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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

そうだったのか『音大生の生態』

2020.4.21(火)

豹専務から回ってきた『愛すべき音大生の生態』(辛酸なめ子/PHP)という本を読んだ。
そこに自分的には驚きの情報が。

この本は、漫画家でコラムニスト、イルカも憑いてる辛酸なめ子さんが、
主に首都圏の音大ならびに音大生に取材して書かれたエッセイ文体のレポート。
ピアノやソルフェージュやマリンバを習い、中高とマンドリンの部活にいたにもかかわらず、
美術の道に進んで、気がついたら楽譜も読めず指も動かなくなっていた、
そういう部外者的スタンスで、努力家で天然な音大生の生態が描写されている。
とはいえ、音大生にはある程度のコミュニケーションスキルも必要らしい。
「もし私が音大生だったら、伴奏者が見つからず卒業できないかもしれない」
という恐怖は、人ごとではない。

私が衝撃を受けたのは、「音大生と霊感」の章にあった、
音大生には霊感の強い人がけっこういる、という記述。
武蔵野音大の学生さんによれば、とくに声楽科にその傾向がみられるという。
その文章を目にして、私のアストラル時計がぐわっと左回転し、
時空は前世紀のトイレ台所共同の4畳半アパートに飛ぶ。
共同とはいってもわりとスペースがあり、コンロも4つあった台所で、
よくバッハとかヘンデルとかバロック系の歌を歌いながら調理していたmさん、
彼女は、音大ではないが、ある大学の音楽科声楽専攻の学生だった。
この人が「見える」人であり、mさんの部屋に何人かで集まってお茶を飲んでいると、
「今、あなたの部屋では物が浮いてる。冷蔵庫とか、机とか」
「そこ、通ったよ、うしろ」などと、知りたくないことをいろいろ教えてくれた。
チャネリングもできる人で、瞬時にナカミが交替する、というスタイルで、
4体のentitiesと交信していた。
このmさんが、あるとき、被験者の未来を読む、みたいな企画で、
私の背後を凝視し、ナンダコレハ!? という表情をして、
「・・・髪の長い、すごくキレイな人がいる。性別不明だけど」と言う。
当時はまだガイドとか宇宙存在という言葉はなかったので、
「守護霊」というような表現だったと思う。
mさんの知る限りでは前例がなく、珍しいentityであったようで、
興味深げに仔細をリーディングし、
「あなたね、(この守護霊のせいで)たいへんなことになるよ」
と告げてきた。加えて、
「わっ、うわぁ・・・私なら拒否しないけど・・・がんばってね」
何が可笑しいのか、人ごと目線で微笑みつつ、謎のエール。
今にして思えば、「たいへんなこと」とは何か、もっと突っ込んで訊けばよかったのだが、
当時の私は精神世界チックなことには関心が薄く、
ネタとして話半分にしか聞いていなかったのだ。
それから幾星霜、
瞑想中に不思議な図書室を訪ねるビジョンを見たり、
それを今はなき伝説のブログサイトの記事に書いたら「自分もその存在を知っている」
というコメントをいただいたり、
初見で弾けといわんばかりの指導教官のムチャ振りレッスンをへて、
件の中性洗剤もとい中性存在はソフィア@シリウスであることが判明する。
もしかすると私は、いまだ「たいへんなこと」の渦中にいるのかもしれない。

見えたり聴こえたりするからといって、
声楽科の学生さんが人格的に円満というわけではなさそうだ。
取材を受けた学生さんたちの証言によれば、
テノールは自分の話しかしない人たち、ソプラノはお姫様魂質で、
バスやバリトンは偉ぶっているとのこと。
アルトには言及されていないが、
自分自分自分、あたしあたしあたし、という人たちに囲まれて、
アルトだけが無事とは思えないので、何かしらクセはありそう。
ちなみに上述のmさんはメゾソプラノだった。

本書まえがき「はじめに」によれば、
音大の学祭では「ハノン速弾き大会」なるオタク的イベントが開催されるという。
校舎の地下とか人気(ひとけ)のない研究室とかで、
トランペットハイノート当て大会、
『ポロヴェッツ人の踊り(ダッタン人の踊り)』1stクラリネットパートをA管持ち替えなしで
B♭管だけで吹き通そう大会、
二次創作オペラ『スカルピア』(原作『トスカ』でまさかのカヴァラドッシ×スカルピアlove)、
なども催されていたら、と妄想すると楽しいな♪ひひひ。

<本のデータ>
タイトル/愛すべき音大生の生態
著者/辛酸 なめ子(しんさん なめこ)
発行所/株式会社PHPエディターズ・グループ
発売元/株式会社PHP研究所
発行年月日/2020年3月24日
価格/1,300円+税
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  1. 2020/04/21(火) 21:20:18|
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ライトワーク

2020.4.16(木)

むらむら、めらめらと、反発やら疑問やらが湧いてくるコンテンツに出合うことがあります。
ネットに限らず、印刷された制作物、電波の番組などでも。
ことによると、このブログの記事がそうかもしれません。
額のへんのライトで照らしてみると、そこにはこんな透かし文字が。
①こちらはあなたが向かう方向ではありません。
②ポジ転してみてください。エッセンスを受け取れます。

①も②も、統覚視点の「私」まで後退して、
むらむら、めらめら波をゼロポに還すと、オートマチックにわかります。

単に自分の波動が下がっててノイズを拾ってしまうという場合もありますが、
引っかかったり、気になったりするのであれば、縁のある証拠。
でなければ印象に残りません。
「何某、大っ嫌い!」といった直球拒否宣言も、
「これこれこういうところが残念」といったディスペクト分析も、
+-のないスカラー値にすると愛の告白。
心のなかで自分版の当人を召喚して尋問だのお説教だのはじめると、
ノーミツな愛のオペラになります。
私の書棚には『わたしの嫌いなクラシック』(鈴木淳史/洋泉社新書/2005年発行)
という本がありますが、これを読んで、
「そこまで言うのなら聴いてみよう」という気になった曲、演奏がいくつもありました。
批評文を書かれる方は、そのへん、生理的にわかっておられると思います。
嫌いにすらなれない人物、制作物、状況はリストに挙がりません。

先だって私は、絶妙につまらない漫画を4巻の途中まで読んでしまい、
「つまらなんだ。けしからん!」と吼えていました。
漫画を買ったのは豹専務ですが、彼女も「はずれだった」と言っていた。
豹専務がその本を買ったり、私が途中まで読んだりしたのは、つまらなさが絶妙だからです。
紹介文とかを読んだりすると、登場人物の設定は異色なのですが、
中身を読むと異色なのはそこだけで、あとはありきたりだったのですよ。
てか蓮實重彥氏の表現を拝借すると「凡庸」かつ「説話論的磁場」にズブズブですよ。
しかし、私は漫画家さんや出版社を批判する言葉を大量に発したりせず、
統覚視点までバックして、疲労とか失望とかの包装紙に包まれたその感覚を、
まるごとゼロポに還しました。
結果、冒頭の①②のようなことが起き、またひとつ、非3次元化が進んだのだイェー☆

集合意識とはじつは個人的なもので、すべての世間は自分の世間なのですが、
その自分版の世間比で、自分版の大勢からはずれた変わった嗜好とか、ライフスタイルを
していると目される人がいたり、
一般的とされる趣味嗜好からはずれるジャンルというのがあります。いわゆるオタク的世界とか。
変わった人が変わったジャンルを好むとは限らず、
外見は一般的な人の書棚とかブックマークが変態だったり、その逆だったり、
その人独自の評価基準やカテゴリーがあったりと、いろいろですが、
とにかく変な人がいたり、変な世界があったりするわけだ。
私の場合は、自分自身がさまざまな点で変満載。
そうした変な人、変な世界に対する、私版の世間の許容度は、どんどん弛くなってきています。
とてもいいことと思う。
しばらく前に、マツコさん系のテレビ番組で、
推定高年齢の地下アイドルという方(女性)のイタイタしいパフォーマンスを見たのですが、
こういう人が好き放題できるというのはすばらしいことです。
私にとっておもしろいかどうかは別として。
これが昭和の御世なら、前半ならヘタすりゃ座敷牢に入れられて横溝正史的世界にイン、
後半でも成田空港で「ぎぇーっ」と叫ぶ破目になるでせう。
成田空港で奇声を発するのは『天人唐草』(山岸凉子)の主人公、岡村響子三十歳、
諸事情により、髪を金髪に染め、ひらひらのロングドレスを着用して奇行に及ぶのですが、
令和の今日なら、この外見は狂態を表徴してはおりません。
四十、五十でひらひらヴァイブスを好む女性など、ザラとは言わないまでも稀少ではありませんし、
六十、七十の男性がやらかす可能性だってあるからです。
そのあと、偶然、ヤフーのサイトで美輪明宏さんのインタビュー記事を読み(ヤフーのアカウントを
もっている人限定 https://news.yahoo.co.jp/feature/1601)、
座敷牢世代の方のパなさに感じ入りました。
私のマインド世界では、記憶情景とか時代感覚と名付けた波動データが並列に格納されていて、
「人生」を構成していないので、
幼少期とか十代のころといってもアルバム的なリアリティはないのですが、
むかしはもっとキツキツだったように思います。
性別役割、年齢役割が固定していたり、結婚適齢期という概念がガチで活きてたり、
入力できないようなシャレにならない差別語が家庭でも学校でも飛び交っていたり、
部活、バイト先、会社がブラックなのは当たり前、いじめパワハラ当たり前、
明文化されない掟が山のようにあって、呼吸困難で窒息しそうでした。
実際、私は実家を出るまで虚弱で、心身ヘロヘロでしたし。
それが、私の感覚では21世紀に入ってから緩和し、とくに2010年代以降、
高圧だった同調圧力が萎んで、変な人、変な趣味嗜好は放置されるようになりました。
これはあくまでも私版の世間の変化なので、
別の統覚視点から見たら、旧いキツい世界も健在かもしれません。

けれども、世間が変な人、変な趣味嗜好に寛容になったことと、
変な当人のありよう、趣味嗜好のありようとは別件だ。
「ここまでだったらいいですか、許容範囲ですか」
「私も恋をするし屁もします」
「家に帰れば妻と娘に疎外されてるふつうのお父さんです」
「スターシードですみません。けど安心してください、迷惑はかけませんから」
みたいに、世間の顔色をうかがってネタを小出しにしたり薄めたりしてたら、
おもしろくもなんっともないっての。
そんなのライトワークじゃねーよ。
今世は二度ない、どんとやれ、創造主なら。
「変」に興味のない人たちがどう評価しようが、それが「変」に映ろうが映るまいが、
知ったこっちゃないよ関係ねーし。
岡村よ、パニエも入れろ。カラコンもいいね。やりたければだけど。
わしがそういう人を見たら、帰宅して豹専務に「今日、こんな人がいてさ」と話すかもだけど、
それだけのことだ。
  1. 2020/04/16(木) 17:57:48|
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歴史のゼロポ還し~ミシュレ『フランス革命史』を読んで

2020.1.9(木)

今年、最初に聴いた曲はベートーヴェンの交響曲3番「英雄」(カラヤン指揮/ベルリンフィル)でした。
その次が6番「田園」(ブルーノ・ワルター指揮/コロンビア交響楽団)です。
年末は9番「合唱」(ショルティ指揮/シカゴ交響楽団)を聴いてました。
そんな流れでいたところ、自治体系の文化施設のイベントお知らせ郵便が届き、
2020年はベートーヴェンの生誕250周年なんですって。
そういえば・・・と、フランス革命から逆算して1770年、プラス250で2020、なるほどね、と。
なぜフランス革命からの逆算かというと、何かの本で、
「ベートーヴェンとヘーゲルはフランス革命が起きた年(1789年)に19歳だった」
という記述を読んだことがあるからです。
19歳、これはイタいわ。「リベルテ☆キタ」と舞い上がり、紆余曲折しつつも潜在意識下で引きずって、
のちに「絶対精神」とか「歓喜」とか、浮ついたことを筆走ることになるのもむべなるかなです。
しかしその気持ちはよくわかります。
ちなみにベートーヴェンは12月16日生(射手座)、ヘーゲルは8月27日生(乙女座)です。
ちなみにロベスピエールは12歳年上で、1758年5月6日生(牡牛座)です。

昨年から今年にかけて、おフランスものにど嵌リングしている私は、
その一環として、ミシュレの『フランス革命史』(中公文庫、上下巻)を読みました。
ジュール・ミシュレ(1798~1874)は19世紀のフランスの歴史家で、
年代記や貴人の回想録だけでなく、お役所の記録や裁判記録など膨大な一次史料に当たったり、
同時代人の証言を参考にしたりもしているので(ミシュレの親世代はフランス革命リアル体験者)、
一般人の生活を掘り起こそうとする現代の歴史学の先駆けという見かたもされています、が、
アウトプットされた文章は超主観的で、偏りまくりです。
ミシュレは民衆の味方。その民衆像は、頭のなかでロマンチックに脚色されてはいますが、
仮想敵に対し集団で暴走していくときの怖ろしさ、残酷さも、ちゃんと観察しており、容赦ありません。
また、フランス革命に関しては、かなり仏華主義ブイブイですけども、
後年の「十九世紀史」では視野が広がっており、アジア、アフリカ圏の優れたところにもふれています。
ロラン・バルト(20世紀の批評家)が高く評価したその文章は、不偏不党からはほど遠く、
歴史を自分の魂色に染めてわたくしごと化して書いちゃう人なんで、
歴史書じゃないじゃん文学じゃん、と批判されてもいます。
しかし、客体‐空間‐時間思考システムがコントロールする3次元思考世界を止めると決め、
唯波動主義に走っている私としては、そのへんはどうでもよく、
私の頭のなか(マインド)が感じて創造しているミシュレ像が書いたとされる文字の翻訳と、
自分のマインドの諸感覚(諸々の周波数)との協奏がとてつもなくおもしろいのよ。
私の読んでいるのは翻訳ですが、とにかく文章が上手い。
おもしろすぎて、そのまま同じ著者の『フランス史』(藤原書店全6巻)に突入してしまいました。

『革命史』に描かれたおフランスの方たちって、身分の上下を問わず総じて軽薄で、
あんまり後先考えず、勢いで行動しちゃってる観があります。
発火しやすく燃え広がりやすいというか。
なので極端に怒り方向に振れると、とんでもなく酷いことにもなるんですが、
そのかわり鎮火も早く、怒ること、憎むことにすぐ飽きてしまい、仇敵に対してはおおむね寛大です。
第三身分(ブルジョワ)に合流した三部会の貴族議員たちが、感激して身分も特権も手放しちゃう、
という場面あって、「翌朝、彼らは後悔した」と書いてあるんですけど、
このときの会議が開かれていた時刻は深夜の二時とか三時くらいなんですね。
そんな高揚タイムに大事なことを決めちゃいかんですよ。
また、バリバリ左派(ジャコバン派)の国民公会議員が、
亡命貴族のお姫様の落魄にほだされて彼女を匿い、そのために自分の命を落としてしまうとか。
なんだそれ、『ベルサイユのばら』かよ『二都物語』かよ、って感じです。
フランス革命って、後のロシア革命とちがって革命のための実践理論がなく、
人は本来こうあるべきよね、みたいな漠然とした啓蒙思想しかなく、
大むかしのローマの共和政とか、中世の自治都市の政体とかを想起しながら、
手探りでやっていくしかないみたいなところがあって、そこがおもしろどころです。

いちばん感慨深かったのは、時の動きが速いこと。
『革命史』に書かれているのは身分別の三部会の召集(1789年)からテルミドール事件(1794年)
までの、たったの5年間ですけど、この間に数世紀もたってしまっている観があります。
フランス革命は恐怖政治に突入して悲惨なことになり、そのあと総裁政府ができたり、
ナポレオンの帝政になったり、王政復古したり、また革命が起きたりと、いろいろ変遷しますが、
政治とか経済とか、時代がどう動いていっても、もう「あの革命の前」には戻れないのです。
ゴリゴリの王党派でも、もはやアンシャンレジーム(旧体制)、ルイ14世治下の大御代なんかには
戻れないとわかっている。
革命の5年間(総裁政府期まで含めると10年間)で上も下もなく人心が一変してしまったからです。
俗にいう、京都人にとっての応仁の乱みたいなもの(?)。
もちろんこれは、私のマインドの感覚、言葉ではなく感覚(周波数)で連ねている3次元史の話ですが。
それはプルーストの『失われた時を求めて』を読んでいたときにも感じたことで、
この大河小説には、欧州各国の王族に遡るような高位の貴族、ブルジョア、プチブルジョア、
彼女ら彼らの使用人として、あるいは店や工場で働いているパンピの人々、と、
さまざまな身分、境遇の人物が登場します。
で、18世紀末の革命がどうしたこうしたと直接には言及されていませんが、
誰にとっても「あの革命」が決定的な、不可逆的な変化であり、
誰もが「あの革命」のあとの世界で語り、動いている、という感じがありました。
私がミシュレの『革命史』を読んでみようと思ったのは、
私のマインドで、そのようにして、この小説に時の量子跳躍を読んだからです。

『フランス革命史』は、あんまり前知識がなくても、
「へーそんな人がいたんだ」「そんなことがあったんだ」で了解していけば読めてしまうと思います。
が、王様や王妃様や革命家のみならず、大勢の人が戦場で、街なかや家のなかで殺されます。
『ベルばら』の最初のほうで活躍するデュ・バリー夫人(ルイ15世の愛妾)は、
イギリスに亡命していたのに、なぜか1793年秋にひょっこりパリに戻ってきて、このときに逮捕され、
断頭台の露と消えてしまいます。
同様の災禍に遭った貴婦人たちが、従容と、毅然として死に赴いていったなか、
この方はぎりぎりまでみっともなく命乞いをし、
ために執行人も仕事を息子に頼まざるをえなかったらしいですが、
そのために周りで見ていたパリの人々は、
「もしかすると、今の政治(恐怖政治)はものすごく非道いのではないか」と思いはじめたという。
もっと早く気づけよ! って感じですが、連日の粛清でチを見慣れて、頭が痺れてしまっていたようだ。
この本に限らず、またおフランスに限らず、歴史には暴力の嵐が吹きまくります。
戦争、政敵の暗殺、処罰、反乱、反乱の鎮圧、宗教弾圧、宗教裁判、奴隷売買・・・等々、
また暴力ではありませんが、疫病、飢饉、災害による死者も万人単位で累々です。
文化史上では、美しい芸術作品が多数制作されたり、ユニークな思想が開花したりしているし、
局所的には平和や人権の向上に尽力する行為も出てきますが、
総じて歴史は暴力と災厄の連続です。
少なくとも私のマインドではそう。
これを当該地域の物質製の過去の出来事、と受け取ってもいいのですが、それは3次元思考であり、
脱3次元に向かうと、それらは自分のマインドで生じている非五感的な感覚(周波数)である、
自分の宇宙で起きている自分ごとなのだとわかります。
なので、私は、この荒ぶる血祭り感覚というのを、
加害者視点の周波数も、被害者視点の周波数も、区別なく、全部、ゼロポに還していきました。
全6巻の『フランス史』の中世史(1、2巻)なんて、
2、3ページおきに懲りずに大量出血しているといっても過言じゃないくらいなので、
章単位とか時代の区切り単位でまとめてゼロポに還しました。

これは歴史ものに限らず、現代のニュースとか、
小説、漫画、映画、演劇などのフィクションであっても同じです。
事実か事実でないかという区別は3次元思考では重要とされますが、非3次元では関係ありません。
興味がなければ、わざわざ踏み込む必要はないのですが、
興味のある分野のコンテンツに接していて、これは酷いとか、理不尽と感じる場面に遭遇したら、
あるいは逆に「ざまあみろ!」と復讐心が満たされたり、反駁したくなったりしたら、
その感覚(周波数)をゼロポに還すなり、他の方法によるなりして、手放すとよいと思います。
そうすると、大事なエッセンスだけが残ります(私の場合だと、上述の「時の量子跳躍」とか)。
メディアに載ったり、制作物になっているコンテンツには、
五感的な感覚を巻き込んで起きる、3次元でいう生活上の出来事からはなかなか表面化してこない、
自分の宇宙と合わない感覚(周波数)を浮かび上がらせる効能があり、
それらを手放すことによって、
言葉やイメージ情景になっていないマインド(いわゆる無意識)の脱3次元化を促すのに役立ちます。

<本のデータ>
書名/フランス革命史(上・下2巻)
著者/ジュール・ミシュレ
訳者/桑原 武夫、多田 道太郎、樋口 謹一
発行所/中央公論新社
発行年月日/2006年12月1日
価格/上下とも1冊1,466円(税込/2020年1月現在)
※なお、この著作は同発行所の「世界の名著」シリーズに収録されており、私はこのシリーズ版で読みました。
2段組で字は小さいですが、図書館によってはこのシリーズをまとめて置いてあるところもあり、
このシリーズをチェックしてみるという探しかたもあります。
  1. 2020/01/09(木) 16:48:05|
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ハスミン

2019.6.2(日)

ハスミンこと蓮實重彦さん(本来「蓮」と「彦」は旧字体)の本に、なぜか、
音楽を聴くようにしてハマっている。
映画でも本でも、どんなジャンルであれ、つまらん制作物やパフォーマンスを思いついたり、
つまらん制作物やパフォーマンスが流通する構図を、ハスミンは「凡庸」と呼ぶのだが、
時空を超えて繁茂しはびこる凡庸さに対して、キラリと輝く才能があるのではなく、
「凡庸vs.才能」というこの見かたこそが凡庸だとおっしゃる。
メマイを起こすような傑物は、このような対立図式なぞ思いつけないアホから生じると。
しかし、アホを精神とか魂とかの形而上領域に押し上げて神聖化し、聖俗の構図をつくるという
また別口の凡庸発想もあり、これまたベタでつまらん、
アホは放っておこう、放っておいてもアホはおもろいのだからそれでよろし、
じゃなくてさ、つまらんものはつまらんとハッキリ言おうじゃないか、
それがイタい黒歴史や勘ちがいの白歴史にもとづく物語に支えられてエバってるだけだって、
赤裸々に暴露してさしあげようじゃないか、
つまらんものをつまらんと言えなくしている、
さらには周到にもつまらんものをつまらんと気づかせなくしているこの空気、
これは空気じゃなく下心満載の臭気なんだってハッキリさせよう、
明日からといわず、今すぐできる換気のために。
・・・というのが、ハスミンのわくわくである。おそらく。
この方は、自分がアホじゃない、
アホはテンネンだから、なろうとしてなれるもんじゃない、
構図だのメカニズムだのが見えてしまうお利口な凡夫で、
凡庸さから逃れられないと知っている、と思う。
それならそれで、なんとも残念なお利口さを活かして、
つまらないものはつまらないと明言することも含め、
自称凡夫なりのおもしろどころを追究していっている。
その(謙虚さではなく)冷静さ、ではなく、貪欲さを、私はリスペクトする。
(それに誰であれ、知識や経験に拠っていると、お利口な凡人にさえなれない。
知識や経験に拠っていては、構図やメカニズムなどは見えないからだ。
知識や経験は、それが得られるプロセスがおもしろければよい。それ以上でも以下でもない。)
ただ、ハスミンが推すコンテンツを私はおもしろいと感じられないという趣味のちがいはある。
あと、どうでもいいことだけど、極私的には贔屓心が減点されてしまう項目として、
この人、骨の髄までつるんとノンケなんだなぁ、と思った。しかしほんとどうでもいい。
ミシェル・フーコーはゲイだったけどね。ロラン・バルトもね。それもどうでもいいが。

『表層批評宣言』(蓮實重彦/ちくま文庫)が書かれた1970年代の終わり、
つまらなさが蔓延していたらしい文芸業界には、
深みとか高み、あるいはあからさまに精神とか魂といった類の言葉で語られる、
「人間とは」的な抽象的な定義が活きていて、
そんなもの誰も知らず、
お利口な眼で見てみると、日本が戦争に敗けたとか共産主義革命の失敗色濃厚とか、
あるいは個人的な黒歴史に由来するトラウマの無自覚な粉飾決算でしかないのに、
その種の深みがあるとかないとかいうことが、
作品を評するさいのすごい権威のある評価基準になっていたらしい。
それはたぶん、「芸術」作品が存在するジャンル全般にあったのかもしれないが、
この本に出てくるさまざまな著作の著者の名前を見る限り、おじさんフレーバーがプンプンする
文芸業界は、とくにヒドかったのかもしれない。
そういう状況に「いいかげんにしろよ」と言うために、
「“人間”が、精神によって可視と不可視の超えがたい距離を一挙に踏破するというあの抽象的な
思考の産物ではなく、生まれたことによってまぎれもない死への可能性をはらんだ生なましい
存在であることは、ここで改めて指摘しなおすまでもあるまい」
「“人間”とは、(中略。うさんくさい精神とか魂とかを引き合いに出して不毛な議論を重ねるというような
空費をしない限り、といった意味の文章が書かれている)死という還元不能な事件を
はらみ続けることで、“制度”からの逸脱を生きうるもののはずである」
と、ハスミンは書く。
ぬ。
構図だのメカニズムだのが見えてしまうお利口な眼をもってしても、
「生まれたことによってまぎれもない死への可能性をはらんでいる」というのが抽象概念で、
ちっとも生々しくはなく、
「死という還元不能な事件」になど出合えない、出合えない以上、可能性としてはらみえない、
ということが、
つまり、人間が「生まれてきて、生きて、死ぬ」存在だという、これこそが抽象的な思考だと、
見抜けなかったとみえる。
でなければ形而上的な印籠に対する戦略的な配置? でも、後年に刊行された『凡庸さについて
お話させていただきます』(中央公論社/1986年)でも「人生」がどうとかって書いてあったから、
ガチで気づいてないのかも。
生々しいのは、文字を入力しているとか、洗濯をしているとか、コーヒーを飲んでいるとか、
そういったこと、
私の表現でいうと「五感的な濃い感覚」であって(「文字の入力」とかも厳密には抽象表現で、
実際には指が固いものにふれている、といったような感覚しかない)、
「生きる」とか「生きている」とかっていうのは、なんか人工的な感じのする「まとめ」で、
生々しくない。
この「まとめ」で得心できる人はそれでいいかもしれないけど、
私は全然得心できなくて、「生きる」とか「生きている」「生きかた」といった言葉に接するたび、
疑問符が生じたり、その場の用件を優先してこの疑問符をスルーしたり、
関野あやこさんの動画を見てるときだって、
「生きる」「生きかた」といった言葉がしょっちゅう出てくるから、
そのつど「これは物や出来事やマインドのとらえかた、視角のことを言っているのだな」
と翻訳しているのだ。
なので「改めて指摘しなおすまでもあるまい(トーゼンだよね)」と言われても困ります。
まして「死」なんて、いっぺんも死んだことがないからわからない。まじで。
他人や動物の生体機能停止という物理像になる五感的な濃い感覚を感じたところで、
それがそういう場面であり、何らかの感情が起きるとか起きないとかいう以外のことはわからず
(それ以外のことは生々しくない)、
これが「死」だとか、やがて自分にも訪れるとか、誰にも等しく訪れるとか、
抽象的すぎてクラクラするくらい、もう全然わからない。
五感的な濃い感覚を感じているとしても、これはエーテル感覚で、
ほんとは死んでるのかもしれないと思うこともあるし。それでもかまわないけど。
宇宙人などの異界ソウルの自覚がない人や、ナチュラルトランスじゃない人には、
私の書いていることが屁理屈に思えるかもしれませんが、この謎かげんはまじです。

ちなみに、文芸業界につまらなさが蔓延していたらしいその同じ時期に、
おモーさまこと萩尾望都さんは『トーマの心臓』(1974年)や『スター・レッド』(1978~79年)を
描いてるんだぜ。すごいだろ。
おフランスの男子校を舞台とした竹宮恵子さんの『風と木の詩』の連載開始が1976年、
フローベールどころじゃないよアンタ。

生きて死ぬ存在ということが、
ハスミンにとって人間の定義のうちで最も基本的で明解なものだとすれば、
それはこの人が1936年生まれで(4月29日生、牡牛座、一白水星、カバラナンバー7)、
『表層批評宣言』のあとがきのあとに載っている自筆年譜を見る限り、
苛烈な戦災を体験しているのではないらしいにせよ、
精神や大和魂や近代の超克ではどうにもならなかった戦争を通過してきているせいかな、
とも思う。
(一方、精神も大和魂も近代の超克も敗戦で終わったわけじゃねえぞ、って人もいて、
それは現場にいなかった人にもマインドデータとして受け継がれているみたいであるが、
そのへんは私にとってはどうでもいい。)
もちろん、これは本の文字列から私のマインド帯域に結ばれたハスミン像をめぐっての想像である。
しかし仮にハスミンが私のよく知る人であったとしても、像であることには変わりない。
他人を身体と心をもつ実体(客体)ととらえることは、
人の立場に立つとか人を思いやるといった利他心の基礎であると思われがちだが、
客体‐空間‐時間思考の枠内で身体や心といった体積のできた他人は、
同じく客体‐空間‐時間思考の枠内で体積をもった自分の操作対象になるのであり、
善意からであっても、必ず操作をめぐる問題を立ち上げる。

さて今日では、
「芸術」であろうとなかろうと、さまざまな制作物、パフォーマンスのつまらなさの豊饒化や
多様化に寄与する暗黙の評価基準は、
抽象的な精神や魂に通じる深みや高みの有無から、いつのまにか、
「人間を、生まれてきて、生きて、死ぬ存在として描けているかどうか」、
その日常尺として「食欲や性欲やそのほかさまざまな煩悩に揺らいだり振り回されたりする、
そういう生々しい存在として描けているかどうか」という、
フラットで即物的なものにすり替わっているように思う。
さらには、「(ふつう人が喜び、悲しみ、憤るべき状況で)喜び、悲しみ、憤る、不特定多数の人が
共感できる存在として描けているかどうか」とか。
最後の尺は、共感によって読者を獲得するという目的にかなう以外に、
近年では、逸脱(例として「不倫」)への注視から起きかねない「炎上」を極力回避する効果も
押さえた保険としても機能しているかもしれない。
もちろんハスミンは、この変化には気配の段階から敏感で、
前世紀のうちから「映画語がわからん者には映画はわからん。映画語は勉強して習得できるもの
ではない」というようなことを書いて、
次世代型の凡庸さの台頭を警戒している。
映画語でも漫画語でも音楽語でも、あるいはBL(ボーイズラブ)語とか、
そういうのはダイレクトに何々語であり、言葉で言い表せない部分のことではない。
「言葉では表せない」とか「言葉にならない」といった表現自体が言語中心の見かただと、
ハスミンの本には書いてあって、
私にはこれが衝撃的に目ウロコでした。

それはそれとして、ハスミンて、イルカ系entityの名前でありそう。
  1. 2019/06/02(日) 23:42:08|
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『ものぐさ精神分析』デムパな再読

2019.4.20(土)

岸田秀氏の著書『ものぐさ精神分析』を、図書館で借りて再読した。
この本は現在、中公文庫に収められているが、私が読んだのは青土社から刊行されている
<岸田秀コレクション>のうちの一冊。1975年に同社の雑誌『ユリイカ』や『現代思想』に
掲載された文章を集めた初版(1980年)を再版したものである(1992年)。
精神疾患のとらえかたや、論拠となっている学説は古くなっているとしても、
この本の峻烈な破壊力は変わっていない。

エッジィであった。
右翼も左翼もバッサリ斬り、人類皆兄弟姉妹的な理念も神も仏も先祖信仰も微塵切り、
おそらく大勢の人が癒しのよすがとしていると思われる家族の絆、母性愛の類も粉砕、
あとに残った一面の真っ白な灰に唯「幻想」という文字が綴られ、
それも風に吹かれて消えていく、というような。
たとえば自己嫌悪について述べられた章では、
自己嫌悪はじつは「花もダンゴも欲しいという欲張りが使う詐術の一つ」と分析されていて、
太宰治の『人間失格』を例に挙げ、
「この上なく卑劣な根性を“持って生れ”ながら、自分を“弱き美しきかなしき純粋な魂”の持主と
思いたがる意地汚い人々にとってきわめて好都合な自己正当化の“救い”を提供する作品である
(カッコ内は奥野健男氏によるポジティブな? 評から引用)」としてある。
↑こういう淡々とエグい調子の文章で、種々の信念の聖堂が音を立てずに崩壊し灰になっていく。
拙文の読者さんのなかに、大学に勤務されていたころの岸田氏を知っている、という方が
いらして、その方によれば、岸田さんは、見ず知らずの人から殴打されるなどの被害に
遭われたこと一度ならずとか。むべなるかな。
この本は、幻想ではないと思いたいものがあるすべての人の逆鱗にふれる。

岸田さんはデムパな人ではない。
人間が幻想しか知りえない、言い換えると本能の壊れた生物になるのは、
生物として特異な発達過程をへるためである、というように、
人間の歪みの根拠は主として生物学から説明されている。
人間は、哺乳類としては未熟児ないし(猿の)胎児の状態で生まれてきて、
感覚運動器官がきわめて未発達なまま、かなり長期間にわたって親などの保護者に庇護
されないと生存できない。
この乳幼児の時期、人間は自分では栄養補給や防寒など生存に不可欠な活動ができないのに、
庇護者に守られて、生々しい現実から遮断された人工的な世界で欲求が満たされ、快適にすごす。
そこは、子どもにとっては、現実の出来事や他者によって制限されない、
求めればたちまち与えられる楽園である。
感覚運動器官が未発達なので、自他の区別、現実と非現実の区別もない。
ここに、現実とはズレた全知全能的な幻想我とその楽園ができあがる。
(対して、他の生物は人間よりはるかに早く自立するので、生得的行動を促す衝動は、現実環境への
適応を保証し、自己や種族の生存という目的につながる。つまり本能が壊れていない。)
そして、いくつになってもこの楽園と全知全能の幻想我は温存され、
ここへの回帰を指向するさまざまなイメージや物語を織り、育む。
楽園と幻想我を原点とする、この唯我独尊世界が私的幻想である。
しかし、それぞれが勝手にまぼろしの私王国に浸っていては生存がおぼつかず、
個体の生存がおぼつかなければ種族としての生存もおぼつかない。
そこで、各人の私的幻想をいくらかは満たしつつ、
個体保存や種族保存に必要な活動へと誘導していく共同幻想がつくりあげられた。
共同幻想とは、家族、氏族、民族、国民といった集団の「つながり」の根拠となる血縁、歴史、
神話などの幻想のことである。
人間が共同幻想を通して見る現実は、どんな場合でも擬似現実(合意された現実)であって、
物理的現実そのものではない。
生得的衝動にしたがえば個体や種族の保存に役立つ行動をとれる他の生物とちがって、
人間は本源的欲求が物理的現実の必要性から私的幻想のほうにズレてしまっていて、
物理的現実と直接のやりとりはできなくなってしまったので、
ある程度まで各人の本音の欲求(私的幻想)をカバーする共同幻想をつくって、
共同幻想を通した擬似現実に適応することで延命するしかなくなったのである。

私がこの本を最初に読んだのは十代のころで、その後、何回かは再読しているが、
今回、また読み返してみたところ、釈然としない点があった。
人類は滅亡を回避するために共同幻想をつくった。
しかし、各人の私王国の欲求と物理的現実からくる必要性のバランスをとることは至難で、
岸田さんは、本能が崩壊した人類のかなりの部分は、個体の保存も種族の保存もできず、
物理的現実への不適応から滅亡したかもしれない、と推測している。
滅亡してもよかったんじゃないか、と私は思うのである。
なぜ、生体の機能停止(死、滅亡)は「望ましくない」のであろうか。
たしかに、生得的衝動(本能)にしたがって生きている動植物は、人間の目から見ると、
自己を伸張し、種族として繁殖、繁茂していく方向性をもっているかに見えるが、
だめとなればあっけなく滅亡してしまう。
とすると、動植物に「滅亡」というとらえかたや「滅亡ヤバい」といった判断はなく、
細胞の分裂、増殖、死(アポトーシス)のように自律的な運動をしているだけと思える。
人類の場合、私王国の破れ目(栄養補給が断たれるなど)からヤバい気配が侵入してきそうだが、
共同幻想の成立以前に「死」とか「滅亡」「滅亡ヤバい」といった見かたができるとは思えない。
なぜなら、人間は自分の死を体験できず(この点はおそらく他の生物も同じ)、
他者の生体機能停止を「死」ととらえて、そこから自身の死を想像するからである。
つまり、「死」や「滅亡」が意識に上るには、
私王国は開国して、私王国に属さない他者を設定できていないといけない。
つまり、「死」や「滅亡」といった見かたができ、これを避けようとする見解が生じるには、
それ以前に共同幻想が成立している必要がある。

ということから、私は、
(1)生物としては特異な発達過程→(2)私王国の発生→(3)共同幻想の形成、
という順ではなく、
①とくに必要性なく、まず共同幻想が形成され、
②「共同幻想を通して感じられる擬似現実の向こう側にある本当の現実」が想定され、
②´共同幻想に吸収できない欲求や世界イメージが切り離されて私的幻想化する(共同幻想から
はじかれた欲求や世界イメージが私王国にまとまる)、
といったことが全部、同時に起きて、次いで、
③共同幻想を無自覚に習得する(インストールに近い)ため、
また共同幻想の起原を封印し、現実が共同幻想だとできるだけ気づかずにいるために、
人間の自立を著しく遅らせるという進化(?)の方向を選択する、
ということが生じたと考える。
もしかすると①~③ともすべて同時かもしれない。

なお、私のデムパ用語でいうと、共同幻想は、
客体‐空間‐時間思考システム(仮想集合システム)にもとづく個別集団のソフトウェアである。
ただし、私のデムパ世界では「擬似現実の向こう側に本当の現実が存在する」わけではなく、
「本当の現実」は思考で仮定した客体である。
擬似現実から演繹すると出力される別の擬似現実といってもいい。

以下12行、客体‐空間‐時間思考システムにもとづく一般常識的な書きかたをすると、
人間というのは、生物として異様といっていいくらい不合理である。
体毛はなく、外からの衝撃に対して無防備で、温度変化に弱いし、
直立二足歩行は腰に負担がかかるし、
生まれたあとの発達は遅いのに、胎児の頭や身体はデカすぎて分娩時に難産になる。
外から情報を得ないと、食行動も性行動もできない。
なのに、やたらといろんなものを食べ、調理で味覚の快感を増幅させ、
ほとんどの場合、繁殖とは無関係に性行動を起こす。
死や滅亡を怖れて避けようとするのに、
生物的生存領域をめぐって争っているわけではない同種族を殺したり、
わざわざ残酷なやりかたで殺したり傷つけたりする。
そのような行為が、幻想上の生存領域を守るためという被害妄想的な理由で正当化される。
とても万物の霊長などとエバれる仕様ではない。

他の生物にはみられない、生物として不合理なこれらの点は、
本当の(物理的な)現実環境に適合できなくなったことによって生じたのではなく、
「本当の(物理的な)現実環境」というものを想定させる思考システムがまずあって、
このシステムによって、自分が「自分の身体、心、魂」と「それ以外の環境」とに分離し、
「自分の身体、心、魂」維持のために、
「自分の身体、心、魂」が「環境」側に働きかけようとする運動がはじまることによって生じる。
常に働きかけていないと、「自分の身体、心、魂」は、「環境」に由来する空間的限界(他者、
病気など身体の内側からの反乱)や時間的限界(老化、他者に忘却されること)に侵食され、
衰滅してしまう。
べつに衰滅したっていいはずなのだけど、
衰滅に抗う心性は環境克服行動への駆動力であり、
環境克服行動は「本当の(物理的な)現実」への手応えをもたらすから、
衰滅回避は「本当の(物理的な)現実」が本当にあると思い込むためには不可欠なのである。
衰滅や喪失といった出来事は、ある変化を否定的に見たときの見えかたにすぎない、と
気がついてしまうと、環境克服行動の根拠がなくなる。
さらに、環境克服行動を止めても何ら実害はない、害と思っていたこともそうではなかった、
ということにも気がついてしまうと、
「本当の(物理的な)現実」はかなりアヤしく霞んでくる。
衰滅を危機とする解釈は(それを「しかたがない」とあきらめることも含めて)、
客体‐空間‐時間思考システムのエンジンであるとともに、
その解釈に根拠がないため、脆弱性でもある。
なぜ衰滅しちゃいけないの? という疑義は、思考システムにとって脅威である。

人間は、「私」が感じる感覚の向こうに客体(本当の現実)を設定することによって、
現実(私の用語でいう「像」「夢」)を主観的な心理世界と客観的な事実世界とに分割し、
両者にズレを設けて、
わざわざ不合理や不適合を、そこから生じる弊害とともに体験している。
不合理や不適合を体験するために、現実にヒビを入れてズラしたという言いかたもできる。

体毛がないとか、重力に抗して直立二足歩行しているとか、
母体に比べて胎児が大きすぎるといった、地球の生物としての奇妙な不適合は、
もしかすると、客体‐空間‐時間思考システムに囚われていなければ、
人間は、客観的な事実だと思われている現実像(夢)とはまったくちがった現実像(夢)を
描いていたかもしれない、
その「異界」では、これらの点は不適合ではなかったのかもしれない、
という可能性を示唆している。
  ↑
これは控えめな書きかたで、私のチャネリングでは、体毛なしツルツル、直立二足で
多少地面から浮いているエア歩行、地球人の身体像は猿類からの飛び飛び量子進化のゴール
なので次世代をつくる必要がなかった、ということになっている。
生殖の器官、機能は遠類から継承しているので、次世代をつくることはできるが、
代を重ねると猿類方向に逆行進化していき、猿類でも人間でもない中途半端なところで止まる。
これがベースで、地球人型でないほかの異界からスライドしてきてシェイプシフト(形態変化)した
人も多数いる(有翼卵生型、四足胎生有袋類型、元素系結晶分裂型など)。
いずれにしても、客体を前提とした人体諸器官やDNAや自然人類学的なアプローチからは、
客体を前提として空間‐時間思考に沿って展開した進化史の形跡しか見えてこない。
身体像の原型を知るには、マインドで象徴的な情景に変換翻訳される周波数
(一般的な表現では「意識」)を探究する必要がある。

客体‐空間‐時間思考システムという、集団ごとの共同幻想のオペレーティングシステムが終わるとき、
物理的感覚からなる「外側」とは区別された主観世界、いわゆる「内側」も終わる。
内側が終わるとともに、
内側の奥深くで楽園の再興を夢想していた私王国も終わる。
かつての内側は、
物理像(濃い感覚)-マインド像(中程度の感覚)-高次像(淡く微妙な感覚)からなる、
宇宙の海に融けていく。融けないものは虚空(ゼロポイントフィールド)へ還る。
そうなったとき、かつての私王国のルーツであった楽園の残像をまだ見ることができれば、
楽園は宇宙のプロトタイプ(原型)だったと感じられるかもしれない。
ただ私としては、乳幼児にもいろいろとストレスはあるので、
乳幼児期が完全無欠の楽園とは思えないのだが、
完全無欠の楽園を想像できるのなら、それはどこかにあるのである。

なお、岸田さんご本人がこの記事をご覧になることはないと思うが、
岸田さんの著作を読まれて理解されている方からすれば、
「このいたずらに長い記事こそ筆者の私的幻想を綴ったもの(呆)」ということになろう・笑。
  1. 2019/04/20(土) 16:09:15|
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