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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

高い音はほんとに高いのか

2021.2.12(金)

Youtubeでトランペットのレッスン動画を公開されている、ニイヤマッスルさんという方がいらっしゃいます。
記事を書くためにヤフーで検索したところ、ニイヤマッスルこと新山泰規さんは、
ジャズバンド等での演奏活動のほか、群馬県内でトランペットのレッスンをされているとのこと。
のみならず、トレーニングジムの広報、営業もなさっている、「筋肉トランペッター」なんだそうです。
私は昨秋くらいから、この方の動画をときどき拝見していました。

発想が革命的だったのです。
トランペットで高い音を出すには、最初に唇のテンションをMAXにしてなんかわからん謎音程のハイノートを出し、
そこから目標の音(ハイB)まで降りてくれば楽に出せますよ、
なんてことを、ぺろぺろんと言い放っておられるのじゃ。
は?(-д-)?
それって、跳び箱の8段が飛べれば6段は楽にイケますよ、って言ってるのといっしょじゃん、できねーよw
って、初は笑ってネタにしてたのですが、
何本か動画を見ているうちに、「高い音」という観念が壊れていって、
自分のなかでは、ハイFくらいまでの音はもう完全に「高い音」ではなくなり「そういう音程の音」に
なってしまいました。
そもそも私には、自分にはまだ吹けない音であっても、
高い高いといわれている音は本当に高いのか?
風(息)に押されてゲート(唇)がある振動幅で振動してそれが楽器に伝わって音になってるだけでしょ、
条件設定(息、唇)が変われば出力される音も変わる、それだけじゃん、
高い低いってのはマインドで起きてる、プレッシャーとセットになった心理評価じゃん、
というような思考があって、
自分が出せると思ってる音なら、いずれ条件設定がそろって出るはずだ、
という無根拠な確信にもとづいて練習してたのでした。
楽器をはじめたのも、自分の意志でというよりはチャネリング的、直感的なオカルト動機でした。
だからといってすぐできるわけではありません。
オカルト界には、ピカッと閃くと、まったく未経験のことであっても、
身体が勝手に動いてできてしまった、みたいな例もあるらしいですが、
私の場合は全然そうではありません。
当初は、顎が震える息がもれる姿勢が保てない酸欠でめまいを起こす・・・等々、
あれやこれやの問題がうず高く山積していました。
また、中高生のときホルンをやっていたので、
昭和の部活で培われた無理のあるアンブシュア(口格好)が潜在記憶に残っていて、
これをリセットすることからはじめたので、
たぶん、まったくの未経験ではじめた人よりも、とっかかりはたいへんでした。
でも私は、どうしたらこれを解決できるだろうか、などと煩悶したりはせず、
たまにおもしろそうな動画や文章を拾い見、拾い読みするだけで、
問題解決のためのリサーチはめんどくさいので一切せず、
そのうちなんとかなるべさ、と放っておいたら、
そういえばそんなことあったっけ、みたいに、問題は消えていました。
むかしの歯科治療の後遺症である左顎の麻痺と知覚過敏もいつのまにかなくなっていて、
これにはかなりびっくり。

トランペットの中音はチューニングB(ベー)である、
だから音出し(ウォーミングアップ)はチューニングBからするのがいい、
という説も画期的でした。
トランペットの公式音域は、
ファ# ソ ラ シ  レ ミ ファ ソ ラ シ  レ ミ ファ ソ ラ シ ド
の約2オクターブ半です(※)
ただ、ジャズやポップスだと、右端の(ハイB)よりも高い音を使うことがあって、
その非公式音域を含めると最大幅は3オクターブ半くらいです。
チューニングBとは、右端のドの一オクターブ下ののことなので、
こうして並べてみると、なるほど中音といってもいいかもしれません。
ローからハイまでの二オクターブを最も頻繁に使われる音域と考えれば、たしかにそうです。
しかし、ニイヤマッスル説で中音とされるチューニングBは、
トランペットをはじめてまもない人がパパパッパー、イェイ、とかって出せる音ではないんですね。
ど初っ端は音自体が出ないというケースもあるし、そもそも音らしい音が出るまでがひと苦労、
練習時間や回数などにより個人差はありますが、
チューニングBが出せるようになるまで、だいたい3か月くらいはかかるんじゃないかな。
チューニングBは、高いほうへ音域を広げていくときの最初のヤマ場みたいな感じに思えます。
するとだね、すでにチューニングBからして高い音であるという刷り込みができてしまうわけです。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、と上がってチューBまできた、さぁ、ここから高音域に向かうぞ、
みたいな意識が形成されてしまう。
この「チューニングBは高音域のスタート地点」意識だと、その上のハイF(ソ)は富士山、
ハイB(右端のド)はマッターホルンか何かみたいに思えてしまいます。

このマインドを崩すには、ともかくチューニングBが吹けるようになった段階で、
音出しの一発目とまではいわなくても、ソ、ラ、シ、ド、とか、ソ、ラ、シ、ド、シ、ラ、ソ、みたいに、
口輪筋が元気なうちにチューニングBを出しておくのは有効と思います。
私自身、まだチューニングBが出せなかったころでも、
その日に出せるいちばん高い音から音出しをしていました。
「これはいろんな音のひとつで、高い音ではない。
高い音などというのは他人軸の定義で、私の宇宙に高い音なる音は存在しない」
という意識に誘導する、一種のイメトレです。
現在は、公式音域の音は出すだけなら全部出せるので、
音出しの一発目は二オクターブ目のソ(F)かミ(D)にしています。
※トランペットはピアノの鍵盤でいうとシ♭すなわちドイツ音名だとB(ベー)がドになる移調楽器なので、
トランペットでドの音を吹くと、ピアノの鍵盤だとシ♭の音が出ていることになる。
ピアノのド(C)がそのままトランペットのドになるC管トランペットというのもあり、主にオーケストラで使われている。


とはいえ私は、上記の音域の左半分、中低音を無視しているわけでは決してありません。
むしろ中低音のほうにウエイトをかけています。
中低音がきちんと出せるようにならないときれいな響きがつくれないだのなんだのって、
そんなの都市伝説かと思いきや、どうも一理あるっぽい。
ただ、低音の口からだんだん口を締めて上げていく、のではなくて、
高音の口をだんだん脱力させて低音に降りていく、というニイヤマッスル説のほうが、
練習の考えかたとして合理的なんですね。
自分でやってみてそう思いました。
左半分の音域がちゃんと出せるようになってから右半分にとりかかろう、というんじゃなく、
ニオクターブ目にも(倍音のリップスラーや音階などを使って)ばんばんトライするようにしたら、
左半分の音程が安定し、響きも向上したので。
アンブシュア(口格好)にせよ姿勢にせよメンタルにせよ、またおそらく楽器関係に限らず、
脱力が上手になると、適切な力の入れ加減が感覚的にわかるので、いろいろ上達すると思います。

人にはその人の宇宙があり、マインドも五感的感覚もちがうので、
ニイヤマッスルさんとはちがう角度のアプローチも多々あるでしょうが、
ドレミファソラシド(上り)ではなくドシラソファミレド(下り)指向のその発想は、私的には超目ウロコでした。
私の在籍していた当時の吹奏楽部で同じことを言ったら、
提唱者が下級生なら呼び出し、上級生なら顧問から呼び出されるかミーティングになっていたでしょう(笑)。


ニイヤマッスルさんの演奏動画「ルパン三世のテーマ」(約3分)
https://www.youtube.com/watch?v=Igv8xOfCeeQ

私的に心惹かれるトランペットの仕事は、
ホルストの「吹奏楽のための組曲一番」より「一楽章 シャコンヌ」で、
湧き上がるようなクラリネット隊の旋律につづいて「ンタタタ」と出てくるやつとか、
モーツァルトのピアノ協奏曲二十番三楽章の終盤で華を添える的にちょろっと出てくるのとか、
どちらかというと渋い裏仕事系ですが、
なんだこりゃフルートかよ、みたいなハイノートの快感も、なんとなく想像できます。

なお、森井奈緒さん、岩田恵子さん、宇野嘉紘さんほかのレッスン動画もいくつか拝見しています。
諸先生方、ありがとうございます。
つべのアカウントさえつくってない野良視聴者ですが。
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  1. 2021/02/12(金) 19:35:49|
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つまらなさが消える

2020.10.2(金)

つまらないものがなくなっていることに気づく。
つまらないおしゃべり、自己対話、会合、催しもの、景色、文字、音。
かつては、何かそうしたつまらない感覚(波動、周波数)が、
空間と時間を伴いつつ、泡のように生じては消え、また生じ、というようにして、
常にあったような気がする。
高揚する時空間を確保するために、つまらなさを我慢しておくとか、
つまらないことを一気にかたづける、ということもあった。
いつも何かしらつまらない感覚(波動、周波数)があり、つまらなさが絶えなかった、
というのは、自分がつまらなくしていたからだ。

さまざまな感じの原因として物質(客体)を想定していると、
その物質(客体)固有の法則と、それにもとづく一般常識が創造権を握り、
感じ手(私)の感じの有無や感じかたは、
固有の法則にもとづいてふるまう物質への一次反応(物理感覚)、二次反応(思考、感情など)
にすぎなくなり、感じ手(私)は、そうした反応を無自覚に自作自演して一喜一憂することになる。
物質(客体)を想定してできあがる、こういうマインドの様態が3次元世界である。
3次元の感じ手(私)は、身体(物質)+それに由来する心という範囲に限定されており、
物質が主権を握る世界の一片にすぎない。

本来の感じ手(私)は、感じるとともに世界を創りだす統覚視点である。

一喜も一憂も、物質(客体)を想定した3次元世界特有の一次、二次反応なので、
物質(客体)の想定をやめてしまえば、世界は3次元ではなくなり(非3次元になり)、
反応も霧消し、一憂の一種だったつまらなさも消える。
実感的には、アンテナに引っかからなくなる、寄ってこなくなるという感じ。
禍々しい感覚(波動、周波数)も寄ってこなくなるので、厄除け、プロテクトがいらなくなり、
とてもラクチンです。
もし寄ってきても、怪しいとかザワザワする時点でゼロポに還してしてしまえばいいし。
3次元を出ると、もうそれは3次元ではなく非3次元で、
客体‐空間‐時間思考システムにコントロールされていたマインドがカラッと自由になって、
高次の感覚(周波数)とコヒーレントに(整合して)連動するようになるので、
興味や関心ごとの再編成、再生、あるいは新生が起きます。
それが仕事や人間関係などに変化をもたらすこともありますが、
仕事や人間関係、健康状態、家計収支などの変化は、
高次、マインド、五感と感覚(周波数)が具体化していくプロセスの末端で、
しかも「仕事」とか「人間関係」とか、3次元の概念で言い表せる範囲での変化です。
必ずしもそういう形で変化が起きるとは限らないし、
そうした面で変化があっても、感覚宇宙の動き全体に埋め込まれていて、
あまり気に留めないかもしれません。

私の場合は、つまらないと感じるような感覚(周波数)は最初からフルスルーするようになり、
常識的には重要なはずの情報、注意すべき他人の言動であっても、
アンテナにかからないものは、どんなに努力しても読解できなくなってしまいました。
映像、画像、音声や文字が、その意味は理解できても、サーッと拡散してしまうのです。
なので、自分が接している感覚(周波数)は、どれも何らかの関心と符合していて、
わくわくしていたり、
わくわくまで行かなくても、p(ピアノ)とかpp(ピアニッシモ)で響いていたりして、
つまらないとか退屈ということがなくなった。
そのなかには、もし自分が3次元をやっていたらまず出合わないというか、
注目しなかったであろう感覚(周波数)が多々あり、われながら意外で新鮮です。
引き出しが増えるにしても、え、そっち方向に行く!? みたいな驚きがある。

たとえば、ダニエル・バレンボイム(ピアニスト、指揮者)なんですが。
この方は、アルゼンチン生まれのユダヤ系の音楽家で現国籍はイスラエル、
社会的な発言や活動でも注目されています、が、
私が読んで、おもしろいと思ったいくつかの音楽批評では、ピアノについても指揮についても、
軒並み評価が芳しくないのです。
つまらん、凡庸、立派な発言に演奏がついてきてない、興味がもてない嫌いにすらなれない、
などなど、ペッタペタにやられとる。
で、ふとしたきっかけから、この人のピアノ演奏CDを聴いてみたら、あーなるほど、って感じだった。
曲目はベートーヴェンのピアノソナタ8番(悲愴)、14番(月光)、23番(熱情)、
いわゆる三大ソナタといわれてるやつで、どれも起伏があるというか、とくに8と23はドラマチック、
なのに、気をつけてないとBGMみたいに聞き流してしまうんですわ。
なんだこれは!? と思って、ほかのピアニストの演奏もネットで聴いてみました。
濃ゆくてグイグイくるホロヴィッツ、
豪腕でコントロールも超正確なピッチャーみたいなポリーニ、
コントロールはともかく豪速球ビュンビュンのリヒテル、
水のように浸透してくるヴィルヘルム・ケンプ、
モノクロの華やかさがあるクラウディオ・アラウ、
よい子のシェパードだけど随所で野生に戻る、油断のならないツィメルマン、
などを聴いてしまうと、バレンボイムの演奏って、何がやりたいのかわからない、スルーしてよし、
と評されてしまってもしかたないかな、って感じです。
音が軽い。でもファジル・サイのように洒脱というわけでもない。
聴いている私のエモーションを動かさない。
表層だけ。
にもかかわらず、もう10回くらいはバレンボイムのCDをリピートしちゃってるよ。何なんだろう。
私は、もともと善い人ではないので、「よいところを探そう」的な了見はないし、
先に書いたように、もうつまらないものとは周波数が合わなくなっているので、
本当につまんなかったら、最初の数小節で気が遠くなって止めちゃってるはず。
先方から働きかけてこないので、ぼんやり受け身で聴いているとBGMになっちゃうんですが、
少し踏み込んで凝聴していると、
必要最小限の音だけでできた曲の輪郭線のようなものが感じられ、
余計なものは一切込めていない音楽、のように聴こえるのでした。
作為を除こうとする作為すらない、というか。
本当は演奏者自身も消してしまいたいのだけど、そこまでやるとそれはそれであざといので、
ぎりぎり残る個体性は放置しておく、みたいな。
エッヘン、これが虚飾のないドイツ音楽の本流さ、ってことでしょうか。
エッヘンってドイツ語っぽいな。シャウエッセン、なんてな。
また、高名な作曲家の作品でもそうでなくても、
音楽はそう大げさなものじゃない、どの音にも固定した意味なんかない、
というようにも聴こえます。

クラシック音楽は、
音楽室に並んだ肖像画のモデルになった人たちが現役だったころには「古典」じゃなかったし、
これはアレンジというかもはや二次創作なんじゃないかみたいな演奏も許容されてたらしいですが、
トスカニーニが活躍した時代くらいから「譜面どおり」が原則です。
演奏家のインタビューなどを読むと、
譜面どおりに、とか、作曲家の意図を忠実に表す、とか、
似たような発言にしょっちゅう出くわすのですが、
アウトプットされてくる音はことごとくオレ流アタシ流ってとこが爆笑です。
  1. 2020/10/02(金) 19:20:51|
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『リズと青い鳥』~傘木希美

2020.8.7(金)

みぞれ わたし、オーボエがしゅき。オーボエはのどみなの。だから。
のぞみ ・・・。
みぞれ どひたの?
のぞみ リード、口から離してしゃべれば? 
みぞれ あ、そうだね。
のぞみ なんで私がオーボエ?
みぞれ おかしいかな。
のぞみ (もう好きしろめんどくさいや)・・・それがみぞれの世界なんだね。
みぞれと話してるとさ、ときどき(てかしょっちゅう)銀河が見えるよ。
みぞれ いいな、それ。
のぞみ え、何が?
みぞれ 銀河。見てみたい、UFOとかも。
のぞみ そこなんだ(おまえがUFOだよ)。

そんな二次創作妄想会話が止まらない、『リズと青い鳥』が、2020.7.31WOWOWで放映され、
ふだんはこの局でホラー映画、ゾンビ映画をチェックしている豹専務に頼んで録画してもらい、
ピザを食べながら鑑賞しました。
『リズと青い鳥』は京都アニメーション制作のアニメ映画です。
原作は武田綾乃さんの小説『響け! ユーフォニアム』シリーズの第二楽章(宝島社文庫)。

舞台は高校の吹奏楽部、鎧塚みぞれ(オーボエ)と傘木希美(フルート、たぶんパートリーダー)の
共依存チックな引力関係が、進路が分かれることを機にほどけていく、というようなお話。
みぞれはコミュニケーションに難ありの♯系短調な不思議ちゃんキャラ、
中学一年の春、希美に誘われて吹奏楽部に入り、オーボエを担当します。
希美に声をかけられなかったら部活もやらずオーボエとの出合いもなかったので、
みぞれにとって希美は非常に大きな存在ですが、
希美以外の人に対しては自動的に結界が張られてしまい緊張してしまう、
希美だけが唯一の人里との接点、というか希美イコール人里といっても過言ではなく、
家族以外の人間関係はすべて希美に託している図になっています。
だから、「希美がいなければわたしは無」。
一方、希美は友人が多く、後輩にも慕われている♭系長調の明朗キャラ、
一年生のときに上級生と衝突して退部したり、二年生になって復帰したり、と、
ときどき熱血が昂じて猪突猛進になりますが、おおむねヴィヴァーチェな高校生活を送っている。

ふたりの関係に溝ができる、というより、もともとあった溝が露呈してくるのは、
木管奏者で外部講師の新山先生に薦められて、みぞれが音大を受験すると決心したときです。
みぞれからこの件を聞かされた希美は、つい勢いでワシも受けるわ音大、と口走りますが、
本気で受験する気はないし、結局、彼女は音大を志望しません。
ふたりの間に生じたわだかまりは、コンクールの自由曲「リズと青い鳥」のフルート、オーボエの
二重奏部分にも表れ、部員たちをハラハラさせます。
「仲たがいするならコンクール終わってからにしてくれー!」と叫びたい気持ちでしょうな。

希美がみぞれを微妙に避けるようになるのは、みぞれの音楽の才能への嫉妬に起因する、
というのが、おそらく公式見解です。
原作にそういう記述があるし、ふたりに対する新山先生の態度にあきらかな温度差がある。
希美が新山先生に「私も音大を受験します」と振ってみても、あ、そう、なんでも相談してね的な
平熱の答しか返ってこず、希美のことは「高校生の部活レベルで上手い奏者」としか見ていない
ということが推察されてしまいます。
でも、このアニメ作品の傘木希美は、嫉妬からみぞれを避けているのではないように思う。
というのは、希美に潜在する可能性、前途になる前の前途のごときポテンシャルは、
まだ茫洋としていますが、そこから道が浮上してくるときには、きっとみぞれよりずっと選択肢の
数が多いからです。彼女はフルートに賭ける必要がない。
言語化されてはいないけど、彼女自身それをわかっています。
「楽器はつづけていきたいけど、プロになりたいというのとはちがう」というセリフは、
彼女の可能性がどういう性質のものかを示しています。
「新山先生は自分には受験を薦めなかった」というのは、
むしろ音大を受験せずにおくための自分への言い訳であって、嫉妬とは結びつきません。
つまり、希美は会社や店の経営者でも法曹家でも教育者でも職人でもなんでも、
その気になれば進める方向が多々あるのです。
演奏家になろうとなるまいと、オーボエが杖であり灯火であり道標、
これ一択のみぞれとはそこがちがう。

なお、希美だって、本人が演奏家になりたければ、ひょっとするとなれるかもしれません。
私は音楽に関する本をいろいろと読んでみたのですが、
どうもプロの鑑定というのは当たるも八卦みたいなもので、
アカンやめなはれと言われた人、コンクールの一次予選で落ちた人が大成したり、
神童と謳われたり国際コンクールで優勝した人が消えてしまったり、
という例は枚挙にいとまがないようだ。
希美は行動力のある人なので、本気で演奏家をめざすのであれば、
みぞれがどうとか新山先生の反応がどうだったかなど3秒後にはどうでもよくなり、
自分で情報を収集し、親を説得し、どんどん動いていくでしょう。
それをしていないということは、その気がないとみていい。

では、音大の一件のあと、希美がみぞれに対して余裕がなくなるのはなぜなのか。
それは、みぞれが自分の知っているみぞれから逸脱しはじめ、
自分の宇宙の秩序(人間関係の星座図、ものごとの道理、力学など)に破れ目が
生じたからです。
希美は、周りの出来事をよく見て、把握し、ことあるごとに建設的な対応をしてきた、
よくもわるくも前向きな実際家です。
自分の理解できる範囲を相手にし、制御し切れなければできることから手をつけ、
どうにも理解を超えるものごとはスルーしてよかった。
希美が友人や後輩に好かれるのは、人との距離のとりかたが上手で、
希美のそばにいれば、自分のなかにある「開けずの間」に気づかずにすむからです。
希美自身が自分の「開けずの間」を開放、整理していれば、
この距離感覚は一段上のマスターの包容力になるのですが、
今はまだ、無自覚に習得してきた世知の域に留まっています。
しかし、高校三年のコンクール前というこの時期に来て、
みぞれが希美の方程式では解けない存在に変容しはじめた。
だから混乱する。
みぞれが音大受験を決心した瞬間(この瞬間は場面として描かれていませんが)、
それは、「希美といっしょだから」とか「部活をがんばる」とかの事情とはもはや関係なく、
将来、職業につながるかどうかもあやふやでありながら、
「これだ(私はオーボエをつづける)」と決めた瞬間です。
こういう、垂直の確信が降りてくる世界を希美は知らない。
それまでだったら「細かいことはさておき、今は演奏を完成させよう」でやり過ごせるのですが、
終盤近くの合奏練習シーンの第三楽章、みぞれのボエが炸裂し、みんなボエしか聴いてない、
という場面で、希美はおのれの底の浅さを思い知ることになります。

なんだよアレあんな豹変しやがって卑怯じゃねーかオレ全然ダメだ下手じゃんチクショー!
・・・というのが、いたたまれずに部室を出て行く希美の心の周波数。
これ嫉妬じゃないですよ。
自分の宇宙から解釈を汲み出し、音という音楽言語にするチカラ、
人が漠然と「実力」と呼んでいるその力の圧倒的な格差に打ちのめされたの図です。

大好きのハグ。
それは、相手をハグしながら、相手のよいところを列挙し合うという、
ジェンダー目盛りが男子に傾いている私は生まれ変わっても参加しないであろう儀式です
(でも勝利試合でキャッチャーとピッチャーが抱き合うやつなら勢いでやるかもしらんな)。
その大好きのハグの場面で、
希美は、中学時代にみぞれを吹奏楽部に誘った件に言及され、「ごめん、憶えてない」と返す。
その後、希美がひとりで廊下を歩いていくシーンで、中学のときのくだんの場面が回想され、
憶えてないどころじゃないということが視聴者にわかる。
ここは、『巨人の星』で大リーグボール1号の誕生からオズマに打たれるまでが、
飛雄馬の心中で走馬燈のように回顧されるのに似て、感動的です。
そういえば、最後の下校シーンで、希美が「みぞれのソロを完璧に支える」と宣言するのは、
伴宙太の「星の球はわしが受け止める」を彷彿とさせるような。
「リズと青い鳥」の練習を通じて、劇的に量子跳躍したのは、じつは希美のほうかもしれません。
なお、曲を聴いてみると、「リズ」のフルートパートはオーボエの単なる下支えではない。
スコア(総譜)を読み、お互いのフレーズを譜面と音とでよく吟味し、
阿吽の協奏関係にもっていく必要があります。
たぶん、希美はそんなことはわかっているんだが、思考の升目がざっくりしている人なので、
希美語で「完璧に支える」と言っているんだと思う。

TVシリーズも含め、このアニメを、私はどちらかというと鎧塚みぞれ視点で見ていましたが、
「才能」というのは他者に見い出すもの、あるいは他者によって見い出されるもので、
他人軸評価だからどうでもいいや、となり、
「才能」というワードならびに概念が響かなくなったせいか、
傘木希美という「役」が興味深くなりました。
声優、あるいは映画や舞台とするなら俳優が演じるにあたり、
むずかしいのはみぞれよりも希美だぞ、という意味において。
こういう伴奏パートみたいな役、旋律じゃなくて音型や和声で語るような役は、
それが主人公でも脇役でも、
地図の「図」ではなく「地」で人物を表現しないといけないので、
繊細な演技力を必要とすると思う。
さりげないひと言、どうということはない動作に、無意識、半意識の心が表出することもあり、
それを見抜いていないと、紋切型の浅薄な人物像になってしまう。
オカルト語で言うなら、
みぞれは宇宙人がウォークインしても、周波数を1/2とか1/4とかに下げるだけでイケますが、
希美のほうは相当テラン(地球人)を研究しないとできません。

それはそれとして、次作の『誓いのフィナーレ』で「リズ」を通しで聴いてみたところ、
滝先生(顧問)loveの高坂麗奈(トランペット)には申しわけないが、
「リズ」の年度で全国大会に行けんかったのは滝先生の指揮のせいと思うわ。
ていうか、コンクールでなく演奏会であっても、これではいかがなものかと思う。
1~4楽章に起承転結のめりはりがないやん。みんな同じテンションやん。
オーボエが歌いまくる3楽章には「磁場がちがう」みたいな異郷感がもっとほしい
(半分、鳥の世界やからな、人間じゃなく)。
その異郷感はオーボエ以外のパートによって醸されるべきと思う。
前段の2楽章のドンヨリした和音や伸ばしのとこでも、
「どうなるんだ?」みたいな不穏混じりのワクワク感を喚起してほしい。
原作の小説が関西大会で金賞、でも全国には届かず、という設定なので、
それに合わせた演奏にしたのかもしれませんが、
私としては、どえらい名演で、
しかし新出校の龍聖学園の青春ヴァイブス(2011年度の精華女子高の「宇宙の音楽」
みたいなやつ)が審査員を動かし、僅差で出られんかった、
という結末にしてほしかった(これだと龍聖学園の音も入れないといけないけど)。
  1. 2020/08/07(金) 17:13:27|
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ピアノ音楽とか

2020.7.14(火)

図書館が閉まっていた間、内田光子さんの弾くモーツァルトのピアノソナタ、ジェフリー・テイト指揮の
イギリス室内管弦楽団との協演によるモーツァルトのピアノ協奏曲20番、27番を何回も聴いた。
ピアノもオーケストラも、なんてチャーミングなんだ、ニクいぜ、って感じで、まったく飽きなかった。
これがきっかけといえばきっかけになって、クラシックのピアノ音楽に、かつてない興味をもった。

ピアノ音楽に対しては醒めていた。
上述のCDだって、十年以上むかしに買って、三、四回くらい聴いて、いいな、とは思ったものの、
それ以上の感興はなく、ずっと寝かせておいたものだ。
ピアノという楽器は、1オクターブの範囲を12等分した平均律で音が鳴るようにできている。
そして、いっぺん調律したら、奏者が演奏中に自由に音程を調整することはできない。
そういう事情により、管弦楽や吹奏楽のような融けたハーモニーをつくることができないのだ。
わざと音程を少し高め、または低めにズラし、浮遊感や異次元感を出すなどのワザも使えない。
弾きかたを工夫して、ある程度はカバーできるのかもしれないが。
私に絶対音感はなく、音楽的な音感もたいしたことはないので、
ピアノの和音が合っていないことは「融けていない」という違和感でしかわからないのだが、
その微細な濁りのために、低音部で濁点がつき、中高音部でkとかtとかの子音が強調されたような
ピアノの打鍵音が変に目立って聴こえてしまう。
管弦の合奏音楽を聴き慣れていると、
ピアノの和音には、緑色に黄緑色が混じっているような混濁感を覚える。

しかし私は、ピアノ音楽に興味をもってから、聴きかたが変わった。
ピアノに管弦楽器のようなハーモニーを求めるのは、
タンバリンに音階をつけろとか、管楽器一本で和音を鳴らせとか言ってるのと同じ。むり。
これは楽器の構造上の特性なのだから、そんなことを期待してはいけないのである。
そうではなく、複数の音が鳴っているこれすなわち和声音楽、という概念をやめて、
左手で伴奏、右手で旋律、あるいは片手で二声部弾いてトータルで四ないし三声部、とか、
それぞれの声部が別々に動いて、寄ったり離れたり重なったりしている多声音楽、
として聴いていると、じつにおもしろいのである。
フェアリー系のentitiesが跳ねたり、図形を描いたり、嬉々として動き回っているみたい。
別々に動いてはいても、まるで無関係ではなく、でも寄り過ぎない、
この距離感に音同士のテレパシー的連帯を感じる。
そういえば西洋の音楽は、楽器が発達して器楽中心の和声音楽ができるまでは、
複数の声部が別々に動く多声音楽(ポリフォニー)だった。
私の聴きかたは音楽学的にはまちがっているかもしれないが、そのへんはどうでもいい。
ともかく私は、ピアノ音楽を、複数の音の流れとして聴いている。

図書館が開いてからは、ピアノ音楽に関する本も何冊か読んだ。
クラシックのピアノ音楽というジャンルは、ヴァイオリニストや指揮者と並んで、
至高の天才伝説が渦巻くジャンルであり、
「(著者推しの)このピアニストがいかに凄いか」「いついつの名演がどれだけ神懸っていたか」
を語る本が多い。あとはコンクールに関するエピソードや、業界事情を綴ったエッセイ、
音大受験生や勉強中の人に向けた「この業界甘く見んな。自分は天才じゃない、という前提で考えろ」
という主旨のアドバイス本とか。
私の宇宙からは、いつしか「才能」という概念がなくなったが、こういうのは、
「自分の宇宙図書館にあるテキストに書かれた人物、名演、業界事情、アドバイス」などとして、
自分ごととして読む、そういう角度を使って読んだら、いずれも興味深かった。

ある大御所ピアニストには、練習サボりの逸話が多い。
ほとんど準備なしにコンクールに臨み、予選を通過してから本選で弾く曲の譜読みをはじめたとか、
本番の日が迫ってくるなかギリギリまで練習しないとか。
こういう話は一般的には天才伝説のひとつとしてかたづけられてしまうが、
これは天才ゆえに云々という話ではない。
天才であってもなくても、そういうタイプの人はいる、という話である。
私の推測だけど、この方はゾーンに入りやすいのだ。
というかピアノを弾くという行為自体が、意識の変性と深く結びついている。
だから、何かの拍子に練習中にゾーンに入ってしまわないように、
潜在意識的に練習量を必要最小限にセーブしているのではないか。
ゾーンは呼ぶことはできないし、
起きたあとで、あの境地をもう一度、などという了見が刻印されてしまうと、
それはどんどん逃げていくからだ。
それに練習によって見取り図ができると、それを超えられなくなってしまうこともある。
練習して仕上がった曲はもうその曲じゃない、譜面で作曲家が伝えてきた音ではなくなる、
そういう感覚は、なんかわかる。
とはいえ技術的な記憶は束ねておかないと五感的な音にならないわけで、
そのへんの加減が「本番ギリギリ」なのかもしれない。
私だって、もし人前で楽器を演奏しなくちゃならん破目になったらしこたま練習すると思うが、
公開チャネリングとかだったら絶対練習なんかしないよ(公開チャネリなんかやらないけどな)。
演奏に限らず何ごとにつけ、準備しすぎてコケる、ということはあるある。

かと思うと、技術的な記憶の離散速度がすごく速くて
二、三か月もブランクが空くと、すっかり指が動かなくなるという奏者もいる。
離散速度が速いのは、記憶の設計がおそろしく緻密だからである。
「ゾーン? へっ、ヌルいこと言ってんじゃねーよ。
うまいく時もあるしいかない時もあるそれはしょうがねえんだ運命を受け入れるしかねえんだ」
という人もいる。

才能は他者に見い出すものであり、他者から見い出されるものである。
「誰にも理解されない才能」だって、理解する他者を前提とした表現である。
したがって、客体化された(物でできた)大勢の他者が、
客体化された(物でできた)自分と同じ仕様で存在する、
という思い込みからなる3次元世界でしか通用しない概念である。
客体軸すなわち他人軸による評価といってもいい。
適性というのもまた、蓄積された経験則という目に見えない統計のようなものを根拠としており、
これも他人軸、客体軸による判定である。
どちらも、非3次元では関係ない。
才能や適性があってもなくてもどっちでもいい、どうでもいい、のではなくて、
辞書を引いたりネットで調べたりしないと書けない漢字のように遠くなってしまうのだ。
3次元では、ひとつの統覚視点(私)がもつさまざまな傾向のうち、
マーケットに乗ったり、特定の分野の活性化に貢献するという形で、
3次元の維持に役立つものだけを才能とか適性とか呼んでいる。それだけのことである。

『ソース』(マイク・マクマナス/ヴォイス刊)という本には、
「適性があると言われたからといって、それをやる必要もなければ、好きになる必要もない。
しかし、適性がなくてもワクワクすることなら、やったほうがよい」(「5章 能力のウソ」より)
と書かれている。どころか、
「ワクワクすることや好きなことに適性がないと思う場合は、なおさらそれをやろう」
とまで。
私が思うに、そのワクワクする感覚(周波数)が3次元の推奨コースに乗らないからこそ、
頭のなか、心のなかにある観念世界である3次元の剥離、そこからの離脱を促すのである。
職業も、プロフェッショナルも、アマチュアも、3次元の概念である。
ワクワクする感覚(周波数)の目的はそれ自体であって、成功や業績ではない。

いや、3次元の世界だって、結果が才能や適性と比例するとは限らない。
『ソース』を最初に読んだとき、目うろこだったのは、
「世間には能力に関する誤った通念があり、成功するには才能が必要だと信じられている。
でもそれはウソ。技術や能力のない人が仕事に就いて成功している。
周りを見渡してみてください、本当に有能な人がいったい何人いますか?」
というくだりであった。
すぐに連想したのは、近所のベーカリー。
豹専務が「不味い」と言っていたそこのパンを食べてみた私は、
未知の不味さに戦慄を覚えて、以後、近づかないようにしていたのだけども、
何年かたって、まだ営業しているということは味が変わったのかもしれないとほのかに期待し、
ふたたびその店のパンを試しに買ってみた。
何ひとつ変わっていなかった。
妙にねっちゃりした食感で、口のなかにイヤな油分のような後味が残る、この味・・・。
しかし、その後も店は営業しているし、わざわざクルマで買い求めにくる人もいる。
創業以来、店は頑なにこの不味さを守りつづけているようだ(もう二十年くらいにはなると思う)。
さらに、私はある日、店の近くの道路上で、
女子高生とおぼしきヤング女子が、連れの男子に、
「ここのパン、めっちゃうまいよ」と本気で推薦していたのを聞いてしまった。
素人の失敗作でも、ここまで不味くするには何か工夫がいる、と思えるようなその味の虜に
なっている人が、この地域には一定数いるらしい。宇宙人だろうか。
店で製造販売されているのが、
お好み焼きやたこ焼きの食感をそのまま残して味だけパン方向にスライドさせたような、
パンという食品の概念を壊しかねないものであることを考えると、
この現象は、立地がいいとか固定客を育てるのに成功したとか運がいいとかでは説明できない。
謎。

<ピアノ音楽関連でとくにおもしろかった本>

書名/ピアニストが見たピアニスト
副題/名演奏家の秘密とは
著者/青柳(あおやぎ) いづみこ
発行所/株式会社 白水社
発行年月日/2005年6月20日
価格/2,000円+税
*著者がピアニストなので、椅子の高さとか、身体動作の細部、演奏前後の心理状態など、
当事者寄りの描写が秀逸。読んでいるうちにピアノが弾けるような気分に(笑)。
取り上げているアーティストは、リヒテル、ミケランジェリ、アルゲリッチ、サンソン・フランソワ、
ピエール・バルビゼ、ハイドシェック。

書名/世界最高のピアニスト
著者/許 光俊(きょ みつとし)
発行所/光文社(光文社新書536)
発行年月日/2011年8月20日
価格/760円+税
*個人的に、いちばんたまげたのはあとがき。自分にはない発想だった。そんな人もいるんだ。
  1. 2020/07/14(火) 18:55:38|
  2. 音楽
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取材を受けた(追記あり)

2019.5.16(木)

一昨日、五目舎という会社の代表、西塚さんという方から取材を受けた。
五目舎というのは、出版各社から委託された出版物の制作をしながら、
スピリチュアルなコンテンツを配信している会社であるとのこと。

株式会社 五目舎 ブログ2019.5.14「デムパ会議?」
http://gomokusha.co.jp/2019/05/14/%e3%83%87%e3%83%a0%e3%83%91%e4%bc%9a%e8%ad%b0%ef%bc%9f/

編集者などの出版関係者が「取材」という場合、
記事などの枠が決まっていて、調査や原稿作成のために行うものと、
企画もしくはその前段階で情報収集のために行うものとがあって、
今回の場合は後者である。早くいえば雑談だ。
コンテンツにするかしないか、するならどのような形でまとめるのか、
といったことは西塚さんにおまかせしたので、どうなるのかはわからない。
会談だけで終わったとしてもかまわない。

私の宇宙に現れた西塚氏という人物の像にうかがったところ、
西塚氏の「私」視点の宇宙に現れた“みけ”なる人物の像に関心を持たれたのは、
この人物像の筆名で2016年秋に公開された『ようこそ☆ゼロポイントフィールドへ』が、
言葉で具体的にできるギリギリのところまで書いてあることに感銘を覚えられたためだという。
読者さんからも同様のご感想をいただいたことがあるが、
これは私の才能がホトバシっちゃったせいではないのである。
前にも書いたけど、私には象徴を直覚的に理解する力がなく、
五芒星とか神聖幾何学チックな図形とかを見ても全然響かず、
「一を聞いて十を知る」の真逆の「十聞いてやっと一がわかる」性質なので、
あのような、またこのブログの諸々の記事のような、シツコイ文字列にしないと、
自分自身が何がなんだかわからないためだ。
私は全般、「なんとなくそう感じた」というだけで動いているけれども、
ジを入力するときだけはなぜかシツコイ。まー趣味の問題だね。オタク的というか。
ある種の鉄道オタクの人が、電車の型式とか、時刻表を駆使した乗り継ぎとかに
こだわるのと変わらないと思う。

スピリチュアルの勉強とか、ほかの勉強も、してないし嫌いだし、
地球とか人類とかに奉仕したいとかって、発想したこともないし、
アルクトゥルスとか銀河にもとくに貢献してるつもりないし、
母語のウツクシサとか母国の伝統とかにも興味がなく(最近、小林秀雄の本を読み直して、
なるほどすごいなって思ったけどそれでオワリ。古文へのセンスがないので細かいとこまでは
リーディングできてない)、
かと思えば、アニメ映画『リズと青い鳥』の傘木希美×鎧塚みぞれの関係について、
原作『響け! ユーフォニアム』を読んでないし興味もない豹専務に小一時間もしゃべりつづけて
迷惑千万だし(のぞみぞれは百合じゃなく、こじれた引力関係にあります)、
ま、豹専務も聞いてないと思うけど、
ほんとひどい。
私ならこんな人に取材しようと思わないよw

才能とかミッションとかってさ、
客体‐空間‐時間思考システムの枠内でだけ通用する概念だと思う。

超ミラーボールのような、無限多面体というようなものがあるとして、
その面のひとつひとつが統覚視点「私」で、
それぞれの視角で宇宙を感じ即出現させている。認識し創造している。
何ごとかを当事者として認識し創造する、
そういう認識形式、創造形式は、無限多面体がもつ性質です。
だから、「私」という認識形式、創造形式はひとつしかない。視角は無数だけど。

この無限多面体は、有かつ無(ゼロポイントフィールド)を対象化してできた
0/1帯域(有もしくは無)の喩えです。
どの視角も、その視角を通して無限多面体というワンネスなのであって、
無限多面体の部分ではなく、どの視角にも特定の役割はありません。
その視角で認識し創造された、その視角からの宇宙。それだけ。
それだけで全面的に肯定されており承認されており、充溢しており、完全です。
0/1帯域すなわち無限多面体に関心というものがあるとすれば、
「私」という認識形式、創造形式を無数の視角で使うということだけで、
特定の目的を追究するために各面に役割配分しているわけではない。

要は統覚視点「私」であればいいわけで、
何をすればいいかとか、成果とか、他者への貢献とか、まったく、ひとつも関係ありません。
統覚視点「私」であるとき、
そのことに自足し切って、ただ「私」であることがどういうことかわかっているとき、
それがわかります。何を成すとか認められるとか貢献とかいう発想を一切してないから。

でも、無限多面体の一部に、客体‐空間‐時間思考システムという網がかかると、
そこには、
①統覚意識「私」を客体(身体、心など)の範囲に制限する、
②客体‐空間‐時間思考システムを「私」に覚らせない
(時間思考で言い表すと、思考システムを維持しメンテすること)、
という目的ができて、
制限された「私」は、客体‐空間‐時間思考システムに奉仕する従僕のような存在になります。
システムのコントロールを受けることで①②の目的がかなうので、
夢と気づかず、客体‐空間‐時間思考による夢を見つづけることが「私」の仕事になります。

しかし、これはマインドの深いレベルで無自覚に起きていることで、
具体的には、客体‐空間‐時間思考による夢に登場する集団のなかで、
あるいは不特定多数の他者による社会という思考を設定して、
そこでの相互承認、成功、幸福、自己実現、利他をまとった自己実現、
といった目標が追究されます。
こうした目標を追究することで、「私」の制限枠(身体、心、社会的役割など)への同一化が
進み、追究にのめり込むほど上述②の目的にかない、
深いレベルに仕掛けられたセルフマインドコントロールが強化されていきます。
この目標追究は、客体として自分や他者が実在するという前提で行われるので、
自分と仲間(パートナー、家族、従業員など)の客体の維持メンテも必須です。
で、生存を維持確保しつつ、こうした目標を追究していく、
そういうゲームを上手にプレイして、
まさしくゲーム的な意味でのステイタスを上げられる能力を才能という。
目標追究の分野が絞り込まれていれば、ミッションとか天命という言いかたもできます。

才能が発揮されるには、
客体としての他者、あるいは、
心や魂という範囲に制限された「私」のマインドに住む他者像(亡くなった親、神など)が必要で、
そうした他者による承認からフィードバックを得て、
最終的には自分で自分を承認することになります。
なので、他人に披露する予定なしに、
部屋で独りバク宙ができても、それは才能とは呼べません。

一方、客体‐空間‐時間思考システムから醒めている統覚視点の「私」、
夢見手の「私」は、
全感覚像の認識即創造という形で夢を見ているだけで、
制限され暈(かさ)をもった「私」が環境に働きかけて承認を得るというゲームに興じていません。
そうなると、どんな才能もいらなくなります。

あ、『リズと青い鳥』(←まだ書くか)ののぞみぞれの引力関係がこじれるのも、
背後に管楽器の吹奏能力と楽想表現能力という才能問題、
それと他者からの承認という問題がからんでいるからなんですよ。

最後になりましたが、
西塚さんの「私」宇宙に現れた“みけ”なる像からもたらされた情報が、
何らかの参考になればさいわいです。
サイキッカーでもなければスピリチュアル意識も低い私の話を長時間にわたりご傾聴くださり、
まことにありがとうございました☆
あと最後の最後、五目舎の西塚さんのブログを読んで、
「西塚氏ってスピ界隈では知る人ぞ知る」的な情報をリークしてくださった5ch住人さん、
この場を借りてありがとう。
しかし、巨大掲示板に出入りしてる人ってすごいな。
私、スレッドを追う根気がないの。がーるずちゃんねるですら幽体離脱しそうになる。

5月18日(土)

取材のなかで、
「ゼロポ本に書いたことは、すべて般若心経に書かれています。
あれを字釈にこだわらず、音楽や短歌を聴くように読めばリーディングできるはず」
というような話をした。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色・・・という、
あのみごとなダンス、キレと美しさと微笑みは、しかし、
私のリーディングでは0/1帯域(知性界)に現れた形です。
言語だの思考だの遠々届かぬ、無窮のコヒーレンス。
ゼロポは終盤で出てくる、
「ギャーティーギャーティーハラギャーティーハラソーギャーティー」
っていう、騒々しい音です。哄笑です。草草草・・・みたいな。

般若心経は全篇冗談のよう。ていうか宇宙が冗談なのか。
宇宙が冗談であることは、すでに池田晶子さんの著書に書かれており、
これまた私のオリジナル着想ではありません。
  1. 2019/05/16(木) 22:47:34|
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Author:みけ@猫科ホールディングス
アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、
イタリアの美少年のような豹専務(♀)が同居人。
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