて50分くらいかかった場合も、
「作業」とか「歩く」と表現されるような感覚を感じていて、
時計の数字を見たらそうだった、というだけ。
幽霊や異界存在が見えるという人はそれらを見ているし、見えない人は見ていない。
こうしたことは、物固有の原理や法則が一律に作用しておらず、
3次元の破綻を示す例だと思うのですが、
脳のしくみとかDNAとか磁場とか量子力学とか心理学とかで説明できるとしても、
いくつもの仮説が考えられ、それらの仮説にもとづいて同じ状況を再現しようとしても、
なかなか環境条件が整わず、おそらく非常に困難でしょう。

ともかく、感覚の向こうに客体Xとして物があるか、ないか、というのは、
いつかあきらかになる時代がくる、というようなことではないので、
「ある」としても「ない」としてもまちがいではありません。
「ある」とすれば客体Xとしての物に縛られ、「ない」とすれば縛りはないので、
あとは縛られるのが好きかどうかという趣味の問題になります。

客体Xのあるなしに正解がないのは、そもそも宇宙がアートだからだ、
サイエンスも含めてアートである、とすると、私的にはとても腑に落ちるのですが。
  1. 2020/02/14(金) 14:28:42|
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エネルギーワークについて

2018.6.22(金)

何か気がかりな状況にある人、動植物、建物、土地や森林や海などの環境、等々に対し、
ヒーリングやお祈りといったエネルギーワークをするさいには、
先ず自身の「気がかり」をクリアリングしましょう。
エネルギーワークぅ? は、なんですかそれは? という人は、
運動するとか何度も腹式深呼吸するとかして、心身をマッ白にするのでもよいです。
クリアリング、マッ白。
それだけでも効果があり、それだけでエネルギーワークが完了することも多々あります。

他者の境遇や、集団の安全、調和を気にかけることは、
一般常識では(物と意識との関係が逆転している仮想集合システム下では)
思いやり、善意、場合によっては正義とされています。
思いやりや善意や正義が生じる思考や感情、人として、生物としての「当たり前」の根拠を
問いただすことをしなければ、
ここから先はない、として引き下がるのであれば、それは正当でしょう。

しかし、物やその動きとして現れていないメタフィジカルなコスモスでは、
人として生物として当たり前の反応だとか、人道とか、全然関係ありません。
前にも書いたことがありますが、メタフィジカルなコスモスというのは、
エネルギーが強い、弱い、加速する、減速する、接近する(引き寄せる)、離れる、
帳尻が合う合わない、方向、角度、
といった力学だけで動いています。だってそれしかないから。
なので、思いやりや善意や正義の下に潜んでいる怖れ、混乱、怒り、悲しみ、
「ものごとが衰滅に向かうのは望ましくない」というジャッジメント、
「放っておくとものごとは衰滅に向かう」という、思考の土台となるメタ思考としての時間思考、
そういうのが全部、洗いざらいカウントされて力学換算されます。
そういうのが、表向きの回復や改善を指向するエネルギーと混じって、
総じてものすごくノイジー(騒々しい、支離滅裂)になります。
なので、最初にしたほうがいいことは、
何かしなければ、という気持ちや気分が「ある」のを観察して、終わらせ、通過させることです。

「かつて、神官や僧侶といったエネルギーワークのエキスパート集団が存在していた」
という知識データがあったり、
人によってはそれが知識に留まらない生々しい記憶データとして起動する(過去世や異界で
そういう人生を経験したのではなく、自身のこの物理像‐マインドとリンクしてアクティベート
される)というのも、
俗世的マインド反応から離れた立ち位置から行われるのでないと、
メタフィジカルなコスモスの調整は実効力が弱まる、ということを意味しています。

メディアのニュース、速報などを見聞きしたり、人の話から誰かの近況を聞いて、
ざわざわと気持ちが揺れ動く。不安な気分になる。
それはニュースや話の「向こう側」で本当の出来事が起きているからではありません。
ここで起きていることは、声や身ぶりや表情や文字といった情報に接した、それだけです。
その情報が、ざわざわや不安を喚起している。
それらが喚起されるのは、「向こう側」で出来事が起きているという空間思考のせいばかりでなく、
おそらく、個人的な経験記憶や、記憶をつないだ物語も活性化しているためでしょう。
反射的に想像される「向こう側」の出来事以上のことが、マインドで起きています。
ヒーリングしたほうがいいのは、まずここです。

加えて何らかのエネルギーワークとか、直接の連絡、支援などダイレクトなアクションを
促されているかどうかは、クリアになればはっきりするでしょう。
  1. 2018/06/22(金) 14:04:35|
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人類とは誰のことか

2018.6.11(月)

<人類>というのは個人の思考である。
ある人が人類のことを考えているとき、その人の考える人類が、思考として存在している。
だって、<人類>に会って、つぶさに見て話を聞いて、頭数を数えた人なんて、
どこにもいないっしょ。
と、こういうのを中学生の理屈という。でもほんとのことでしょ。
同じ中学生の理屈でいくと、この「ある人」ってのは、私が認識している世界に属していて、
「どこ」ってのも私が認識している不特定の場所のことである。

私がメディアのニュースで、ある情報を知ったとして、
その情報は、私が認識する世界では、画像や音声や文字がつくる情報として存在する。
ニュースの向こう側で、本当にその事件が起きているわけではない。
本当の事件というのは、私が認識する世界に、事件として現れる。
画像や音声や文字がつくる情報に対して、何らかのアクションをすることもあるが、
それは情報の向こう側で本当に何かの出来事が起きているからではなくて、
画像や音声や文字がつくる情報に対して特定のアクションをするようにと、
私が認識している世界の側から促してくるからだ。
感情や気分が反応してざわざわすることもあるが、私の場合、
ざわざわからアクションすることはなくなった。

以上のように、私にとっては<人類>は概念(思考)なのだけども、
私の認識する世界には、どうもガチで人類がいることになっているっぽい人も住んでいる。
私が認識する世界には、「人類」という言葉に対し、
次の3つのとらえかたをする人が住んでいるようである。

①<人類>は実際にいるという前提で世界像を構築している人。
②<人類>が概念(思考)だと気づいている人。
この人は、<人類>という概念を、自身の認識世界にある思考のひとつとして扱っている。
たとえば、「人類」という言葉に接したとき、「あ、<人類>を想定した話ね」ととらえる。
③マインドを超えたところから感知される何らかの集合フレームに対して、
思考帯域で「人類」という訳語を当てている人。

③は何かというと、
夢やビジョンとして現れるケースもあるけども、基本的には信号でしかとらえられない、
言葉やイメージで直訳できない世界(アストラル帯域)に、
同胞ソウルとでも呼べばいいのか、大きなグループソウル的な連帯フレームが
あって、このフレームを「人類」と呼んでいるんである。

つい二、三日前、私は、私用語で「前期レムリア」と呼んでいる、
人が言語を介さず、ナマの信号のやりとりで交流している世界をチラ見した。
コンピュータでいうと、機械語ですらない、電気パルスで交信しているような感じ。
しかしこれとて、個体宇宙で起きている自作自演交流である。

たとえばAさんが認識する世界、つまりAさんの宇宙に、B、C、Dなどの人たちが
住んでいるとすると、この人たちは、
Aさんの“私”意識(エゴ)が自他分離して観察している局面では、それぞれ別人だが、
AさんのエゴがZero Point Fieldとつながって自他の区別を解消している局面では、
Aさんでもなければ、BでもCでもDでもなく、何者でもない。唯のZPFです。
にもかかわらず、これがAさんの個体宇宙になるのは、
自他分離しているときの統覚意識(観察者“私”)がAさんだから。
ハイアーセルフ‐高次帯域‐マインド帯域‐物理像(エーテル帯域に反映された物質波)、
上から下まで、どこをとっても、観察者=Aはぶれていない。
0/1帯域で生じた“私”意識は、数多の視角に分かれ、それぞれの視角から、
個々の宇宙を観察/創造している。
この個体宇宙の頂点(それぞれの視角の始点)がハイアーセルフです。
そういうAさんの宇宙で、AさんはB、C、Dなどの人たちとパルス交流している。
リニア時間を想定したうえで「現代」と呼ばれている世界でも、高次帯域はパルス交信ですが、
「前期レムリア」世界の特徴は、この交信方式がマインド帯域でも変わらず、
言語のような象徴体系がないことです。
これがいくらか言語に近づき、機械語交信になったのが、私用語で「後期レムリア」または「ムー」、
アセンブリーになったのが「アトランティス」です。

レムリアとかアトランティスとかっていうのは、
「現代」とは異なる特徴をもった世界の呼び名であって、
そういう文明が実在した、いや実在していなかった、という話ではありません。
そういう世界は「現代」と重なって、個体宇宙のどこかの周波数帯を成しています。
こういう世界が「過去世記憶」として、また「現代」との重なりが「転生記憶」として
思い出される場合、リニア時間形式を使ってファイルを開いているだけで、
それは異なる世界へのアプローチのしかたのひとつです。
もし「多くの転生を重ねた」という実感があるとすれば、
多くの別世界に通じている、アカウントをもっているということです。
アプローチのしかたはそれだけではなくて、要は周波数が合うとファイルが開くので、
瞑想してるときとか、何かの拍子にふっとつながることもある。

さて、高次帯域では、自他分離局面での他者との交流はパルス交信方式ですから、
上述の②の人でも、観察を重ねて、“私”(エゴ)が研ぎ澄まされてくると、
パルス方式は実感されてきます。
③の人とのちがいは、③の人の場合、
やりとりの頻度が高い対象範囲(同胞的フレーム)と、「人類」という概念とがリンクしていること。
②の人には、そのようなリンクがありません。
この「人類」概念は、言語による思考というよりイメージです。
同胞的フレームと「人類」のイメージがリンクしている理由は、
アカウントをもっている別世界とのかかわりにあるようです。
レムリアとか、古代とか、どこかの時代のどこかの地域のクラン(氏族)といった形で、
あるいはどこかよその星のなんとか族といった形であっても、
別世界がマインド帯域で翻訳変換されて開くとき、
翻訳ツールとして使われるイメージに、同じマインド帯域の「人類」イメージと親近性がある。
たとえば直立二足歩行といった外見の特徴とか、ジェンダーとして翻訳される二極性があるとか、
似たような感情反応をするとか。
つまり、③の人たちの「人類」イメージは、さまざまな別世界の同胞的フレームの別称です。

しかし、「現代」世界で、思考と対応した言語で示される「人類」は、
非常に多様な人間坩堝をひとつにくくる概念であり、
上述のような同胞的なフレームと対応させるにはムリがあります。
意識の広がり度合もばらっばらで、パルス交流にはほど遠く、
ひとつの象徴記号(言葉など)が、いくつもの意味、何十ものニュアンスを帯びて拡散します。
言葉で「いいよ」と言いつつ、パルスで「だめ」と伝えていることも珍しくありません。
少なくとも、私が認識している世界ではそう。
同胞的フレームを翻訳した「人類」と、<人類>の実態は大きくかけ離れています。

では、③の人が自身の宇宙で感じている同胞的フレームがアクティベートされると、
マインド帯域‐物理像でどんなふうに具体化するかというと、
・それぞれの“私”が認識する世界での交流がパルス的になる
(Aさんの場合だと、Bさん、Cさん、Dさんなどとのやりとりがパルス交流に近づく)
・個体宇宙の高次帯域とのやりとりがスムーズに、自在になる
といったように、それが及ぶ範囲は、それぞれの“私”が認識する世界です。
ざっくりいえば、リアル、バーチャル問わず「隣人」範囲に波及するといっていいでしょう。

私が認識している世界すなわち私の個体宇宙には、
意識の広がり度合もさまざまなら、アプローチのしかたもちがう人たちが住んでいます。
で、私の個体宇宙から私に求められているのは、
これらの人たちに連帯を呼びかけたり、
想像力を広げて共感する努力をすることではなく、
このばらばらさ加減をばらばらなまま承認し、それぞれのやりかたを尊重することです。
物質還元主義に立つ人も、私とはちがうメタフィジクスを展開している人も、
まちがってません。
「関係ない」という関係が築けることは、共存の鍵です。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には、修道僧のゾシマ長老に、
「私は人類のために奉仕したい気持ちでいっぱいだけど、
人類愛に燃えれば燃えるほど、身近な人たちが嫌いになる」と訴える女性が出てきます。
この人にとっての本当の「人類」は、嫌いになっていく身近な人たちで、
何かあるごとにこいつ嫌いとか許せないと感じるのを認めることと、
そう感じることで自分を責めないことが、愛の実践のはじまりではなかろうかと思った。
  1. 2018/06/11(月) 16:58:38|
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アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、
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