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ソロ・パブリッシュ

ドリーム。

非3次元の実感

2021.5.4(火)

3次元(ガチッとした物の世界)から非3次元(像の世界)に移ると「現実」の実感はどう変わるのか、
というテーマでのソフィア@シリウスとのチャネリ談話です。
ポイントは、この移行はマインド(心のなか、頭のなか)で起きるということです。
他人に証明はできないし、
個人的にも「これなら“信じて”よい」と思えるような証拠が挙がるわけではありません。
頭のなか、心のなかの感じかたが変わって「(五感的な)現実」を引き込むのであって、
「(五感的な)現実」のほうから先に変わるわけではないのです。

みけ オカルトって説明しにくい。
ソフィア オカルト?
みけ 3次元じゃない世界、非3次元世界のこと。
3次元は、いろんな感覚の向こうに物質という客体X(感覚の対象となる実在)がある、と想定した世界です。
非3次元なら、「感じる」がイコール「ある」なんだけど(認識=存在または創造)、
物質(客体X)を想定してるとそうはならなくて、まず物質ありきで、
物質からの刺激に反応して、これまた物質である身体に感覚が生じる、という順序になる。
すべては物質からできていて、物質が全現象の原因である、そういう想定です。
ソフィア 今、非3次元を簡潔に説明したじゃん。「感じる」がイコール「ある」だと。
補うとすれば、「感じる」は五感的な感覚だけじゃなくて、考えや感情も、直感も含める、
だから五感的な感覚世界も、マインドの世界も、高次の世界も、すべて「ある」、
色や感触も、想像や感情も、ふとした閃きも、すべて「現実」だということ。
みけ それはそうなんだけどさ。
非3次元化するって、3次元の実感が終わって、3次元じゃない実感になることでしょ。
3次元の実感というのは、常に外側を見張っていて、外側で何か起きたらすぐ対処する、
何も起きてなくても、いつ何が起きるかわからないから、可能な限り予測して備える、
っていう警戒態勢のことです。
客体X(物質)を想定すると、感覚の向こうにある物質が外世界、感覚が主観的な内世界、
というふうに内外に分かれて、本物の現実とは外側のことだから、常に外を見てるわけ。
この警戒態勢は体験をとおして習慣になった心がまえだから、
ふだんは意識していなくて、考えなくても反射的にそうなるんです。
それだけ意識の深いところにあって、いわゆる潜在意識に根を張っているというか。
その習慣がデクレッシェンドしていって、非3次元の実感がクレッシェンドしてくるんだけど、
その非3次元の実感が説明しづらい。
ソフィア まず大前提として、3次元から非3次元に変わるのは心のなか、マインドだということがあるね。
3次元的にわかりやすい表現をすれば、いわゆる内側が変わるということ。
みけ ですね。習慣的、反射的に外側を気にしていたのが、
今度は反射的にマインドを注視するようになって、そっちが習慣になります。
3次元だと、それって自分の気持ちのことばっかり気にかけてて周りを見てないってことになるんですが、
それは物質を想定していて、その周りってのは外側だと思ってるからなんだよね。
そうじゃなくて、マインドの「現実」は五感的な「現実」の台本です。

みけ まず、「放っとくと幸せ(な気持ち、気分)」ってのがあります。 
ワクワクとかウキウキをケーキのデコレーションとすると、スポンジの部分が「幸せ」。
3次元だと、放っておくと不安になったり、心配になったり、退屈になって問題探しをはじめたりするけど、
それがくるっと逆転する。
根拠なく、いつでもどこでもナチュラルハイ。
ソフィア それがマインドのベースの周波数(基本的な感覚)です。
みけ で、アッシジの聖フランチェスコみたいだったら覚醒してる、非3次元人間だとか、
ロレンツォ・デ・メディチみたいだったらちがう、3次元のただの成功者だとか、そういうんじゃないんですよ。
むろん3次元の外側からみて事業家(ロレンツォ)かニート(フランチェスコ)かって、関係ないし、
マインドでは両方並存なんです。
ただ統覚視点の角度によって(人によって)表現のしかたがちがうだけ。
この「両方あり」の中立加減が説明しにくいのね。中間、中庸じゃなくて統合(アウフヘーベン)だから。
1と0の間が0.5ではなくて、垂直に上の次元に上がると∞(無限大)だってこと。
どっちが正しい、こうじゃないとだめってのではなくて、何でも許容可能なんです。
ソフィア その中立加減が、「現実」が像であり夢であるということです。
高次の「現実」でも、マインドの「現実」でも、五感的な「現実」でも。
一方で何かを感じ(認識し)、創造しながら、もう一方でゼロポに還っているとはそういうこと。
みけ 「全部ある、かつ、何もない」ゼロポが、感覚(認識)という形で像になって表れてるだけだから、
物質というガチッとしたマッス(塊)でできてるわけじゃないから、
どんな像でもいわば「仮」ってことだよね。だから変えやすいし。
マインドの「現実」(考え、想像、感情など)を差し替えると五感的な「現実」はそっちに引っ張られていく。
ソフィア 自力と他力も非3次元では区別できない。どちらも磁力だから。
磁力の働きを「引き寄せ」と言っても「引き寄せられ」と言っても、どちらも同じ。
みけ ケーキをイメージするとケーキが来るわけだけど、
これを「宇宙に委ねる」方式でやると、ケーキのイメージが湧いてきて、結局ケーキが来るんだよね。
「スイーツ的な何か」とか「甘い系の幸せ」とか、イメージが漠然としていれば、
ケーキという形のイメージにはならずにケーキが来ることもある。
私の場合、非3次元になっても欲がなくなったわけではないんだけど。
ソフィア 統覚視点(自分)が何かを感じて創造するとは、いわば作品を創ってるということだから、
そこにはデザインの意図がある。
その意図を意図として受け取るか、欲求として受け取るかは趣味、好みの問題で、どっちでもいい。
Aの場面からBの場面に移るとき、マインドの「現実」(想像)では瞬時にBに移行するんだけど、
これを高次の「現実」の具体化つまりセルフヴァース(自分の宇宙)の意図としてとらえてもいいし、
AとBの間に「注文」という手つづきをはさんで欲求として見てもいい。
みけ それって、意図していることしか願わないし、願うことは意図していることだ、ってことだよね?
ソフィア そうです。想像できないこと(意図していないこと)は願えないからね。
みけ そういえばこのごろ、欲求のとらえかたがポジティブになったんですよ。
欲求というのは「ないからこそ求める」んであって、まず「ない」こと、欠落感が前提なんですが、
マインドの「現実」ではすぐ完成図になるし、
マインドで完成すると、その完成図と五感的「現実」が一貫している(五感的「現実」で実現している)
パラレルワールドに引き寄せられていくってわかったから、
「欠落」は「充足」に飛ぶサインだと感じるようになった。
何か欲しいと思ったら、その欲しい何かが来る合図、もうポチってるから届くってことです。
ところで、ソフィアはアンチ引き寄せ派だよね?
ソフィア え!?(まじ驚) 何それどういう誤解よ。
みけ だってずっと「引き寄せやんなくていい」的なこと言ってたじゃん、何年も。 
ソフィア それはアンチじゃなくて、めんどくさいんだよ。
(筆者の宇宙で)シリウスという周波数(感じ、感覚)の特徴のひとつとして、
パフォーマンスを最小化する、最短距離を志向する、効率化を求めるっていう傾向があるのね。
だから、AからBに移るときにわざわざ「欲求」というステップを創るのがダサ、もといめんどくさい。
みけ いまダサいって言った。
ソフィア ・・・シリウス的な機能美追究視角からすればね。
でも遊び好きなイルカ族なんかはテクニカルな引き寄せもけっこう使ってるよ。
「欲求」は欠落感前提の感覚だから、何かを求めるといったん波動は下がります。
しかし「欲求」を「意図」にする(予定化する)とき、波動は上がる。
AからBに移るときの周波数の変化は水平的で、
これは文章の段落が変わるとか、本のページをめくるようなものです。
ここに「欠落から充足へ」という落差を仕込むと、「上昇」を体験できる。
さらに、流れがいったん途切れるので、連載とか前後編に分かれたドラマを追っている感じになる。
みけ 次回はどうなるんだろう、ドキドキ、みたいな。
ソフィア マインドがダンサブルになるんだよね。ノリがよくなるというか。
アンドロメダの周波数やリラの周波数とかからすると、これがクールで、
シリウスふうの予感優先方式は「現地のお土産を空港で買う、ロマンのかけらもない所業」となる。
むろん個体差もあるから一概には言えないけども。
「感じる(認識)イコールある(存在または創造)」の非3次元において、
「認識=存在」と、感覚の総合を完成図でとらえれば、意図は予感、予知、啓示になるし、
「認識=創造」と、感覚の運動面を重視すれば、「欲求が意図になる(予定化する)」方向性ができる。

みけ 実感的に中立だっていうのは、統覚視点についても言えるんですが。  
統覚視点に戻るって、「自分」というこの枠の実感が変わるってことだよね。
ソフィア そうです。「自分は(主語)これこれこういう人間だ(述語)」というときの、述語ではなく主語が、
コンテンツではなくプログラムが変わる。
みけ 統覚視点というのは、五感とか、考え、感情とか、閃きとか、いろんな感覚(認識)を、
ひとつのまとまった、統一的な編集体として感じている感じ手意識のことです。
見える(五感)、見えない(考え、感情、閃きなど)、濃い薄いの差はあっても、
どの感覚も当事者として感じているから、関係ない感覚ってないんだよね。
だから遠くにある建物も、目の前にいる人も、自分が感じて創っている感覚だし、
マインドにふたつの正反対の考えが浮かんでいるときも、どっちも自分の感覚です。
五感、マインド、高次の感覚模様、これが自分の編集体であり宇宙だ、っていう
そういう統覚意識として「自分」は広がっているんですが、
それは身体イコール自分っていうときの、3次元(感覚があってもなくても物質が存在し、
物質が感覚の原因である、と想定した世界)の自分意識とはちがいます。
そういうコテコテの濃い自分意識が広がっているわけじゃないし、
世界征服を果たしたぞ、自分が皇帝だ、みたいなのではない。
ソフィア 身体とか身体に由来する心とか、自分の範囲を定義する囲いがあると、
囲いの内側(自分)と囲いの外側(物質からなる環境)に分断されて、
内と外は対立、緊張関係にあるから、
自分意識は「かけがえのない自分」というような、濃厚で切実なものになる。
これは目に見えない囲いから生じる力学現象であって、精神的に未成熟ということではありません。
みけ でも「自分がなくなる」わけではないんだよね。利他的になるというのともちがうし。
自分がいなくなったら宇宙もなくなっちゃうし、
利他的、利己的の区別は、囲いの内外が対立、緊張関係にある3次元の態度だし。
ソフィア 「囲いの内側(自分)/囲いの外側(物質環境)」が「感じ手(自分)/感覚(認識対象)」に
スライドして、スラッシュの性質が「≠」から「=」になると思えばいい。
みけ それすごくいい。ソフィア先生の発想のクレヴァーさにメマイがする。
ソフィア ・・・言っとくけど、それ自画自賛だからね。
みけ スラッシュで「≠」だと、基本的に周りは敵というか、克服、調略しないといけない相手なんですが、
スラッシュで「=」は感じ手(自分)と感覚(対象)が調和しているというか、意気投合している。
常に追い風だから、「んっ!」とチカラを入れて踏み出す必要はない(何もしなくていい)し、
「できる」「わかる」が当たり前の通常ポジティブ設定(何でもできる)なんだよね。
ソフィア 身体と身体にもとづく心イコール自分だった自分意識が感じ手意識に戻るというのは、
マインドで思い込んでいた囲いがとれるという、目に見えないところの変化、意識の変化だから、
何ら超常的な現象を伴わなくてもいいし、囲いがなくマインドが自由だ自覚できればいいんです。
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  1. 2021/05/04(火) 15:40:30|
  2. 次元上昇
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統覚視点に戻るワークが超簡単に~ゼロポ元年は2021年だった

2021.4.26(月)

結論から書きます。朗報です。
その1.統覚視点に戻る方法がめっちゃ簡単になった。ゼロポにつながる。それだけでいいです。
ゼロポイントフィールドにつながるとは、2016年秋に『ようこそ☆ゼロポイントフィールドへ』で公開したアレ。
両掌を合わせる、指先を合わせる、掌とどこかの面を合わせるなどして接触面をつくり、
接触面が「融けてる」感を感じるってやつ。
その2.統覚視点に戻れているかどうかの確認ポイントも簡潔になった。
「何もしなくていい」かつ「何でもできる」と感じられていればOK、完全に自由、無限フリーな感覚です。
所有系なら「何もない(持っていない)」かつ「全部ある(持っている)」でもいい。
作業をしていたり、人と話していても、マインド(いわゆる頭のなかや心のなか)にこの自由な感覚があれば、
統覚視点から動いていません。もしくは統覚視点に戻れています。
何か考えていたり気持ちが動いていたらダメってことではなく、芯が自由であればいい。
考えていたり気持ちが動くというのは、マインドに波動(感覚)が生じているということですが、
統覚視点にいると、自由な感覚、白紙ベースにいろんな考えや感情が載っているという感じになります。
きちんとスクエアなリズムパートに乗って、リードパートが即興演奏している、みたいな。

言いたいことはこれだけなんですが、以下で補足説明を。
統覚視点とは(場合により、私は統覚意識とか一人称意識という書きかたもしていますが)、
五感、マインド、高次の、あらゆる感覚の感じ手意識のことです。
色や形にしても、考えや感情にしても、閃きにしても、なんらかの感覚を感じられるときには、
必ずその感覚の感じ手がいます。でないと、どんな感覚も生じません。
感覚は認識なので、必ず認識主体があります。
しかし、この感じ手意識、認識主体というのは、自分の身体のことではなく、
身体の生理反応を言葉やイメージで象徴化した心(主観)のことでもありません。
身体とは、肌色と名付けられた色とか触感とかの五感的感覚をまとめた束に、
仮想物質世界である3次元の想定をあてはめたときの概念です。
概念である身体から生じるとされる心も概念です。
3次元の想定とは、「色や触感などの感覚の向こうに物質がある」という仮定のこと(物質の存在の有無は
誰にも確認できないので、「ある」としても「ない」としても、どちらも想定)。
3次元世界をつくっている想定を想定しないとき、つまり非3次元では、
肌色とか触感とかの五感的感覚がある、ただそれだけです。
感覚の向こうに客体X(物質)を想定しない非3次元では、
そういう五感的感覚や、五感的ではないマインドの感覚や、やはり五感的ではない高次の感覚が、
バラバラにではなく、同時に、重なりまとまって、濃淡さまざまな感覚模様をつくっています。
そうしたさまざまな感覚を総合して、ひとつの感覚模様宇宙にしている中心が統覚視点です。
ざっくり言うと、いろんな感覚を感じている観察意識ですが、
観察すること(認識)は同時に観察の対象(存在)を生じさせることでもあるので、
観察意識は創造意識、創造主でもあります。

本当の自分、本当の「私」とは、この統覚視点、感覚模様宇宙の中心のことで、
3次元の身体イメージ、身体イメージにもとづく心イメージのように、
「ここからここまでが“私”である」みたいな囲い(制限)はありません。
感覚のあるところ、どこでも、どこまでも「私」です。

自分に合わない感覚というのは、本来の感覚模様宇宙のデザインとズレている感覚のことで、
これを手放す(ゼロポイントフィールドに還す)には、
「私」「自分」という意識が身体や心のイメージと同一化されていない統覚視点に戻っている必要があります。
でないと感覚模様全体を俯瞰できないからです。
個人史記憶や、現状の身体ないし心イメージすなわち自分、という立ち位置だと、
そのもとになっている概念、さらにその概念の土台になっている3次元の想定まで目が届かないので、
一時的に不快感を払拭できても、また似たような問題を自作します。
また、磁力(引き寄せ力)をアクティベートするさいも、
「私」が統覚視点にいると、
「できない」「むり」「そうはいっても」「世の中は~」「人生は~」みたいな3次元の雑念に遮られません。
もしそういうゴチャゴチャした雑念が出てきても、速攻、手放すことができます。

手放しによって本来のデザインを取り戻すにしても、引き寄せをやるにしても、
実践者(自分)は統覚視点に返っていないと、うまくいきません。
それが、ゼロポとつながる、「融けてる感」を感じるだけでできるようになった。
これは原理的には2016年時点でもできたはずなんですが(※)、
その時点では、まず情報公開した私自身が3次元人間でしたし、
ということは、まだ感覚模様宇宙に戻っておらず、身体をもつ多数の他者がいる世界にいたわけで、
自分も多数の読み手の方たちも、
ゼロポとつながって一瞬、統覚視点に返っても、たちまち3次元に舞い戻っていたと。
3次元というのは、「色や触感などの感覚の向こうに物質がある。これが本物の現実だ」と考えて、
いろんな感覚が起きる原因を物質に帰している、そういう想定世界ですが、
これは理論的に教わるんじゃなく、「物質でできた世界(外側)に対処する」という動きを幾度も繰り返し、
歩きかたや座りかた、話しかたをマスターしていくみたいに型として習得していくので、
考えなくても反射的にそうできるくらいに習慣化していて、
いっぺんに変えることはできないのです。
もう3次元がコンフォートゾーン(慣れた、なじみのある、安心な場所)になっていて、
慣性でそっちを維持しよう、そっちに戻ろうとするので。
そこでまず、マインドに構築した物質世界(3次元)のしくみと仮構性を言語化したり、
イメージを使って、手動的に、統覚視点と、「自分」という意識がそこにいるときのマインド心地を確認する
必要があったわけです。
ちなみに、頭のなかを空洞にして金色の光で満たす、という私のやりかたは、
物質という概念、とりわけ自分の身体という概念を、
「感覚の向こうに実在する客体X」からもとの概念に還流させることを意味しています。
頭がポイントなのは、ここに脳という物質身体の本丸があるとされているから。
金色の光は、これは指導教官からうかがった説で、私はそういう秘教系にはまったく蒙(くら)いのですが、
古代エジプトの叡智のなんちゃらで「反転」を意味するのだそうです。
「世界のなかに(身体の)“私”がいる」から「(統覚視点の)“私”が世界を創る」への反転です。
しかし実際にはとくに金色じゃなくても、その場で閃いた光でもよく、
最近では私も白とか透明な光を使っています。
あと「光の磁場に立つ」というときの「光の磁場」とは、最初に高次で開かれる感覚模様世界の土台のイメージ。
いきなりそこに飛ぶのがむずかしければ、マインドで居心地のいい場所(異界などでもよい)を描いて、
そこから光の磁場に移る、もしくは光の磁場をそこに重ねて降ろしていきます。
※感覚の感じ手(自分)という一人称の認識主体意識は、
全感覚と無感覚が渾然一体となったゼロポイントフィールドから、
ゼロポではない側(ゼロポを認識する側)として立ち上がるが、
その「~ではない」という分離コマンドが自身にも働き、
「“ゼロポではない”ではない」となって、結局ゼロポに還る。
これは「自分でありつつ自分でない(ゼロポでないと同時にセロポである)」ということで、
喩えると右手で自分、左手でゼロポをやっているような感じで、両方とも同時に起きている。
一方、客体X(物質)を想定した3次元世界では、「私」は身体と身体に由来する心という限界範囲をもつ自意識となっていて、
その範囲に閉じ込められており、この範囲の外は客体X(物質)に属する得体のしれない他者である。
さらに自意識の拠点である身体も、ふだんは意識されないが、客体X(物質)に属しているので、
自意識「私」は自身の身体や、それに由来する心を自由に動かすことはできず、
客体X固有の法則(物理法則やそれにもとづく常識)に沿わなければならない。
ゼロポとつながると、この閉じられた自意識にゼロポに通じる穴があき、
右手で自分、左手でゼロポをやっているという、限界範囲のない感じ手意識に戻る。
何らかの感覚を感じること(認識)と感覚が生じること(存在)は表裏一体なので、
感じ手(自分)が自分でありつつゼロポに還っているとすれば、感覚もそれが生じるとともにゼロポに還っている。
接触面が「融けてる感」を感じるとは、五感的な感覚(この場合は触覚)のゼロポへの還流を感じる(認識する)ことにより、
ゼロポに「気づく」ことを意味する。


で、筆者のやりかたにしても、動画などで「統合メソッド」として紹介されている他の方法にしても、
この種のイメージワークをするときに出てきがちな疑問として、
「できているのか?」「これが統覚視点なのか?」「本来の自分? これがそれ?」
というのがあるかと思います。
目の前にはいつものような景色が広がり、足の裏が床についているという感覚がある。
気分はすっきりしているけども、とくに不思議なことや変わったことが起きたわけではない。
なので、これでOKなのか? どうも、なんか、釈然としないなぁ、という。
測定できる計器があるわけではなく、他人に確認してもらえることでもないし。
私の場合、視界がフラット(平面的)になる、最近は音もフラットになってきている、
関節がゆるむ、ときにどこかの筋肉がピクッと動く、といった現象が起きますが、
そんなの人によるかもしれないし、それらが本当に「できている」目安といえるかどうかもわかりません。
これはマインドを使うワーク全般にいえることで、瞑想、座禅などもそうですけども、
できているかどうかを3次元的な外部から、客観的にたしかめる方法はありません。
先生が受講者の波動やオーラや氣をチェックするといったって、それも個人的な印象だし。
「今回のクラスは非常に波動が高いです」的なトーク、私は腑に落ちたことがないよ。
それはその先生の波動が高いんだと思う。
ともかく、自分の感覚でつかむしかないわけです。
じつは私自身は「できているかどうか」をあんまり気にしていなくて、
というのも、「ただの自己暗示にすぎない/イメージワークが正しくできている」
という区別を問題にしていないからです。
そもそも3次元の世界が強力な自己暗示、思い込みにもとづいて立ち上がっていますから、
それが別の自己暗示、思い込み、想像に書き換わっただけであっても、それで全然かまわない、
仮にできてなくても、何回かやっとるうちにできるようになるわ、
というのが私の見解です。

とはいえ、こういう記事とかで説明するとなれば、
言葉によるおおまかな記述でも、こういう状態になります、ということを提示しないといけない。
それで、統覚視点に返っている状態とは、
環境(五感の景色、マインドに浮かんでいる景色)と親しい間柄、いうなれば相思相愛で、
リラックスしている、
外(物質世界)からどんな問題が湧いてくるかわからない、という慢性的な警戒感、ストレスがない、とか、
360°に広々とした開放感があり、見晴らしがいい、とか、
おおらかな自己肯定感がある、といったような書きかたをしてきたのでした。

これもすっきり簡潔に表現できるようになった。
統覚視点というのは、ひとつには、ただの観察意識です。
だから「何もしなくてもいい」。観察してるだけだからね。
で、非3次元では観察はイコール創造だから、創造意識でもある。
だから「何でもできる」。
両方併せて「無限に自由」です。
発泡系飲料のキャッチコピーみたいに「オールフリー」でもいいかな。

3次元では、何かを感じること(認識)に創造力はなく、
創造するには(想定上の)物質に働きかけないといけないとされているので、
最初は観察イコール創造を実感できず、
観察意識、「何もしなくていい」しかわからないかもしれない。
それでもいいと思います。
何もしなくていい、やるべきことなんか何もないんだ、というだけでもめっちゃ自由感上がると思う。
そのうち「感じることが創造なんだ」と腑に落ちてくると思います。
「五感的な現実」は「マインドの現実(想像、感情)」が帯びる磁力(引き寄せ力)によって具体化し、
「マインドの現実」は「高次の現実(閃き、直感、ゾーン感覚)」が帯びる磁力によって具体化します。
統覚視点は、これら全部の「現実」の観察者でありクリエイターですが、
最も速くて鋭敏なのは高次の感覚なので、ピッ、ピッ、ピピーンというのをとらえていれば、
その垂直磁力で、マインドや五感の現実は、ピッ、の具体化バージョンとして展開していきます。
「何でもできる」とはそういうこと。
3次元視角で見たときの「問題」もどうにでもなる。というかそもそも「問題」など存在していません。
3次元視角の「昨日はこうだったから今日はこう、明日はきっとこうなる」みたいな連続時空間思考で
解釈できないことが起きたときに「問題」と映りやすいのですが、そんなの創造のリーチが大きいだけ。
高次、マインドで画期的な動きがあると、3次元視角ではネガティブな警戒ランプが点灯しがちです。
3次元で現実的とされる思考は、非3次元だと、
3次元の判断で最悪とみられるひとつの仮定に固執した妄想です。

便利ですね。
人と話していて白熱してきたり、
作業していて、「このあとこれやってあれやって」と3次元の連続時間思考が動きだしたり、
「例のアレはほんとにうまくいくのかな」「宇宙からのサインを見逃してないか?」とか、
マインドがゴチャッとしてきたら、
その場でちょちょっと接触面をつくってゼロポにつながり、
オールフリーを確認して、ゴチャゴチャしたのをゼロポに還しちゃえばいいんだから。
「何もしなくていい」「何でもできる」「無限に自由」「オールフリー」をアファメにしてもいいでしょう。
私の個人的意見としては、初心者のうちは手動のイメージワークをきちんとやったほうがいいと思う、
けど、オカルト運動神経のいい人だったら、
何回かゼロポとつながってるうちに「あ、これ」って全部会得してしまうかもしれないし、
そんへん人によるんで、なんとも言えません。

いーやー、ゼロポ情報の着地点ってここだったのね。
ゼロポ元年って2016だと思ってたけど2021だったんだ。いやはや。
なおゼロポ元日の日付は私的には2021.4.21(水)です。
  1. 2021/04/26(月) 16:17:14|
  2. デムパなメソッド
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「行動」という思考について(追記あり)

2021.4.19(月)

オカルト界が「スピリチュアル」ではなく「ニューエイジ」とか「精神世界」と呼ばれていたころには、
現状よりポジティブな状況への変化を呼び込む決め手は「行動」だとされていたように思う。
前世紀のニューエイジ、精神世界ブームは、一瞬マスメディアに注目されたけれども、
ネットが普及し、生活全般に浸透していくという目に見える変化の波に押されて、
社会現象にならずに萎み、もとのオタクなジャンルに返った。
バシャールの訪日にゾクゾクしていた自分も、使っていたワープロ専用機をパソコンに切り換えたあたりから
関心を失っていった。
ネットにはそんなにときめいてはいなかったし、ネットを介して世界中とつながっているという実感はなかったが、
とにかく使えるようにしないと仕事ができないという実用的事情があり、そっちに目が向いていた。
これは個人的な印象だけれども、当時のニューエイジや精神世界は「行動」を超えられなかったと思う。
つまり「最終的な決め手は行動である」という点では、世の常識と何ら変わらないのである。
どちらも、五感的な感覚の向こうに物質(客体X)がある、と想定していて、これが究極の現実、
だから物質に働きかけないと(行動しないと)いけないという見解をとっている。
自分の感覚(認識)以外の、それ固有の法則(客体Xが物質なら物理法則)で動く客体Xが現実を決定すると
みなされる想定世界を私は3次元と呼んでいるのだけれども、この3次元の枠組内にとどまるとしても、
ニューエイジ思想には、高次からのサジェスチョンによって、
・行動の選択肢が絞られる。理想的には1つに絞られる。
・モチベーションが上がる。
というメリットがあった。
でも、行動を思いついたときに、これは本当に高次からのサジェスチョンなのか、そうではないのか、
ということは、自分で判断しなければならない。
その判断能力を上げるために修練したり情報収集したり、その道の先生からアドバイスしてもらったり、
したとしても、当たるも八卦的な、確率のぼやけた部分は残る。
それでも行動しないと何も変わらないのである。
そこで一般常識とクロスするので、私的には醒めるというかテンションが落ちるわけ。
ロングトーンなしで上達できるという触込みの管楽器教室に行って、
「音を伸ばしてみようか。ちょっとだけ、2拍、ただ伸ばすだけだよ。ハイ、さん、しっ!」と言われ、
2拍伸ばす。と、それが次回に4拍になり、その次には8拍になり・・・みたいな。ロングトーンじゃんそれ、みたいな。

今年の3月くらいだったか、「行動」はマインドで起きる思考、
それも外部(物質世界)に働きかけることを前提とした3次元の思考であって、
五感的な感覚像としての行為でないということに気づいた。
つまり「~しよう」「~しなくちゃ」と考えているそれが「行動」であって、
実際にやっていることではない。
実際にやっているときには、もう行動のイメージ図はないし、行動について考えてもいない。
「あー排水溝の掃除。いやだいやだめんどくさい」と考えているうちは大儀だが、
とりかかってしまえばとくにどうということなく終わる。
この前半の思考が「行動」なのである。
自分の感覚(認識)とは関係ない、それ自身の法則をもつ世界(物質世界)、
すなわち他人軸世界に働きかけてそれを操作することを前提とした思考だから、
それはかなり重い。パフォーマンスが大きくて、決意もいる。「せーの!」みたいなタメがある。
というわけで私は、頭のなかで「行動」をやっていたら、これをゼロポに還して手放すことにしました。
ただ作文の都合上、何らかの行為を表すのに「行動」という言葉を使うことはあると思います。
3次元的ではない手順のフローチャートが浮かぶこともあるけど、
こっちは目の前の空中に「かんたん操作ガイド」が広がっている感じで、全然軽い。
両者のちがいは重量感の有無。
ストレスのあるなしといってもいい。
私のガイドentitiesのひとり、モナ@アルクトゥルスは、もっと簡潔で露骨な言いかたをしていて、
「外出する前にトイレに行っとかなくちゃ、ってのが行動、尿意を覚えてトイレに行ったらそれは行為」だと。

高次、マインド、五感がコヒーレントになって(一貫、整合して)、
高次がマインドを喚起し、マインドが五感を喚起し、と、磁力(引き寄せ力)が働くとき、
五感的な感覚の統覚像としての行為は、
高次、マインド、五感からなる宇宙全体の構図の一部として、全体の構図にかなうように隆起してくる。
「行動」思考する余地なく、歩いているそこが道になる。
高次、マインド、五感、いずれの現実でも、何かを実現させるコツがあるとすれば、
あるタイミングで起きてくることに逆らわない、尿意を我慢しない、ということだけなのでした。


時代は変わったのじゃ。すごいぞ。
私は、こないだまで、図書館で借りた『「感謝」で思考は現実になる』(パム・グラウト・著/桜田直美・訳/
サンマーク出版/2017年3月刊行)という本を読んでいたのですが、
この本、感謝がどうとかよりイカレた事例が多くておもろかった。
著者はもとからオカルト畑の人ではなく、旅行作家なので、文章にも「引き」がある。
とくに出色なのは100ページ目に出てくるキャサリン・ビーハンという女性の例。
この方は恋愛系アプリとか相談とかを仕事にしていて、お兄さんから、
「いつまでそんなチャラいことやっとんねん! まともな仕事せい!」と言われどおしだったらしい。
が、「宇宙がわしを好いとって、幸せになってほしいと願っとるゆうんがもし本当やったら、
わしはただ幸せでおればよく、細かいことは全部宇宙に丸投げでだいじょうぶなはずや」
という仮説を立てて、犬といっしょにビーチに行ったり、海を眺めたり、
そういう好きなことしかしない生活をやってみたという。
「こうなったら素敵」的なことを書いた日記もつけていた。
最初のうちは、「破産するで」とか「働くのは大人の義務やで」といった3次元マインドのツッコミが
うるさかったが、「美しいものだけに集中し、やりたいことしかやらないようにした」結果、
頭のなかの声が止んだ。
すると、気球に乗るイベントや無料クルーズに招待されるとか、遺産でまとまったお金が入るとか、
ワークショップに参加するためのメキシコ行きとか、チャンスが向こうから来るようになった。
日記に書いていたことが、薄気味わるいくらいそのとおりに実現していったそうな。

これ、海なし県に住んでいても、インドア大好き引きこもり派でもできると思う。
ただ、頭のなかの「行動」思考に針(ラジオや計器の針のイメージ)を合わせていたら、
こうはならないだろうな。
むかし、似たようなことをやってスッテンテンになってしまった人の話を本で読んだことがあるし、
オカルトセミナーに何百万円もつぎ込んで得るところなく貧乏になった人の実話も知っている。
この人たちの場合、頭のなかが幸せではなかった。
幸せというのはマインドの状態であり、五感的な感覚ではない。
環境を変えたらとか仕事を辞めたらとか、関係ないのだ。

同日の追記

セミナーに何百万もつぎ込んだ人の件は、
ご本人的に武勇伝になってる観ありで、深刻なエピソードではない。
最短ルートをエクスプレスで行ってもいいし、寄り道も乙。
自分で決めればよろし。
  1. 2021/04/19(月) 15:12:21|
  2. 実現のメタフィジクス
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引き寄せや波動アゲのテクニックとしての感謝について

2021.4.13(火)

いわゆる引き寄せの法則というのは、
高次の世界→マインドの世界→五感の世界と、感覚の質と濃さが異なる世界を貫いて、
垂直に磁力(引き寄せ力)が利くということです。
たとえば、高次の「涼感」がマインドで「アイスクリームのイメージ」として具体化し、
さらにそれが「ハーゲンダッツ」とか「爽」とかの五感像として具体化する、など、
非五感的な認識(感覚)が、それに似た、より具体的な認識(感覚)を喚起すること。
この似た感覚を喚起する力が磁力、引き寄せ力です。
実現の場が「マインドの現実」であれ「五感的な現実」であれ、
喚起することは、実現している場に飛ぶことでもあります。
無数のパラレルワールドのなかを、場から場へ、磁力にしたがって移っていっているといってもいいでしょう。

最も具体的ではっきりしている「五感的な現実」は、
自分を感じ手(認識者であり同時に創造者である統覚視点、宇宙の軸としての自分)とする創造が完結する
最終局面です。
これが、色とか触感とか、自分の感じているいろんな感覚をまとめた統覚“像”であれば、
磁力が作用しますが、
感覚の向こうに、感覚の対象として「物質」があると考えていると、磁力は利きません。
磁力は感覚(認識)が帯びている喚起力、波及力ですが、
物質はエネルギー保存の法則とかアボガドロの法則とか、それ自身の法則で動いていて、
自分の感じかたによって物質のふるまいを左右することはできないからです。
自分の認識(感じかた)とは関係なく物質が存在する(認識≠存在)と考えると、
想定したとおりに自分の感じかたと物質は別々に切り離され、磁力の利かない世界になります。
なので、「物質は物理法則で動くから“引き寄せ”などない」と想定することによって、
そのとおりに引き寄せのない世界が出力されているわけですが、
ともかく、物質が究極の現実で、考えも感情も物質(身体)に帰着させられると想定していると、
磁力は停止し、引き寄せは起きません。

そんな想定をした覚えがなくても、
外側に物でできた世界が広がっている、これが本当の現実だ、という感じがリアルであれば、
習慣的に「感覚の向こうに物質がある」という想定が刷り込まれているということです。
「外側」というのは、自分の感覚(認識)と感覚の対象(存在)が分断されているときの感じかたで、
自分の感じかたとは別の規準(物理法則)をもつ何かがそこにあるということ。
習慣になっているとは、「(想定である)物の世界からの刺激に反応して物の世界に対処する」
行動パタンを幾度も反復して、
理屈ではなくオンザジョブトレーニング的に、考えなくても反射的に動けるくらいに、
「物がある」想定世界でのふるまいかたを習得しているということ。
意識しなくても物イコール現実として考え、動ける状態が、筆者のいう3次元です。
「感覚の向こうに物質がある」という想定がはずれて、
自分の感じかたをそのまま高次やマインドや五感の現実としてとらえるようになる、
そっちが習慣になると、3次元ではなくなる、つまり非3次元です。

物イコール現実という感覚が生々しい3次元意識だと、
自分の認識とは関係なく、物はそれ固有の法則で動いているので、
物の法則に合わせていかない限り現実は変えられず、思考や感情が帯びている磁力は利きません。
しかし、認識とその対象(存在)の関係など考えてみたこともなく、習慣的に3次元意識のままでも、
何かかなえたいお願いごとがあったりする場合、
磁力をアクティベートする裏技はあります。
それは、磁力が利かない世界(3次元)を実行中にもかかわらず、
目の前に広がるものごと、起こっている出来事を、物の法則ではなく磁力の結果だと認めてしまうこと。
物の法則をベースとする過去の経緯とか世の中の情勢とかではなく、
自分の考えや感情(マインド)が引き寄せ力(磁力)を発揮したからこうなった、と認めてしまうこと。
つまり、磁力はある、引き寄せは起きている、と、いきなり肯定してしまう。
これから起きること(願いをかなえる)によって証明し納得するのじゃなく、
すでに起きたこと(そのとき体験していること)をその証拠だとしてしまう。
なら証拠はすでに挙がっているのだから、これから起きることにだって磁力は作用する、
引き寄せは起きる、当然、願いもかなう。
そうやって、何度も何度も磁力を確認していると、もう物の法則とか過去とか世の中とかは意識しなくなり、
逆オンザジョブトレーニングによって非3次元に移行してしまいます。

まず現状を磁力のせいだと決めつける、このやりかたは、
引き寄せ本などでは、「すでに得ているものに感謝する」として紹介されています。
住んでいる家、飲食物、衣服、家具、家電、財布とそこに入っているお金、
身近にいる人、職場の人、宅配の人、コンビニやスーパーのレジの人、ペット、植物、などなどに、
「ありがとう」と言ったり、感謝の念を送る、飛ばす。
その程度ではありません。
朝、起きて目に入る天井、目覚まし時計、床、自分の手足、空気、水道、鏡、歯ブラシ、歯磨き剤、タオル。
その程度ではありません。
広告メール、開けないファイル、税金の納付書、なんか記入して提出しろという紙、人から聞かされる愚痴、
あてこすり、低評価ボタン、挨拶を返してこない近所の人、窓際を横走りしながら自分に吠えかかる小型犬、
頭痛に感謝しながらバファリンにも「ありがとう」って矛盾してないか? とツッコミつつ「ありがとう」。
・・・と、ことの大小を区別せず、ポジネガの差別なく、見境なく、バカのひとつ覚えみたく、感謝せよ、と。
すでに磁力はある、作用していると認める、
つまり(外側に想定した物の法則じゃなく)自分のマインドの磁力がこれらのことを起こした、
と全面肯定するなら、これは些細なことだとか、これは嫌なことだとか、差別していてはだめなのです。
このオールシーズン大感謝祭りは、たしかに効果があります。
しばらくつづけていると、頭のなかの雑音や、雑念の雲がなくなる。
澄み晴れ渡った、オカルト語でいう「高波動」マインドになります。
と、ネガティブなことが少なくなり、ポジティブなことが増えていくし、
トラブルが起きても、なぜか自然に解決してしまう。
そして「感謝している(磁力を認めている)」心理状態が恒常的になると、
3冊の引き寄せ本の著者、パム・グラウト氏が言うところの「感謝の周波数に乗った」状態になり、
これは磁力全開状態、
できる、わかるが当たり前の「通常ポジティブ」なマインド、じつはもう非3次元です。

ただ、このやりかたには、無理をすると、ダブルバインド(矛盾した指令を受けることによる二重拘束)に
陥って、表向き否定された3次元思考の圧力が増すという難点があります。
本音は「チッ」「全然ありがたくねえわ」「めんどくせーわ」と“感じて”いるのに、
口先だけで「ありがとう」とやっていると、
表層的には善い人になった感、向上した感がありますが、
いずれ恨みが爆発します。
なので、実際嫌なものは嫌なんだからポジネガ無差別ってのはむり、とか、
ありがとう教なー、バカっぽいわ、やっとるやつおるけど貧乏やで、というのが本音なら、
まず自分に合わない(ネガティブな)感覚を3次元の想定ごと手放すことからはじめたほうがよいと思います。

感謝の表現が日本語でも外国語でも、
3次元地球語の感謝って、じつはかなり重いです。
「感覚の向こうに、それ固有の法則をもつ客体X(ふつうは物質)がある」ことを想定した3次元ワールドでは、
自分の認識イコール創造次第で資源を無尽蔵にできるわけではないので、
あらゆる資源、機会が有限です。
人や自然界から何か受け取るとすると、偶然にせよ必然にせよ、文字どおりそれは「有り難い」わけで、
これがアストラル波動(マインドの感覚)的にズシッ、と重たいのです。
3次元実行中の人から発せられる心からの感謝も、
合意現実が形成する集団道徳や社交マナーとして奨励される感謝も、
この「有り難い」前提の重量が常識です。
この重たさのまま「有り難う」を連発、大盤振る舞いしていたら、そりゃめんどくさいし疲れるし、
10個もの添付ファイル中5個を開けない形式で送ってくるやつに感謝なんかできないに決まっとる。
磁力の利く世界、非3次元の感謝の周波数はもっと軽く、速く、いうなればチャラチャラしておって、
会社の同僚の出張土産が自分のフェイバリットスイーツだったときの「うぽっ☆あざす」みたいなのが、
バスケットボールのパスとかクリックくらいの速度で回ってる感じ。
だからといって決して機械的ではないし、社交辞令もありません。
ポジが通常設定の世界なんで、感謝という認印、受け取りサインにも、必ずうれしいという気持ちが乗っています。
地球語で近い表現はフレンドリー、明治大正ふうの日本語だと「きみぼく」っていう感じかな。
手放しがある程度進んでいると、このへんの塩梅が直覚でわかると思います。
  1. 2021/04/13(火) 16:38:04|
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欲求を「意図」にする

2021.4.7(水)

ハーイ、ミルコメダ部(笑)からのお知らせです。引き寄せ技のシェアだよ。
統覚視点まで下がって、マインドにある自分に合わない感覚(周波数)をゼロポに還す、手放す、
これがある程度まで進んで、問題を作出して悩むパタンが終わった人向けです。

①床に足を組んで座るか、椅子に座るかします。
「自分」意識が統覚視点まで下がっていることを確認します。

②自分が望んでいること(複数可)を声に出して言い、
頭のうえの空間に、望んだこと(複数可)がすでにかなっている世界を、光の球体として召喚します。
光球は無数にあるパラレワールドのひとつです。

③息を吸って、吐く息とともに、光球から光を降ろします。頭のてっぺんからまっすぐ降ろして、床下まで貫通させます。
次に、息を吸いながら、光を床下から汲み上げて、胸のまんなかあたりまでもってきます。
そして、胸の中央から周囲360°に、息を吐きながら光をあふれさせていきます。


何年か前に、3次元の天体としての地球にグラウンディングするのではなく、
出身星や銀河核からの光を降ろして、その光と共振する地面にグラウンディングする、という方法を
紹介したことがあります。この引き寄せテクは、それと同じ原理を使っています。
これをやると、高次とマインドですでに実現している世界と五感的な感覚の間にコヒーレンス(一貫性)ができ、
五感的な感覚ゾーンが未実現という空隙を埋めるべく動きだします。
光は何色だとか、呼吸のしかた(呼気や吸気の頂点で止める、止めないで折り返す、秒数など)、
目は開けておくのか閉じるのか半眼か、何回やればいいのか、
そういった細かいことは自分で工夫して、しっくりくるやりかたに仕上げていってください。
アレンジしてもいいです。
合わないとか関係ないと感じたらスルーしてください。
セルフアセンションでは、提示されてくるメソッド、ツールは基本的に自分用です。
公開されている情報を参考にしたり、取り入れたりすることはできますが、
誰かのやりかたに倣っていればうまくいくとか、
集団で名所を訪問、移動していくパッケージツアーみたいなのはありません。

引き寄せネタがないときは「いつもワクワクしていて楽しい」というような大枠的な指定をしてもいいし、
逆に「新幹線の通路側の席が買える」といった、みょーに細かくて具体的な内容でもかまいません。
チャネリング、ヒーリングとかのオカルト能力開発系でもいいし、
すでにとりかかっていること(アート、スポーツ、料理など)の上達を目標にするのでもいいでしょう。

五感ゾーンに光球の磁力(引き寄せ力)が働きはじめる、とは、
「(ないからこそ)欲しい」「(そうじゃないからこそ)そうなりたい」という、
カッコのなかのような欠落ベース、未到達ベースだった欲求が予定化する、
すでに仕上がっている世界に向けて動きだすということです。
これが意図するということ。
意図したことは到来します。
道を渡ろうと決めれば、「うまく渡れるだろうか」とか「時速何キロで歩けばいいか」などと考えたりせず、
ほぼ反射的に、習慣的に、左右の足、体幹、視覚など全身の感覚を使って歩いていけますが、
ちょうどそのように、高次とマインドの意図は、五感ゾーンで実現する予定に組み込まれます。
道を渡ろうと決めればサッサと渡れるのは、考えるまでもなく渡れて当たり前だから。
つまり渡った先の地点に自分がいることを許容できているからです。
ただし、これが雪道だったり、道じゃなく吊り橋を渡るとかだったりすると、
最初のうちは、渡れて当たり前マインドにはなれないかもしれません。
意図するということも、何回か繰り返して、「意図したことは到来する」と実感できれば、
到来して当たり前の許容マインドになります。
そういえば、「感覚の向こうに物質が実在する。これが本物の現実で、すべては物の法則次第だから、
意図したことがそのとおりになるとは限らない」という3次元世界の取り扱いかただって、
いろんなケースで幾度となく、さんざん練習して習得したのでした。
意図すると、実現に向けて宇宙が動きだし道が敷かれるのですが、
慣れないうちは、引き寄せ自体が信用できなかったり、
「学費を稼ぐ→勉強→資格をとる」みたいな直線思考からはずれるワクワク感にとまどったり、
ときどき、3次元では現実的とされる妄想的な情報に引っかかって現状をチェックしたときなどに、
できない、ありえない、スキルが、時間が、お金がない、ほかの人はさておき自分にはむり、
これでだめなら後がないから保険をかけておかないと、などなどのマインドがぶり返してきたりします。
そういうのを気づき次第、手放していくと、許容マインド、当たり前感が出てきます。
とにかく、ブロックが出てきたら、いちいちそれに嵌り込んで欠落感や過去の失敗記憶を味わったりせず、
「あ、これちがう」と感じた段階で統覚視点まで下がって手放していきます。
欲求を意図にすると到達度や進捗は気にならなくなるので、
あとは非3次元マインドで、その場その場でやりたいことをしたり休んだりしてればいいだけ。

「感覚の向こうに物質が実在する。これが本物の現実で、この現実は物の法則ベースの常識で決まる」
という想定にもとづく3次元の考え、3次元の感情、3次元の気分が終わっても、
誰かが修了証とか覚醒者ナンバー付きカードとかを発行してくれるわけではありません。
じゃ、どうしてそれがわかるのかというと、
マインドの通常設定がポジティブになり、「できる」「わかる」が当たり前になるからです。
3次元の「ピンチ」は非3次元の「チャンス」です。
なぜそんな能天気でいられるかというと、
高次、マインド、五感のコヒーレンス(一貫性)が回復して、
「右」「左」「ターンして」「休憩、チャージ」というようなことが直感でわかり、すぐ動きにつながるからです。
行為は、家に入るのにドアを開けるとか、電灯を点けるのにスイッチを押すみたいにスムーズで、
いちいち「行動しなくちゃ」などと考えたりしません。
どうすれば、何をしたらいいだろう、と悩み煩うことがないのでコスパもよく、
3次元では慣れっこの疲れ、ダルみもありません。
マインドが自由になるので、高次の閃きが「右」「左」「ターン」「チャージ」といったマインド語(考え、イメージ、
感情、気分など)に即変換され、
磁力(引き寄せ力)も全開になるので、マインド語は五感に即つながります。

そういう流れは、がっつり3次元をやっていたときにもあったし、3次元から非3次元への移行期間にも
ありました。すべては、ブロック(3次元世界を立ち上げている想定にもとづく考え、感情など)がはずれて、
もとに戻るだけです。
フルで3次元をやっていると、マインドは3次元をつくっている想定に囚われているので、
高次の感覚は無視しますが、
3次元をやめる(もとに戻る)と決めて、移行(回帰)しはじめると、
高次の感覚をマインド語に変換できるようになってきます。
この期に及んで、筆者の宇宙が、オカルト界では古典風味のある引き寄せを推奨してくるポイントはここ。
高次の感覚をマインドで意図にして、五感につなげて使っていく、それに慣れる練習です。
同時に、まだ残っている3次元想念を手放していく。
3次元から非3次元へと移行(回帰)するさいには、
外(想定した物質世界)に反応して働きかけるパタンに慣れているので、
ああ、このパタンに沿って考えてるから「問題」が起きていると見えるんだな、というふうに、
自分と合わないマインド感覚に気づくことや、それを手放すことには、わりと抵抗がありません。
が、高次の感覚にはまだ疑いやビビりがあって、
せっかくマインド語になっても、「ないわ」「インチキくさ」「気のせい」とかって、
スルーないし保留してしまうことがある。
それをアクティベートするのです。
もちろん、「マインドの現実」で完結すること、何度も聴いた曲がまるで初めて聴く音のようだったとか、
本を読んでいたら文章とは関係なく未知の風景が浮かんできたとかいうこともありますが、
そういう感性的な広がりや深まりは、五感全体のポジ化に波及します。

非3次元優勢になると、意図すること、予定化することは、非常に重要な意味をもつようになります。
物質を想定していた3次元では、最終的な実現の鍵を握っているのは、物質環境に働きかける行為であり、
さあ行為に踏み切るぞ、という思考である「行動」でした(行動は行為ではなく、行為をめぐる思考です)。
たとえば、企画書を作成して売り込みをかけるとか、当たって砕けたら学習して再起するとか、
さあ断捨離だ、どっこいしょ、と立ち上がって整理整頓をはじめるとか、そういうやつ。
でも非3次元では、磁力(引き寄せ力)を停止させていた「物質という想定」がなくなるので、
高次からマインド、五感へと具体化していくプロセスは、まんなかのマインドのところでほぼ固まります。
五感の動きである行為は意識しないくらい軽く速くなるので、ここで問題が起きることはありません。
行為が軽く速くなるのは、五感“像”は自分の感じかたそのものであって、物ではないからです。
つまり、「五感の現実」は意図することでほぼ決定します。
オカルト巷間でいわれている「風の時代」とはそういうことなのでした。
  1. 2021/04/07(水) 15:47:51|
  2. デムパなメソッド
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みけ@猫科ホールディングス

Author:みけ@猫科ホールディングス
アルクトゥルス系在地球人。
男女どちらにも属さないトランスジェンダーで、
イタリアの美少年のような豹専務(♀)が同居人。
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